蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

悩みを共有している?

2021-10-30 | ブログ
別SNS。カテゴリーは、「趣味」。
わたしの日記に毎日、朝夕、訪れてくれるメンバーさんがいる。
わたしはこの人をリアルで知っている。
踊ってもらったこともある。
わたしより10歳ぐらい若い??(推測)
その人はリアルなわたしを認識していない。
そのサイトではお互いに友達認定しているので、個人的にミニメールも送ることが出来るにもかかわらず、そういうことは、一切せず。
ここのところ、挨拶のごとく、朝夕。
 
もう一人いる。 
この人は一日一回。
女性。年齢はわたしより5歳ぐらい??歳下。
サイト内でのやり取りは、あまりしたことがなく、リアルでは会ったことはない。
が、実際にわたしがリアルで会った人たちとのやり取りを読んでいると、リアルはほぼほぼ想像できる。

たぶん、お二人ともわたしと共通の悩みを
持ちなのだろう。 
痛みをシェアしているのかも知れない。

こんな感じで、ダンス超上級者さんが、わたしの日記内容に興味を抱き、肩入れしてくれたこともある。
わたし、口が上手いタイプで、大袈裟な演出表現のためか、文章がリアルを上回る。
これは、良いことか、悪いことか。

なにしろ、大勢ではなく、ほんのピンポイントの人だけがピンポイントの期間に共鳴してくださり、本当に嬉しく思っている。
いわゆるファンというものは、根なし浮動票のようなもの。
虚ろな面を抱えている。

だが、好きな面も嫌いな面も含めて、本当に芯の部分で繋がっている場合、リアル人生に彩りを添えてくれる。

趣味サイトでの繋がりは、特にリアルでお目にかかることが多いので実際の生活や人生に関わってくる。
これまでも、そういうことは何度もあった。
リアルな3次元の世界が4次元に膨らむイメージだ。
だが、実際の人物は、サイトでの文字から来る先入観で嵩上げされない素のまま。
ではあるが、キッカケはインターネット上でのやり取り。

毎日、貴重な時間を割いて、わたしごときのブログや日記にお越しいただき、小さな積み木を積んでいるような気になっている。


自分に見放されそうなわたし

2021-10-29 | 日々のこと
何回、同じ過ちを繰り返すのだろう、わたし。
すっかり自分にサジを投げた。
自宅への乗り慣れたバスに、またもや乗り間違えた。

このバス、すごくすごくすごく、わかりにくい。 
といっても、わかりやすいのだけど。
行き先がちゃんとバスの正面フロント上に大きな文字でハッキリ表記されている。
にもかかわらず、なぜ乗り間違えるのか。

それは、、、思い込みである。
1分違いで1分早くバスが同じ停留所にやってくる。
まだかまだかとバスが来るのを待っているわたし。
で、乗る。
すると、本来は左に曲がるべき信号で右に曲がる。
あ、しまった、、、
と思ってももう遅い。
違う行き先に行くバスに乗り込んでいる自分に、落胆と諦めと嘲笑。
自己嫌悪を通り越して、バスの窓からの風景を楽しむ余裕。
自虐ネタそのもの、なんのヒネリもないのであるにもかかわらず、アタマの中ではブログ文章がスラスラ、構想を練るまでもなく。
アホやねアホやねアホやね、と。

しかし、お金と時間さえあれば元の場所に戻れるし、自宅にも帰れる。 
電車の駅に近い最寄り停留所でバスから降りて電車に乗って引き返してくればよい。
30分かかって振り出し(乗り間違えた出発バス停)に戻り、バス代、電車代が余計にかかった。
夕方の忙しい時間帯、洗濯物も取り入れてなくてはならない、ちびっ子たちの夕食も用意しなくてはならない、、、貴重な30分とお金を無駄にした。
この失敗をしっかり受け止めて、次は間違えないようにしよう。
と、何度も思っているわたし、、、。
ほんと、悲しくなる。

