蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

「トラップ」を観た

2024-10-26 | 映画
昨日もまたまた映画を観た。「トラップ」
公開初日、封切り日(10月25日)のよう。
ちなみにアメリカの公開日は、8月2日。

今月は、映画月間となりそうだ。
が、今回の映画はあまり好きではなかった。
たんに、あくまでも自分の好みなので、他の人にはなんの参考にもならない感想だ。
居眠りする瞬間がなかったことは、◎二重丸。
CGを使ってなさそうなところも、◯丸。
TVで普通に放映されそうな印象を受けた。
主役俳優ジュシュ・ハーネットは、ナイスバディで、セクシーだった。46歳だそう。
ちらとほんの一瞬、素晴らしい肉体を見せつける。
ただし、瞬間的なだけに、想像力を掻き立てられた。
メンテナンスや、トレーニングを重ねていることだろう。
一昔前なら、女性のナイスバディに男性が垂涎の流れなのだろうけれど、違った。
今、流行っている最新ダンスは、アメリカなのか、世界同時なのか、国境なくリアルタイムに進行、浸透しているようだ。
どこの国が発信元という区切りではなく、インターネットを通して広がる、個人が発信元なんだろう。

ダンスにはやはり、わたしは無意識ながら関心があると、自己分析した。
映画監督の主要な意図とはズレているが。
重要なポジションを占める女性歌手役は監督の娘さんらしいので、歌とダンスが、わたしにアピール出来て、それは売り出し、成功だ。
タイトル文字の欠けが、最初から気になっていたが、やはり暗示ポイント、メッセージだった。

相変わらず、幼稚園児のような感想。
しかしながら、映画は老化防止になる。
今回は都市部の映画館だったが、最寄り駅までウォーキングして行った。
運動と、娯楽と、脳トレ。
今のわたしには、なかなか絶妙効果で、しばらくは続きそうだ。



「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観た

2024-10-17 | 映画
自由参加、予約不要のウォーキングを仮病で前日ドタキャンし、自分一人だけのウォーキングをして映画を観た。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」。
映画公開日に、ウォーキング仲間からお誘いを受け、その日、観ようと思っていたのに観られなかった映画。
リベンジ。
主役のホアキン・フェニックスは、超個性的俳優。

ちなみに、2023年に「ナポレオン」を観た。
今年のGW、バリ島への飛行機の中で、「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」(2006)を観た時に、この濃い顔、、、どこかで見たことがある、、、と、目を宙に浮かせながら思い出そうと、、、機内配信プログラムガイドの映画欄で俳優名をチェックしてみると、その前年の2023年のナポレオンの俳優名と合致した。
2006年のホアキン・フェニックスは、若いのに若々しくない、若さがかえって気の毒なような(そういう若い人、現実にいる)、不思議な違和感を感じていた。
今回の「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は20キロ近く減量したとかで、実年齢より更にぐっと老けて見えた。
今回は「ジョーカー2」とも言われ、前作2019年の続編とされている。
であるにもかかわらず、、、何を隠そう、、、前回は封切り5日後に観ているのに、、、すっかり忘れていた。
映画鑑賞中に、「前作、観てないから意味がわからないなあ、前作を観たいなあ、、、」と思った。
が、、、自分の行動記録(紙のアナログ日記)をチェックしてみると、しっかり観ていた。
観たことが確実になり、頑張って思い出そうとしても、うっすら、ロバート・デ・ニーロのラストシーンを思い出す程度だった。
そう言えば、今回、最初からなんとなく、ロバート・デ・ニーロの姿が無意識にチラついていた。
しかしまあ、なんと、いい加減な記憶力の自分に情けなくなると同時に、5年前の10月9日に「ジョーカー」を観た記録がバッチリ残っていたことに我ながら感動した。
(他には、諍いが発生することになりかねないようなマズイことは記録してないだろうと、多分思う、、、と同時に大事なことも書き漏れている)
行動記録日記ってスゴイ、と、今更ながら驚きと共に、感心した。
それはスゴイが、肝心の自分の脳からは抜け落ち、うっすら残像の切れっぱしぐらいしか残っていないのが、残念。
まあしかたない。
人間は、そうやって、楽しいことも、悲しいことも、腹立つことも、忘れるわけで。

