蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

愚痴と弱音

2021-04-28 | わたし
蝶ブログの過去記事、限りなくしょうもないものもある。
思わず、ため息。
下らないことをだらだら書いている。
読んでいただいた方、すみません。

それはさておき、
わたしは気が弱く、面と向かって言いたいことも言えず、ブログで愚痴っている。
気の強い人が羨ましい。
黒を白と言い切る自信家も羨ましい。

が、わたしはメンタルはわりと強いようだ。
無神経で打たれ強い面がある。
おそらく幼い頃から父に、「お前は何も知らない」と言われ続けたりしたせいもあるだろう。
母には「学校でいったい何を習っているのだ?」と叱られたりしていた。
褒められて伸びる、、、の正反対で、否定されて縮こまっていた。
飴と鞭ではなく、無知と鞭。
ただただ親に怒られたくないために、プロセスはどうでもいいから、とりあえず結果さえ良ければいい、という考え方を身につけてしまったようだ。
て、もう半世紀以上前のことであり、親に責任を押し付けることは出来ない。
親のせいにするなんて、小学生じゃあるまいし、そんな言い逃れは、あまりにもカッコ悪すぎる。
まじめに努力しなかった自分のせい、自業自得でもあり、怒られないように、ちゃっかりしていたかも知れない。
自分で修正するのも半世紀もあれば十分な時間だ。

ちなみに、、、
人には、微妙な特徴がある。
外に向かって威張り倒している人が実は、小心者だったり、おとなしく、弱々しそうな人が、それほどでもなかったり。
父が生前、よく言っていた。
弱い小さい犬ほどよく吠える、と。
自分からわざわざ言わなくても、周りが見て判断してくれる、と。

さらに加えると、わたしは怖がりである。
どしんとしている人は、頼りになる。
揺れのない強さを感じる。


ところで、、、
今、最後の晩餐ではないが、最後のサボりタイムを貪り楽しんでいる。
わたしは、ぼーーっとするのが大好き。
4歳上の兄もそうだ。
なんでこんな似ている部分があるのだろうと不思議に思うぐらい。
兄妹だから、わからないでもないが。
両親や祖父母は、こんな我々のような性質の人はいなかったように思う。
(兄は特に変人。あ、人のことは言えないか、、、ではあるが限りなく善人である)
突然変異としても、2人もいると、複数なので突然変異ではないのでは?
どこかから迷い込んで受け継がれたDNA?

それはそうと、
コロナ渦で兄や母にも長い間、会えていない。
母などは、わたしの顔なんか忘れてしまっているかも知れない。
記憶がちゃんとしている時に会いに行けばよかったと悔やんでも、もう遅いが。(厳密に言うと、まだ遅くないが)
今度、会った時に顔と名前を覚えてくれていたら、上等、上出来だ。
忘れられていても仕方ない。
元気ならそれでよい。

わたしも老化現象著しく、新しい局面を迎えた自分を一足飛びにはなかなか受け入れられない。
世の中にはよくある老化現象、見聞きしていたことなのだが。
いざ自分がそうなると、オタオタする。
このまま、衰退の一途だとすると悲しすぎる。
が、まだとりあえず、やりたいことや、好奇心、感動するこころは残っていると感じる。
だが、脳の容量は著しく減少し、記憶力は確実に衰え、やりたくないことをするのは苦痛で面倒くさがりになっている。

こんなわたしなのに、実はこれから大役を課されていて、頭に漬物石が載っている気分だ。
しかし、逃げられない、逃れられない。
腹をくくって、行動するしかない。
今はまだ始動まで少しだけ時間があるので、漬物石を載せたまま、サボっている。
この責務、ブログには多分書くことはないと思われる。
自分の中で乗り越えクリア出来た日には、書くかも知れないが、そんな日は来るのだろうか。




女性の逆鱗に触れる

2021-04-27 | 時事&世の中
NHK朝ドラで、主人公(ヒロイン・モデルは浪花千栄子)の夫の浮気相手が妊娠する展開に、視聴者の女性たちが怒りと不快感を示している。

ちなみに、9年前に書いたわたしのブログを引っ張り出して読んでくださったアクセス履歴あり。
どんなかな?と、楽しみ半分、不安半分で、ドキドキしながら読んだ。
今回はかなり面白かった。
(自分で言うのもなんですが)
タイトルは、