しかし、一つ、賢くなったことがある。
それは、間違ったバスに乗っても、ループ運行していて、慌てて降りて乗り換えなくても、じっと大人しく座っていたら右回り、または左回りして、もとの駅に戻ってくる。
バス代はシニア定額料金だからどこまで行っても変わらないし。
ただし、時間はかなりかかるだろう。
一周、バス周遊の旅。
ちょっとでも早く帰ろうと思うなら、電車に乗り換えたほうがよい?
だが、電車に上手く乗れる時刻ならよいが、一本乗り遅れると、待たなければならない。
どっちも、どっちか。
だが、電車代は不要。

今度、乗り間違えたら、周遊の旅にチャレンジしてみよう!
というか、次、間違えたら、自分で自分を見放すことだろう。

今は、時間内にやるべきことを控えているから、バス乗り間違えのお灸効果はあるが、これが、全くの自由だとしたら、、、
なんの義務も用事も、家に待つ人もなければ、、、
緊張感はなく、失敗は脳には響かず、きっと間違いなくまたもやミスすることだろう。

自分のゆるゆる脳の破壊を免れるためにも、やはり、ある程度、自分を縛るものが必要だと感じた次第だ。
縛られたくはないけど、縛られたほうがよい。
自分に見放されないために。

※ちなみに、写真は今回の乗り間違えとは関係ありません。

こころが弱っている

2021-10-27 | 日々のこと
家族の一大イベントは無事終わったのだが、ちょっとしたことがあった。
こうで、あーで、ああなって、、、と詳しく具体的に書きたいところだが、ご理解いただけないと思うので、割愛する。   

ただいま、一旦火を吹いた火山が、一時的に収まっているところ。

と、ブログ記事は、ここで止まっていた、、、。
怒り、傷つき、火を吹いた後、弱り、今は、落ちついている。
だが、エネルギーが明らかに無くなっている。
成り行きまかせ、天と運に委ねようと思っている。
考えたからといって最善の道とは限らない。
最善の方法を選んで、うまくいかなくても、できる限りのことをしたのだから悔いはない、、、という、頑張り屋さん、負けず嫌いの方々もたくさんおられるだろう。
わたしは、負けず嫌いではないので、頑張らない。
受け入れる。

もういいかなあ、、、と、情熱を失くす(無理矢理)。
だめなものは、自然に離れていく。
自然の流れに身を任せる。
それでいいかなあと。

もう涙もたくさん流したし、何度も何度も涙を流すと、なんだか気持ちが洗われるような気がする。
悲しみが洗い流されるような。
執着するのはやめる。
手を離す。
追い求めない。
ハングリー精神ゼロ。
なるようにしかならない。


ちなみに、最近、表現したい適切な言葉が出てこない。
脳が弱っているのがよくわかる。
言い間違いも日常茶飯事。
自分の人生予想より20年早く、早送りに時間を費やしている。
わたしはオマセな子供だったので、小さい時から既に老いて?いて、歳を取るのが早いのだろう。
だが、へんに最近、独特の独自の世界観を持つ自分は、世界で、いや宇宙で、唯一無二の存在だと自分で思い、自分を慈しんでいる。
わたしに似たひとはたくさんいるだろうが、わたしは、たった一人しかいない。
だから、わたしにとっては特別なのだ。
わたしがあまりにもいい加減で手抜きなので、まわり(娘たち)がバカにしようが、(悲しくて情けないけれど)まあ、構わない。
それだけ娘たちは、成長し、親を超えているのだ。
あとは、できる限り手を煩わせて欲しくないと思っていることだろう。
順送りだ。
自分もそうやって親の養分を吸収して大きくなってきた。
親に感謝する頃は、親はいない。(いるけど)