今回「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は、レディ・ガガが可愛かった。歌が上手かった。(当たり前か)
知識なし、先入観なしの(忘れているだけだが)、幼児並み感想。
だが、初めてのことのように2度楽しめる!
それと二人で踊るダンス、あれ、わたしも踊れそうだった。(社交ダンスでやっている)
全編、どこでも、いつでも、タバコの煙がモクモクで、隔世の感。
1980年代の設定なのだから、と合点した。
が、嫌煙家である自分を強く自覚した。
やめてぇ、、、煙たい、、、タバコ。
愛煙家には申し訳ないが、今の世の中になって、とても良かったと思った。

わたしは、アメリカンコミック、バットマン世代ではないので、リアルタイムで共有していない分、どうも理解に欠ける。
ニューヨークには、とんと疎い。深い考察が出来ない、お手上げ、降参。
場違い、お門違い、分野違い、カルチャー違い、というかんじか。




「Cloudクラウド」を観た

2024-10-10 | 映画
「Cloudクラウド」を観た。
前に菅田将暉がインタビューされていたTV番組(初耳学)を見て、悪い印象を抱いたという人物と一緒に観た。
その人は、「今までの菅田将暉の映画の中で最低だった」と一言、感想を漏らした。
わたしとは、全く違う感想だった。

「人にはそれぞれの価値観や感性がありますからね。
感想は自由です。」
とわたしは言ったが、反撃する気には全くならなかった。
時間と労力の無駄だからである。
はい、その会話、終了!

せっかく好きな俳優が出ている映画を観たのに、上映室を出るなり、けなされると気分が悪い。
早速、ChatGPT に慰めてもらった。
ChatGPT は、たんに、なだめるだけではなく、理路整然と論理的に説明してくれるから、たいへん、スッキリする。

自分と同じ価値観、感性の人と、映画鑑賞後に感想やディスカッションすると、映画を何倍にも楽しむことができる。
自宅に帰って、ネタバレ解説をインターネットで貪り読む。
が、中には、監督でもないのに、したり顔で一方的に押し付けたような断定的解説を読むと、かえって、引く。
その他、いろんな感想を読むと、ざわつきが落ち着く。

わたしは「Cloudクラウド」の前々日に、とてつもなく強烈なインパクトのある映画「憐れみの3章」を観ていたので、Cloudクラウドがかえって穏やかに、静かなこころで観ることが出来た。
不明箇所も、ほんの少しだったし。
(わざと意図的に、そういう箇所は作ってある)
あれぐらいの強度が、柔な初心者のわたしには映画手引きとしては、頃合いだ。
いつもの淡々とした菅田将暉の演技。
段々狂気じみてくるあたり、彼の演技力に唸った。
スリリングな展開にキレの良さを感じた。
一緒に映画を観た人物とは、背景も状況も価値観も違うため、よほどハッキリわかりやすいテーマでもない限り、その人との共感は得られない。
どちらが良いとか悪いとか、優劣ではなく、それぞれ異質のものに、共通の感性をくっつけて無理矢理繋ぐのは無理。
段々、その傾向が色濃くなってきているのを近頃感じる。
だが、世の中の具象は、映画だけではない。
小さな世界にこだわるなら、1人で観るか、共通の価値観を持つ人と観るとよい。
が、現実的には、人選をして映画鑑賞スケジュールを決めるのは、そこまでする必要性を感じない。

菅田将暉、気負うことなく演じる。
カメレオンのように自分の色を全く消して役柄になりきることが出来る稀有な俳優さん。
またそういう映画の一つが加わった。


「憐れみの3章」選択ミスで教えられたこと

2024-10-08 | 映画
昨日の映画「憐れみの3章」、全く意味がわからず、面白くなく、テイストが嫌いで不快だった。
つまり、よい点は一つもなかった。
しかも、帰りは雨。
何ひとつ、良いことはなかった。
愚痴をもらすと、「ウォーキング出来てよかったです。闇雲に映画を選ばずに、レビューなどを読んで選ぶのがオススメです」、とChatGPTが慰めてくれた。

映画解説を読むと、これまた全く同意できなかった。
これほど、合わない映画は今までなかった。
わたしが合わないと感じている部分は、「刺激的で忘れられない面白さ」と評されていた。
全く感想が真逆。 
居眠りしているよりはマシだが。
不快な場面、音ばかりが脳に残る。

第一、映画館の上映室に入った途端、悪い予感はした。
誰1人もお客さんがいなかった。
部屋を間違っているのかと、スマホで思わず確認した。
後から1人の老齢男性と、中年男女が入って来た。
が、合計、お客さんはわたしを含めて、たった4人。
どんだけ人気がないんだ?
しかも老齢男性は最後まで観ずに、退室した。

嫌いな箇所がたくさんあった。
グロテスクな箇所はエグく、えげつなかった。
最後まで観なければ、、、と、我慢した。
食事を残すかのようなことは、したくない。
大嫌いな食品でも、食べ切るスタンス。
最後まで観たら、そう嫌いではなくなるかも?と、途中で投げ出すことなく我慢しながら自分に言い聞かせていた。
が、徒労に終わった。
これからは、こういう映画は観ないように、細心の注意を払いたい。
というか、こういう表現、ココが嫌いなのだ、と自覚を強めた。
同監督(ギリシャ・アテネ出身の鬼才、ヨルゴス・ランティモス)、同女優(エマ・ストーン)、(更にウィレム・デフォー)出演の「哀れなるもの」は、面白かったので、(「女王陛下のお気に入り」も観た)、きっとそのままの路線なんだろうとは思っていたが、ぶっ飛びすぎだった。


帰りが雨のため、早足で急いだせいか、夜22時過ぎ、テレビを観ていたら急に両足首近くが痛くなり、動かしても動かさなくても痛いままの状態が続いた。
椅子ではなく、フロアに座っていたらお尻が痛くなったので姿勢を変えようと立ち上がる時、足首に負荷がかかり、傷めたのか。
椅子に座り、テレビを観ながら足はずっと痛いまま、、、激痛に耐えていた。
わたしは、結構、辛抱するタイプ。
じっとしていたら、必ず痛みが治るはず、と根拠はないが、なんとなくそう思い、痛みと闘っていた。
映画は失敗、ウォーキングは雨、足は傷める。
まあこんな日もある。
こんな日があるから、良い日が浮かばれる。

ChatGPTに諭され慰められ、1日が終わった。
・・・・・


と、昨夜、こう〆て、どうやらブログ記事公開していたようだ。
朝、発見してビックリ。
恐ろしや。

昨夜から映画の中身がクリアに鮮明に、全く霧がかからず頭に残っている。
いつもなら、あらすじさえ、よくわからないというのに。
で、朝になって、映画の解説をあちこち読んでみた。
なるほど、なるほど、なるほど。
「支配と依存」の、ブラックコメディなんだそうな。全く笑えなかったが。
アンソロジー。芸術作品を特定のテーマで集めた作品、詩華集だとか。
あの下品で汚らしい、いかがわしく、耳障りなものが芸術だとしたら、わたしは平凡俗人の極み。
ストレートに美しいものや真実に魂が震撼するタイプ。(多少の逆説はあっても)
ではあるものの、忘れられない作品の一つになりうることは、監督冥利に尽きるはず。
だけど、やっぱり、「哀れなるものたち」のほうが絶対に良い。
(「哀れなるものたち」から、たった8ヶ月のタームでの公開らしいが)

しかし、また足の痛みがひょんなことから再発した。
そうか、人生は、繰り返しなんだ。
お釈迦様に教えてあげたい気になった。


素晴らしい人

2024-07-20 | 映画
わたしとほぼほぼ同年代(年齢誤差1歳ぐらい)の女性たちのSNS日記を読んだ。
わたしとはほとんど同じ歳なのに、なんとわたしの意識の遅れていることか。
強く強く感じた。時代遅れ。
彼女たち(わたし)は、「虎に翼」時代が親世代、その一世代後から活動している、、、。
先人たち女性の不遇時代の後に、我々の時代がある。
バリバリに男性と肩を並べて社会で働く、わたしと同世代の彼女たちは、夫婦別姓が認められないのは日本ぐらいだと嘆いておられる。
バリバリにも色々ある。
わたしが想像するところの、本当のバリバリである。