「親孝行、したい時には親はなし」というのは、昔の寿命の時のこと。
今は、親孝行、したくなくても親はいる。
あるいは、親孝行、したい時にも親はいる。
親はいるのだ。
長生きは良いことなのだが、微妙な心境になることもある。

娘たちに軽くあしらわれて情けない心境になったのは、今日が初めてだ。
今までも、若い頃から同じように扱われていたと思うが、わたしが天然のため、何のこころの曇りも陰りも生じなかった。
が、今、老いて、天然パワーが弱まったようだ。
天然は生まれた時からなので、老いてもそのままだと思っていたが、意外や意外、、、「天然」がパワーダウンして弱るとは思いもよらなかった。
天然だから仕方ないと、笑っていたのに、老いから来るボケだと感じると、とても笑う気にならない。
悲しくて情けない。
なので、ここは、天然パワーに頑張ってもらうしかない。
頑張れ、天然!
天然パワーによって今までわたしは救われてきた。守られてきた。

この天然パワーは、鈍感力とも少し似て非なるもの。
似たり寄ったりではあるが。

天然だから傷つくことはあまりなかったが、最近、結構傷ついた。
だが、こころが傷ついても自然治癒に任せる。
微弱すぎてPSTDにはならないと思うが、でも、やはり天然でも傷つくと痛い。

見え過ぎる目

2021-10-23 | 無題
人を信じる。
その期待感から裏切られたと感じる。
その通り。

期待しないのが良いわけ?
知らず知らずに期待する。
こんなに一生懸命しているのだから、、、と、見返りを期待する。

あるいは、笑顔が見たいから、と。
笑顔=ありがとう=感謝。
ボランティアは感謝を期待してはいけない。
自分を無にして自分を救うための奉仕。
しかし、どうすれば喜ばれるかを考える。
何をどうすれば?
おしきせや、押し売りはNG。
人を喜ばせるのは実は難しい。
喜ばせようとする気持ちが見えて、喜ぶこともあるし、喜ばせようとする気持ちに自然に応えることもあるし、無理に喜ばなければならないこともある。

やはり、見返りや感謝を求めると暑苦しい。
結果的に感謝された、という順番が望ましい。
とかなんとか、そんな理想論はよいので、人の役に立ちたいと考えるだけで素晴らしい!!
ただ、誠心誠意頑張っても自分が傷つくこともあるから注意が必要だ。

わたしは、小さい頃から醒めた子供だった。
父の日には、父を喜ばせようと見え見えの作文を書いて、父の前で読んでいた。
あれは子供らしいのか?
今、思えば、半分、子供らしい。
よくあんなことを恥ずかしげもなく行う自分が幼くてかわいい。
が、はっきり、喜ばせようという意図はあったと思う。
強く自覚しているかも知れないし、あんまり深く考えていないかも知れない。
人間不信がどこかにある、可愛げのなさをいつも引きずっていた。

高校生ぐらいになると、本を読もうが読まなかろうが、本質が見えると思う。
読書量が増えると知識が深まり理解力があるとみなされる。
が、ある一定量を過ぎると、あまり変わらないかも知れないし、読書効力が水面下で無尽蔵に溜まっていっているのかも知れない。
それを露出できる場にいると、自分の思いや考えは世間に広まるが、無名の一個人だと、自分の胸の中だけか、せいぜい自分の仲良しさんぐらいまでにしか広まらない。
有名な人は、言語行動が伝わるので、良い意味でも悪い意味でも発信広告塔になる能力を持っていることを意識しなければならない。
プロパガンダ的に利用される可能性もなきにしもあらず。
注目を浴びる苦悩というものもある。
その点、無名の凡人は可もなく不可もなく。
なんの影響力もない。
お気楽で快適。
身内でワイワイ言うだけ。
ちょっぴり盛り上がればそれでよい。
わたしは、大袈裟なものではなく、ちょっぴりの楽しみが、とても楽しい。