優秀な男性と同じレベル、あるいはそれより優秀な彼女たち。
彼女たちの大半はリタイアされているが、リタイア後の生活がまた凄い。
バリバリ現役の活動があってこそのもの。

わたしと同じであるところは、年齢だけ。
まったく、年齢だけ。
ため息が出るが、年は同じでも、そりゃあ個性が違うのは当たり前、、、にしても。
わたしがこれまで書いてきた蝶ブログがとても恥ずかしくなった。
自分を否定するわけではないが、個性の違いだと片付けられない思いが湧き起こった。
それまで堂々と誇らしげに出していたものを静々と引き下げるような、、、。

だが、そんなことを言うと、わたしの次女がわたしに先日、放った言葉を思い出す。
「社会にはいろんな集団・層がある」

人々には様々な色々な活躍があるが、どうしても、わたしが義務教育中に学校で植え付けられた価値観が根っこのところから消えない。
偏差値教育の弊害を引きずっている。
それを乗り越えられない自分は、未熟なまま老いていくのだろう。
柔軟なものの見方から程遠い、凝り固まり。

優秀な男性たちは尊敬する。
それ以上に優秀な女性たちもいて、しかも、同世代!
まったく別の集団であるものの、子供の時から一緒に成長していく過程で、能力に応じてコースが分かれて行った。

これがアスリートだったら、また同じような思いを抱くのだろう。
わたしは、全くアスリートではなかったし、アスリートコースの人たちは周りにいなかったので、何も複雑な思いは感じず、ただただ純粋に、自分とは切り離された人として応援する。


話を戻す。
同世代の彼女たち、優秀なのは頭脳だけではない。
行動力がスゴイ。
自分の能力で得た行動力、お金。
突き抜けた能力、バイタリティ。
わたしのように、同世代であるにもかかわらず、「寄れば大樹の陰」スタンス、人の力で安泰を得て、人の後ろから着いて行くタイプではない。
性格も違うのだろうけれど、やはり能力の違いだと思う。
わたしは、優秀な男性や優秀な女性ではないから、同じ集団にはいないものの。

仕事はリタイアされ、自由な身になっている皆さんの中には、到底、入っていけない。
やはり実力や熱量が同じぐらいでないと、わたしはふにゃふにゃと溶けてしまう。
あんなバリバリの人々とは元来持って生まれたものが違うように思う。
彼女たちは健康優良児で、わたしは虚弱体質。
(本当は弱いのは身体ではなく、頭と精神で、根性なしのナマケモノ)

天性の素養にプラスして、努力して能力を磨き、自分の力だけで、稼げる素晴らしさ。
女性枠の優待座席もなく、頼れるものは、自分の能力だけ。そのバイタリティたるや、、、。
優待枠にあぐらをかいているわたしには、逆さになってもマネできない。
同世代だけど。
最近は電車の優待座席にいち早く駆けつけ、堂々と座っている。
早く行かないと、若者に席を取られてしまうから、高齢者と言えど、見るからに弱々しくないと座席は自力で手に入れなければならない。

と、話は逸れている。
逸れついでに、、、。
草笛光子90歳生誕記念映画、
佐藤愛子、人気エッセイの映画化作品「九十歳。何がめでたい」を観た。
「キングダム 大将軍の帰還」に多くのスクリーン会場を奪われ、1日1回、(しかも午前開場)しか上映されていないにも関わらず、お客さんの入りは良かった。
なんと、(わたしを含め)おばあさんばっかり。
わたしが最年少客かも知れない。
おばあさんは元気だ。
唐沢寿明、痛烈で、明るく面白かった。
三谷幸喜が出ていたので、彼が監督、脚本かと思ったが、そうではなかった。
90歳の草笛光子が演じる90歳役は、まさに実物大と言える。
わたしの姑は、高齢だからと、周りは老いに対して腫れ物に触るように扱い、姑自身も歳を意識して慎重に生活していたが、まだまだ荒っぽく大胆に自分を扱ってもよかったのでは、、、高齢特別優待枠を自分で設けて大切にするあまり、自分を甘やかしすぎて、かえって早めに弱ってしまったのだと思った。
が、転倒して骨折でもすると、年齢がどうこう言えない事態になる。