ではあるが、それはそうと、本質が見えない子もたくさんいるだろう。
大人さえも。
二つ目の目があるか、ないか。
二つ目、三つ目の目があると、一人につき、目を複数持ち、それが大勢集まると、目がいっぱい、目だらけで、ややこしい。
どれが適正な目か?
澄んだ目も必要だが、澄んでばかりいると目を傷めることがある。
見えすぎると、見なくてもよいものまで見える。
なんでもほどほどがよい。

なかなか、そんな都合が良いようには行かない。




可愛い女の子を見て

2021-10-22 | 日々のこと
あぁ、やっとブログタイム!
といっても、夜21時には就寝してしまうのに、時間に追われていることなど全くないのだが。
何がブログタイム!だ!!
いえ、ブログタイムはいつでも良いわけで。
書きたい時がブログタイム。

と、行きのバスの中で助走が始まった。
で、続きは電車の中で。

ミニスカートの制服姿の女の子がホームで電車を待っていた。
太い足、ツルツルした美味しそうな大根を連想した。
顔も大根にマッチしたテイストかな?と、ちらと見たら、お目々パッチリの、メークしてるかも知れない、髪もオシャレ女子がよくやっているようなヘアスタイルなので、ひょっとしたら制服ではなくて私服かも知れない女子だった。
もう一度見て、確認しようと思ったがよくわからなかった。

彼女、学校ではモテるのかも?
モテる女子は、見かけだけで判断される。
青春の日々。
中身を見ろといっても無理。
アピールは外側オンリー。
せいぜい、仕草でルックスの強化を図るぐらいか。

懐かしい日々でもある。
彼女たちは学校が全て。
学校以外にはほとんど道はない。
(塾やバイト等もあるとしても)
学校に居ない時間でも、学校の友達と楽しい時間を過ごすことはあるだろう。
趣味の世界といっても限度がある。

それはそうと、
昨日、小3男児・長男孫がいきなり
「自殺って何?」と話題を振っていた。
小1男児・次男孫が、「自分を殺すことや」と答えていたが、小3孫は、はてな顔。
明らかに理解していない。
小1孫だってたいしてわかっていないと思うが。
「自殺する人はいない」
と小3孫が言うので、「いるよ。まわりにいないだけ」とわたしは言ったが、詳しく説明する気にならず、「英語では Suicideって言うんやで」と、お茶さえ濁せない、中途半端ななことが口から出まかせで出た。
案の定、小3孫は興味はもうそこにはなかった。
とっくに次の興味対象のプラレールに移っていた。
プラレールは電車のオモチャなのだが、小3には幼稚なんだそうだ。
わたしはよく出来たオモチャだと感心しているし、大のお気に入りなのだが。
(話は脱線。プラレールの電車の如く)

いきなり自殺の話が出た小3孫だが、おそらく学校で先生が話したのだろう。
彼は、かなり幼稚なマインドなので、さっぱりわからないことだろう。
それはそれで、安堵を与えてくれる。

前述のかわいい女子も、今が全て。
子供たちは今が全てだ。
まだ低学年だと、家庭のウエイトが大きい。
学生でいる間は、やはり家庭の存在は影響力が大きいが、やはり学校がほとんどを占めると思われる。
社会人になれば独立したりしてまた別の道に進むのだろうけど。

あんなにコンプレックスを抱いていた、わたしの学生時代。
しかし、長女が言うにはわたしの「天然」は、時が時なら「発達○害」らしい。
確かに、確かに。
わたしも、兄もそれに該当するような、、、。
しかし、アインシュタインなど、天才はそういうのが多いらしい。
天才、一歩手前ということにしておこう。
(ただの天然)

兄もわたしも、アーリーリタイアメントをした。
と言っても、兄は持病が重くなったためなのだが。
わたしは、ある日、ブチキレて仕事を辞めた。
もう10年ぐらい経つのだろうか?
よく覚えていない。