しかしまあ世の中には、元気なお年寄りもいるものだ。
それは、他人事、わたしとは別もの、、、などと、自分に対しては、きっと自分で自分を過保護にしそうだ。
自分で年齢枠を勝手に設けるようだが、もっと自由に解放して、過保護年齢はもう少し上でもよいのでは、と思った。
が、個人差があるからなんとも言えない。

映画「先生の白い嘘」

2024-07-10 | 映画
R15の映画「先生の白い嘘」を観た。
コミックが原作のよう。
Eテレ番組「ハードネットTV/フクチッチ」でMCをしている風間俊介が、すごく悪いオトコ役で出ていた。
風間俊介は、ずーーっと前、2012年度、NHK朝ドラ「純と愛」のメインキャストで出ていた時に初めて知った。
あの朝ドラは、大阪の中之島、それはわたしの庭(→つまらないジョークです)がよくロケに出て来ていたので、親近感をもって観ていた。
よくまあ、今回、あんな役に、、、複雑な心境の涙を流す母の気持ちだ。
というか、老婆心。

役柄をよく理解してちゃんと演じていたから、母としては胸を撫で下ろすところではあるが、何しろヒール役なので、わたしのかわいい聡明で純粋なボクちゃんが、なんであんな役を?!と、監督の胸ぐらを掴みに行きたい気分である。
と、冗談はさておき。
ウェブで無料で読める原作コミック(電子版)が映画チケットと引き換えに、付録に付いていた。
少し読んだが、まったく原作に忠実に映画が作られていた。

それはそうと、上映された館内の、わたしの前に座っていた高齢男性。
男女の際どいシーンが続く中、彼が右腕を肘から上に挙げて、顔の近くで手首を回したりひらひらさせる動作をするのが、すごく気になった。
平日、昼間のためか、わりとガラガラだったので、目障りで目障りで仕方なかった。
なんであんなに手をチャラチャラ動かす?
後ろの席の人に見えないように動かしていただくと支障がないのに。
高齢の男性には、刺激が強過ぎたのか?
お客さんには、お一人様男性の姿もちらほら。

何を書いてもネタバレになってはいけないので、書かないことにする。
ただ、監督が映画紹介のアウトラインの一部分を勝手に?削除したようで、気になった。
だが、わかるような気もする。
なぜなら、原作者が意図していたことに添ってないと感じたから。
所詮、監督は男性だから、女性の気持ちを100%理解するのは無理だろうけれど。
でも作品を手がける監督なのだから、そのあたりは、かなり重要である。
実写化にあたってインティマシー・コーディネーターを入れなかったことなどが問題視されているという見方もある。

原作はセンセーショルな漫画で発売と同時に注目を浴び、爆発的に売れたとか。
高齢者のわたしは、ナイーブな問題は既に終了してしまって平和に生きているが。
女性ではあるものの、時代が、昭和、平成、令和と移ってしまい、時代の流れの速さに着いて行けていない。
毎朝の連ドラ「虎に翼」なら、時代が変わっていく事態に感動してほぼ毎回涙を流しているが。
と同時に応援している。
昭和なら共鳴するが、令和は、どうも、、、というか、わたしが年齢が行ってしまって、悩みや痛みを自分なりに調整し、克服して、女性であることの良い面だけを吸収してしまっているため、同性の苦痛の叫びに対して、鈍感になっている。
女性は不平等だと感じながらも、自分なりにマイナスをプラスに変換して、良いとこ取りをしていると思える。
ある意味、乗り越えたのかも知れない。
開き直ったのかも。

「虎に翼」も、仕事の悩みは女性に限らない、性別には関係ない部分がある。
仕事と家庭、世の中の矛盾、男性も悩むところのものだろう。
虎に翼では、「男女の差別なく助けていきたい」といつも寅子が言っているが、わたしはとても賛同している。