わたしは、ごくまれに、突然、ブチキレることがあり、稲妻か雷に撃たれたように、それまでの考えや行動をコロッと変える。
見た目は変わらないが、内面が激変する。
と、これはどうでもいい蛇足。

今日はなかなか話がまとまらない。
女子学生を行きの駅のホームで見かけて、自分のコンプレックスの変遷を感じたのだった。
その中身を書こうと思ったのだが、朝、見たその時の感想と、今、(夜、続きを)書こうとして中身が変わる。
今は女子は可愛いだけではどうにもならない時代だと思う。
男子は、力持ちでなければならないことはない代わりに、また別の分野で求められるものがある。
自分はもうほぼほぼ、現役は卒業して、今は花の御隠居さん。(にもかかわらず、すんなり隠居させてくれない、、、)
あとは、いかに子供たちに迷惑をかけずに自分を終えるかが課された宿題である。
義務が終わった後の自由時間は、すこぶる楽しい、、、が、時間配分を間違えると、退屈が高じて寂しくなり、やがて虚しくなる。
なので、ある程度、自分を縛るものは残しておいたほうがよい。

今日は、まとまらないことこの上ない。
バラバラ。気が散りまくり。
徐々にアタマのネジが緩んできているのだろう。
周りから見るとなんの変化もないと思われそうだが。

斬るとスッキリ

2021-10-19 | ブログ
思いの丈を吐き出すと、スカッとするのはブログだけではない。
わたしは、日頃、思っていることを口に出すと、たいていの人は引く。
的を得過ぎているからだ。
キレ過ぎ包丁には注意。
自分の言っていることは、人を不快にしたり傷つける。
だから言わない。
むやみやたらに斬ってはいけない。

こうやって人知れず広告チラシの裏、いやブログに書いて憂さを晴らしている。
わたしは、ひとを傷つけたくないし、決して攻撃したくない。

ひとつには、わたしがお釈迦様でも弘法大師でもなく、ほとんど自分で何もまともに出来ないのに、人を批評する権利はない。
万能者で何でも出来てこそ、高いところからモノ申す流れ。
目くそ鼻くそを笑うのは、じつに恥ずかしい。
それもあって、何も言わない。

が、凡人のわたしは、段々ストレスが溜まってくる。
それ、違うんじゃない?と、言いたくてウズウズ。
それをブログに書くと実に気分爽快になる。
救われる。

じつは、趣味のサイトでもその悪い癖が出ている。
斬り過ぎ傾向あり。
こっちは気持ちいいものだから、ついつい痛快コメントをどんどん書いてしまう。
反省、、、。

自分の成果を自分で思いっきり褒めて酔いしれている人、、、とかは、わたしは苦手とする人種。
今は、皆んな違って皆んなイイ。
全員亀でもウサギの気分らしい。
別に評価はコレでなければならない、という規定や基準がない。
曖昧。
だからそれで良いとは思うのだが、、、。

何ごともやり過ぎは良くない。
ねえ褒めて!褒めて!褒めて!は、、、疲れる。
だが、わたしの斬り癖のように、褒めて欲しい癖の人もいる。
どっちもどっち、皆んな違って皆んなイイ。

、、、というか、このフレーズ、かなり曖昧すぎて、もはや怪しさを通り越して、うさんくさいニオイがする。
本当に皆んな違って皆んなイイのだろうか。

皆んな違って皆んなイイのは、同じカテゴリーに属さない、おのおのそれぞれ別々の集団に限られている?
本当に認めているのかというと、?である。
自分の真のライバルは同じカテゴリー内にいる人であり、別カテゴリーの人は笑顔で認める。対岸の火事。
真のライバルではないから。

まあそういうわけで、、、
何を書いているのかわからないぐらい、難しい問題なのである。
(真顔でジョーク)

書きながら考える癖があるわたしだが、スカッとするつもりが、こんがらがってきて、糸が解けなくなってきた。
(解釈説明、大幅にカットした)

人に鋭く斬り込むより、自分の糸に巻かれて身動き取れなくなるほうが、まだマシかなあと。

とかなんとか、かんとか、、、
天国までの待ち時間、自由な持ち時間、なんやらかんやら言いながら、今日も無事に過ぎた。
結果良ければ全て良し。

時間泥棒にお付き合いいただき、ありがとうございました。



自分のブログに癒される?

2021-10-17 | ブログ
自分の過去ブログ記事を読み、感動した。
うまいこと上手に書いてまとめてある。
わたしが思っていることそのもので、まるでブレがない。(当たり前)
もう10年近くも前に書いたものだろう、、、と思っていたら、コロナのことも書かれていた。
なんだ、去年の記事か。
わたしのカレンダーは、ブレまくっている。

しかし、言いたいことが凝縮されていた。
今ならあんなに整理して書けない。
だが、思いは同じ。
そりゃそうだ。一年ぐらいではそう変わらない。

自分の核、芯は、両親から来たもののようだ。
好きでも嫌いでも。性格は真逆であろうと。
DNAと環境。
培われたその信念を貫きとうそうしているだけだった。
昨日の記事では「自分の核は自己開示しない」と書いたが、なんのことはない。
去年、みっちり、しっかり、明確に書いていた。
一年で忘れている、この脳キャパの小ささ、狭さ!

しかし、今更ながら、自分に教えられた気分。
先生は、自分の書いたもの。
やはり、考えを書いて残すと、役に立つこともある。

嫌な不快な記事や、恥ずかしくてのたうち回るような記事は、読まなければよい。
不愉快になるために、わざわざ読んでも何の得も意味もない。
で、皆さんの中のどなたかが、過去記事を引っ張り出してお読みになった記事を後から読んで感動するなんて、なかなか奇妙ではあるが。
癒されたりもしている。
自分で自分を癒やしてどうする?
なんでもありだ。 

ブログは面白い。
書いてストレス解消。
後から読んで、楽しさ倍増。
1度で2度美味しい。
だからブログはやめられない。

でもよくよく考えると、読んでくださる方がいてこそかなと。
取るに足らない呟きを。
そういう存在があるからこそ、チラシ広告の裏ではなく、インターネットの海に放り投げるのだろう。
呟きも虚しさを伴わないのだろう。
それに、攻撃を受けるような過激な内容ではないので、ごく稀にしか被害に遭わない。
おかげさまで、楽しいブログ生活を満喫している。




こころの中に眠るもの

2021-10-16 | 読む人々には興味ない話
今日も一日は、ほぼ終了。
次女母娘、実家暮らし、居たら居たで大変だけど、居なくなったら居なくなったで、寂しい。
感情なんて、じつに勝手なものだ。
ちょっとだけ居る、とか、たまに居るとか、時々顔を見るとか、自由度が高く、抜け感があるほうが、気持ち良い、心地よい距離感だと感じる。
べたっと一緒は、お互い疲れる。
夫婦も、親子も。
恋人も。

恋人なら、若い頃ならいっときも離れたくないだろうけれど。
今の年齢になると、時々、ドキドキで良い。
逢える日を待つのが長くて疲れる。
苦しくなるほど熱を入れると、苦しい。
呼吸困難は避けたいところだ。
相手よりも何よりも自分の身体が大事。
いいかげんなものだ。

だけど、いつまでもワクワクするこころは持ちたい。
などとムシの良いことを言う恥じらいの無さ、厚かましさ。
そうでもしないと繊細でナイーブでガラスのハートだと生きていけない。
生きるには、面の皮の厚さも必要である。
でも、可愛いくもありたい。
またまたムシの良いことを。