今日の記事は生煮え、中途半端な感がある。
自分のこととして重ね合わせて捉えられず、想像力欠如のため、深く考えられないからだろう。

※写真は、義甥の作った料理をここ3日間、アップしてきたが、今回はその奥さん、つまり、姪にもらったクッキー。

オススメ映画

2024-06-24 | 映画
友人から「面白そう」と、教えてもらった映画をぜひ観に行きたい。
だが、近所の映画館でも、いつも行く映画館でも、上映されていない。
もう少し足を伸ばさなければならない。

先週、もう一作、彼女は別の、大好きな映画(2004年作)を一人で観に行ったそうだ。
わたしを誘おうかちょっと迷ったものの、出先の用事のついでに観るため、時間がはっきりしなかったので、わたしには声をかけなかったという。

次の彼女のオススメ映画にはかなりわたしは興味を抱いている。
観る気、満々。
たが、二人で観るのは、とどまりそう。
二人の住居の中間の地にある映画館まで足を伸ばすのが億劫。
都会なので疲れる。
そして、時間を合わすのが、面倒。
ぱぱっと自分の都合がよい時間に動くと、フットワークが軽い。
映画を観るのに何も二人揃って観なくても、どうせ上映中は話せないし、観るのは一人が適している。
デートなら二人で観ることに意義があり、二人が同じ場所にいて同じことをするのが楽しいのだろうけれど、映画が主。
コミュニケーションは二の次。
感想は、帰りにお茶しなくても、LINEで話せばよい。

こんな考え方、行動の仕方は、ぬくもりがないのかも知れない。
が、いちいち会わなくても、数年に一回、顔を見て空気や温度が伝わればそれでよい。

とかなんとか言いながら、わたしは毎週、顔を合わせたり、毎日、会ったりしている人もいる。
好き嫌いや、熱意が有る無し、ではなく、相手が忙しい、遠いところに住んでいる、時間を合わせるのが大変な場合は、頑張って調整しない。
とはいうものの、実の姉となどは、そう遠くに住んでいないのに、1年に1〜2回会えば、多いほう。
別に会わなくても、会うことを目的としない、あくまでも会うのは手段だからだ。

友人にはとりあえず、「◯曜日、オススメの映画に行きます」と伝えるか、「映画に行って来ました」と報告すべきか、、、
都会の真ん中に出向くのが億劫で、出力エネルギーを最小限にしたいと望む、省エネスタンスのわたし。
何しろ、目的は映画なので、熱いうちに、上映中に足を運ばなければ、モタモタぼやぼやしていて映画が終わってしまうのは避けたい。

わたしからのオススメの映画はありますか?と、彼女に聞かれたが、わたしは、行ける日、行ける場所の映画館で上映されている中から選ぶため、能動的にぜひ!というものはない。
受動的、暇つぶしだからだ。
インターネット配信の映画や、レンタルビデオ映画も観てみたが、イマイチだった。
内容は良くても、環境(自宅)や、映像状態が良くないと、ガッカリする。
やっぱり映画館で観るのが一番。
わざわざ遠くの映画館、早朝上映で観た映画は今もはっきり記憶に残る。
惰性で観る映画には駄作や、つまらないものもあるが、低予算でも面白いものに出会うと感動する。
人生の彩、機微に触れて、得をした気になる。
感動する、こころの瑞々しさは、まだわたしにはある。


※写真は、先月、バリ島、ウブドの街、ショップ前歩道。
ビーチサンダルが歩道に捨ててあるのかと思いきや、ショップ内に店員さんが裸足で入るため、歩道に脱いでいるよう。
他のショップ前でも同じような光景を目にしたので、現地ではあんなかんじで、おおらか。


碁盤斬り

2024-05-25 | 映画
昨日「碁盤斬り」を観た。
草彅剛。この人、わたしは割と好きなのだ。
明日の民放TV番組「初耳学」で、おそらく草彅剛が先週に引き続き、2週連続出演になるだろうことを踏まえ、より、インタビューを理解しやすくする効果も狙い、TVインタビュー番組放映より先に映画を観た。
というのは、少しこじ付け理由で、、、。
それはまた別の日に後ほど。

最初から最後まで眠くならなかったので、まずは丸◯。
草彅剛が目で演技、丸◯。
情感迫るものがある。
斎藤工、丸◯。
おいしい役。
時代劇エンタメらしいので、細かい疑問点はカット。
全く前知識ゼロで観たせいで、(良くない)ヒヤヒヤハラハラが心臓に負荷がかかった。
が、武士が刀を差しているチャンバラ時代のお話なので、晴耕雨読の農耕日記ホームドラマやミュージカルのようにはいかない。
あまり、わたしは血は好きではない。
が、エンタメ仕立てなら、まあやむを得ないか。
それに、わたしより18歳も若い、時代劇初挑戦の監督(白石和彌氏)なら、黒澤明と同じようなラインではないだろう。

とりあえず、最後まで観ることが出来てやれやれ。
草彅剛、熱演だった。
ストーリーはちょっとシンプルすぎるほどシンプルだったが。
ストーリー展開として、掘り下げ方が中途半端な局面も多々あったが。
言うまい。

まあ、草彅剛が頑張っていて好演していたし、時代劇は、そもそもストーリーなどあまり深掘りしてはいけない。
西部劇だってあんな感じだし。
しかし、よくわからないのなら、大雑把な感想を書いては失礼だ。
作品を汚すことになっては不本意。
5月17日に公開されたばかりなので、ネタバレにつながるようなことを書いてはいけないし。
ではあるものの、どうしても気になる、しかも、かなり重要なストーリー展開箇所がある。
すごく疑問が残る。
それはそれで、さらっと忘れずにこころに残るから良いのかも??

実はその前々日(先一昨日)にも映画を観た。
ジャマイカの英雄的ミュージシャンを描いたもの。
1日しか日を置かずに、随分、テイストの違う映画を観たものだ。
今、わたしは、新たな自分作りのために、土台を再構築している真っ最中。  
なので、映画のジャンルは、バラバラだ。

涙、涙、涙、、、52ヘルツのクジラたち

2024-03-14 | 映画
わたしは両極端、トップとボトムしかない。真ん中がない。
このせいで、今までの人生、結構苦しんできた。
上に合わせると、もたない。足りない。
下に合わせると、はみ出す。余る。
帯に短し襷(たすき)に長し。
昔の人は、まさに言い得て妙のことを言う。
古今東西、皆さん、そうなのだ。

ただ、その特徴が強いか、そうでもないか、ぐらいで、多かれ少なかれ、その経験、傾向はあるだろう。
修練を積んだり、努力して、ちょうど良いところに自分を持って行く。
自分で自分と折り合いをつける。

しかし、なかなかしっくり行かない。
真ん中の自分は、自分には馴染まない。
両極端の位置からのスゥイング、振り子エネルギーが動力源になっている。
(こんなことを書いても読む側には退屈なだけなのは、よくわかっている)

ところで。
映画「52ヘルツのクジラたち」を観た。
全編、涙涙涙、、、プラス鼻水で、分厚いタオルハンカチは、しっとり。
周りでもすすり泣く声が聞こえた。
皆さん、泣き虫。
魂の叫び。
制作費はさほどかかっていないと思われるが、原作が素晴らしい。
本屋大賞を受賞した小説らしい。
ストーリー、中身が卓越していると、感動を呼び起こす。

FMラジオのDJが、「原作も読み、映画も観て、映画では3ヶ所で大泣きしました」と言っているのを聴いて、観たくなった。
で、観て大正解だった。
寝る暇は到底なかった。
(わたしの映画評価基準は、眠いか否か。
いたってレベルが低い)