それにしても、夕飯、夫だけだと楽勝!
次女がいると、とりあえずいつも何かを用意しなければならない。
野菜だの、タンパク質だの、母乳の素になるものをせっせせっせと食べさせなければならない。
毎日毎日毎日毎日毎日。
わたしは自分1人だと、全く料理をしない。
家族や娘一家のためにしか料理をしない。
自分のために料理をするのは、手間がもったいない、惜しい、めんどくさい。
家族のために作った料理は、わたしは余った場合しか食べない。(まれに、好きなものだと、自分も食べるが)
せっかく作ったのに、自分で食べては何の意味もない。
そういうスタンスは、いったいどこから来るんだろう?
きっと料理が大嫌いなんだろう。
主婦の義務として作らなければならないから作っているのだと思う。

その割には、掃除は義務と感じていないようだ。
部屋が散らかっているからといって、死んだ人はいない。
が、ゴミ屋敷は嫌。
快適な生活をするほうが、快適だ。
不潔は不快だ。
当たり前だけど。

よくよく考えると、わたしは、あまり生活の快適な質を求めていないように思う。
自分の労力と快適をはかりにかけて、労力がかかる割に得るものが小さいと、手を抜く。

わたしが、どうしても手を抜かなかったことは何だろう?
ん〜〜〜?
思い当たるが、書かないことにしよう。
嫌な感じ、嫌味な人物と思われるかも知れないことをわざわざ自ら告白する気はない。
洗いざらい自己開示しない。
価値観、考え方の基準は、その、手を抜かない部分に存在する。
いわゆる核である。
その核はどんな人にも必ずあると思うが、自覚しているかしていないかで、違ってくることもある。
自覚していない人も多いかも知れない。
自覚するキッカケがないと、無意識なまま一生過ごす。
人に指摘されて気付くこともある。
無意識=無自覚=深層心理
こころの奥深くに眠っている場合もある。
知ったからといって、良かった、幸せとは限らない。

人として、多くの人と共通点を持つと考える。
良い面も悪い面も。
小説や映画、音楽、美術、、、なにかしら言葉に出来ないものを感じ取ることがある。
仕事や娯楽を通しても。
感覚をシェアする。
シェア出来ない場合も多々、多々ある。
いろんな人がいるから。
無意識のものを引き出されることもある。
わざわざ、わざと作為的に引き出すこともある。

なんだか、話しが抽象的、概念的になり、まとまらず、軟着陸できなくなってきた。
お読みになっていた方、途中でほってください。
迷宮話にお付き合いいただき、ありがとうごさいます、そして、すみません。



蜘蛛の巣

2021-10-15 | 暮らし
庭に大きな蜘蛛の巣。
2階のベランダからも蜘蛛の糸が長く高く繋がっていた。
空に舞い上がる凧のよう。

蜘蛛が「自宅、兼、仕事場」を作っていた。
しかし、不法侵入。
我が家の敷地内に借地権もない蜘蛛に、賃貸を頼まれたわけでもないし、許可したわけではないのに、蜘蛛が無断で入ってくる。
しかも、勝手に巨大な蜘蛛の巣を作る。
で、蜘蛛の巣と格闘した。
広々とした空間にのびやかに作られた、なかなか大きな蜘蛛の巣。
獲物もゲットされていた。

住む人がマメにチェックしないと、庭など、すぐに蜘蛛の巣が張る。
家の中も、掃除してもしても、また蜘蛛の巣。
蜘蛛との闘い。
なんと、よく働くこと。
わたしより頑張られると、わたしが蜘蛛の仕事の後から蜘蛛の巣を次から次へと潰すハメに陥り、まるで誰も住んでいない家のような気になって、気分が良くない。
蜘蛛の巣が張る家は、無人の荒廃した廃墟イメージだ。
お化け屋敷。
無人だと映れば、近所の悪ガキなどには遊び場として目をつけられそうだ。(が、最近の子はそういう遊びはしないかも)

ちなみに、蜘蛛は害虫を食べてくれるから、悪くはないと言われる。
そんなに直接、害もないのだが、蜘蛛そのものが気持ち悪いし、第一、イメージが悪すぎる。
庭の木にはもうひとつ隣の木に大きな蜘蛛の巣が張っている。
蜘蛛の巣屋敷か?

それはそうと、
ご近所に、ゴミ屋敷になりそうなちょっと要注意の家がある。
草木は生え放題、草ぼうぼう、敷地内も手入れは全くされず、インターホンは切られている。
ついには玄関前にまで、段ボール箱が家の中からはみ出し置かれるようになった。
60代〜70代のご兄妹が住まわれているはずなのだが。

ご近所の荒れた家や草だらけの土地が、最近売られて二コイチ(2分割)で家が建つようになった。
新しい若い世代の家はエネルギーを感じる。
若い世代でなくても、新たに土地を購入して自分の家を建てようという人は、こだわりや、今までの軌跡を感じる。
荒れた家や土地より、新しい動きがあるほうが活力がある。
お馴染みさんであろうが、長い付き合いであろうが、皆さんの事情で、住民の出入りがある。
高齢と若い世代の入れ替わりが目の前で次々と行われている。
そして、家(一戸建て)を見ると外からでも経済状態や健康状態がまるわかりだ。
維持の仕方に、住む人の内情や近況が現れる。

時の移り変わりを感じずにはいられない。

朝、目覚めるのが楽しみ

2021-10-14 | 日々のこと
朝、起きるのが楽しみである。
消炎鎮痛剤が効いて、今日は痛みが取れているんじゃないかなと期待する。
それまでは、寝ていても、何をしても痛みとの闘いだった。
痛い箇所を庇うあまり、腰、肩、背中まで痛んで来るような感覚。
一日一日、少ししか良くならないらしいので、日にち薬ということ。
一足飛びには無理。
待つしかない。
が、週末にはダンスしたい。
(これが、わたしの不謹慎で贅沢で貪欲な、ちっとも同情を買わないところ)
早く治れ、早く治れ、と叱咤しているが、なかなか期待には沿ってくれない。
当たり前か。

朝、痛みがなくなっていればいいなあという期待と同時に、このまま永遠に目覚めないでいたらいいなあ、という、相反する気持ちが起きる。
何も痛みのせいではない。
今、自分の人生がここで終わってしまったら最高の幸せ者かも知れない。
自分としては十分幸せだったし、周りもさほどわたしがいなくなっても影響はない。
人生の幕を引く引退は幸せのピーク時が美しいとわたしは思う。
かといって、自ら幕を引くようなことはしない。
自然に任せる。
それに、掛けた年金の元を取らにゃあならんし。
さらに、幸せのピークがまだまだ先まで延びる可能性がある。(欲張り)

第一、今、突然は良くない。
断捨離と終活をある程度、終えてから。
何もしない、片付けないままでは、わたしが心残りだし、家族も困る。
身もこころもスッキリするために、自分終いをスタートさせないと。
それが終わった頃に、旅立てたら最高だが、そんなに筋書き通りうまくはいかない。
多分、時間が余る。
その頃は、アタマはお花畑だろうから、かつて自分がそうだったように、無邪気な乳幼児になって、お花畑にちょこんと機嫌よく座っていることを願う。
(自分が小さい頃の、母から聞いたこのエピソード、自分では全く覚えてないが、最近、なぜか、当時の自分を想像して思い描くと涙がポロポロこぼれる)

時間が足りない時は、、、自分の性格からすると、そっちのほうが大いにあり得る。
夏休みの学校の宿題を夏休みが始まった初日に1ページだけして、残りは9月1日の始業式に、取り掛かるタイプなので。
それでも、バタバタ急いで大事なことだけをやっつけ仕事でやって、どうにか間に合わせられたらいいなあ、、、と。

とりあえずは、その前に、今日は昨日より少しでも痛みが軽減していたら、それで御の字である。

アドバイスいただいたユメ様へ
いつもありがとうございます。