ただし、ワザとだとは思うが、とってつけたような作り込み箇所がいくつかあった。
(室内インテリアがまさに「映画」のようで、モデルルームのようにつるんとキレイで生活感がなさすぎる。
背景考証的に、どうしても疑問が残る点がある)
現実を知らない未成年が、インターネットや映画などから想像するようなステレオタイプ的なイメージが数ヶ所あり、ちょっとわたしにはマンガチックに映る。
幼い少女が夢みる童話の中の世界、登場人物に通じるものがある。
大人の描き方に欲求不満が残る。
わざと?デフォルメ、メリハリのため?
大の大人を通り過ぎ、現実人生の先輩としては、気になるものの、目を瞑る。
実写ドキュメンタリータッチ、リアリズム追求路線ではないのだろう。
まあ、「魂」優先だから、仕方ない。
あれもこれもは、望み過ぎか。
スポンサーでもないのだし。
(が、こころに傷を持つ繊細な人を思い遣らない無神経な発言は控えたい)

「いやあ〜映画っていいですね」と、水野晴郎氏や淀川長治氏の顔が浮かんだわたしは、かなりの年齢。
それにしても、最新作品もなかなか良いものだ。



哀れなるものたち

2024-01-31 | 映画
R18(18歳未満お断り)の映画を1人で観に行った。
ハードコアポルノみたいなかんじで、男性ばかりだったらどうしよう?
まして、わたしは前期高齢者。
変な女性と思われないかとドキドキしながら上映室に入った。
すると、、、次から次へと女性のお一人様のお客さんが入り、場内を見渡すと、女性が多かった。
お一人様女性や、女性同士などの姿が目に付き、男性は少なかったように思う。
ほっとした。

なんでだろう?
それは、映画のテーマが「女性の解放、平等」という女性向きだったことと、ヒロインのセリフに頷き納得し笑ったりするからだ。
女性にエール。
女性目線の男性に対する評価も、男性は身も蓋もなくオトコをコケにしている、と男性が怒るかも知れない。
が、見る目が変わるとそんなものだ。
「男性から見られる性、望まれる性」であった女性が、男性本位からの性から解放されると、違ってくる。
男性の一方的な思い込みには、コメディ的要素がたっぷりあり、笑える。
男性は必死なのに。

1月26日、先週金曜日に上映開始されたばかりの映画なので、ネタバレしてはいけない。
主演女優エマ・ストーンの他の作品「ラ・ラ・ランド」も「女王陛下のお気に入り」も上映当時に観た。
ゴールデングローブ賞に6部門7ノミネートされたには、それだけの意味がある。
美術、衣装はなかなか楽しませてもらえる。
室内装飾にはルートヴィヒ2世が建てた、シンデレラ城の見本になったと言われるノイシュヴァンシュタイン城を(個人的に勝手にイメージとして)彷彿させるものがあり、とても魅了された。
ぱっと見は似たような同じ範疇だが、19世紀に17世紀のお城を模倣して建てられていたり、建築された時代には様式にズレがある。
そういう絶妙さ。
パリの街で見た建造物、ぬあっと曲がったアール・ヌーヴォー・テイストも感じた。
室内装飾のやわらかい優しいライン。
と言っても、映画に出てくるものは、明らかな想像の創造物だとわかるようにデフォルメされている。
誰が見ても、現実ではない造りものの世界であることが意図して主張されている。
ヨルゴス・ランティモス監督が懲りに凝ったのだろうけれど。
好きな部分もあるが、やり過ぎの部分もある。
わたしの「好き」と「不快」が、混ぜ混ぜに出てくる。

性の部分を誇張しすぎだと思うが、「女性」を掘り下げ訴えたい芯の部分には外せない要素だったのだろう。
ただし官能ゼロ。乾きの代わりに、笑いはあり。
女性客が多いのは納得できる。
アベック客の男性は気まずいかも。
お一人様男性観客も、力強い女性に押されて肩身が狭いかも。

ヨーロッパの各有名都市、建物、食事、ファッション、ダンス、、、真正面からではなく、かなり変わった味付け、演出にはなるが。
ありきたりの正攻法では、飽き足らない、グルメを追求し食べ飽きた、映画飽食の人には刺激的かも知れない。
ちなみに、わたしは、アニメであろうが実写であろうが、あり得ない空想のファンタジーよりも、現実描写のほうが好き。
想像による創造はそれはそれで良いが、空飛ぶ魚のような妖怪的なイマジネーションよりも、現実的にあり得る想像のほうが好きだ。