しかし、浪花千栄子のようなケース、、、時代が違うから、理解不可能である。
女性の意識、男性の意識は時代背景によって変わる。
昔は子供が出来ないと、原因は女性にあるとされ(ウマズメなんていう、あり得ない酷い表現もあった)、嫁は離婚され、里に帰された。
男性に原因があるのかも知れないのに。
これは誰が見ても誰が考えても、おかしな話だ。
が、実家に帰されて、また再婚する場合、男性をチェンジすると次のお相手男性とは子供に恵まれるかも知れない。
結果的には、はい!次!という、男女組み合わせの交換か。
前の旦那さん、どんな妻に交替しても、子供が生まれない、、、、で、元妻たちは別の男性と結婚すると次々子供が出来るとすると、原因は男性側にあることが明らかにハッキリわかる。
当時としては子孫繁栄のための合理的な方法だったのかも知れない。
男性を責めず、メンツ、面目、顔を潰さず、暗黙の了解。
女性が代わりに言われの無い責め苦を受ける。
これは正しいのか?

ちなみに、仕事をしていた頃、男女の違いではなくパワハラ構造で、こういう目に遭ったことがある。
上の責任を下が負わされる。
上の代わりに下が恥をかかされ玉砕させられる。
不条理のミニ体験版。
わたしは神経が図太いので、憤死しなかったが。
責任感の強い、正義感の強い人や、重要な位置にいる人なら思いっきり傷つくだろう。
わたしは、わりとヘラヘラしているので、「えー、これって、あり得ないやんー!」と、ビックリしながら、かわいそうな自分を天から見ていた。
(エッセンシャルワーカーでもなく)、(人の生死や、国の栄枯に関わるほどの)まあそれほど大した仕事でもないし、一家を食べさせていたわけでもない、いたって軽い責任のもとでの仕事だったし、自分が好きでやっていただけだったから、蚊に刺される程度の痛み、恥だった。

今の男性たちは、家事育児も負担させられて気の毒かも知れないが(昭和の発想)、その分、大黒柱が二本だから肩の荷が軽減されている。
「あなた、そんな仕事、やめなさい。
わたしがどうにか経済はやっていくから。
わたしが食べさせます」
なんて、一生のうち、一度でも言ってみたい。
昔はそんな経済力のある女性にはヒモみたいな男性がくっ付くイメージだったが、今は違うだろう。
たんなるヒモは、食べさせてもらえずお払い箱だと思う。
たんなるヒモではない、妻に食べさせてもらっている男性は(病気を患っているとかではなく)、それなりの(素晴らしいステキな)男性だと想像する。
そうでなければ、国費にすがることになり兼ねない。

(しかし、女性も男性も苦しい立場の人もいるから安易にチャラけたことは言えない)

昔と今とでは雲泥の差がある。
が、日本女性の地位は世界水準から見ると格段に低い。
島国で封建時代が長いから、そう易々と簡単には意識は変わらないとわたしは踏んでいる。
わたしは、たいして政治もわからないくせに、自民党のかなりお年の某氏がテレビのニュース画面に出てくる度に激しい拒絶反応を示してしまう。
まるで長年の女性たちの憎しみや怒りを一気に集中させてぶつけるかのごとく、ムカムカしてくる。
憎悪の投影先象徴と化している。
これは、決して良い状態とは言えないが、理性的ではない一方的な感情を募らせて凶行に走る犯人というのは、こんな気持ちがベースにあるのだろうか。
わたしのような、老いたノーテンキ仙人女性でさえ、ちらとそう感じるのだから、朝ドラ展開は、血の気の多い現役女性たちの逆鱗に触れても致し方ない。
溜まりに溜まったマイナス激情が爆発、噴火するキッカケとなる。

わたしが思うのに、自分が生きてきた年数以上に、過去の女性たちの怨念も背負っているのではないだろうか。
自分が蓄積したもの以上の積年の怨み。
こういう思いを薄めていかないと、未来の女性たちも、自分の体験以上に怨みを感じる状態になるのではないだろうか。
過去(日本人としてのわたしが身近に暮らしながら感じる近代)も清算はおろか、紐解きもせず、現在もまだ継続の片鱗が伺えると、晴れ渡る明るい未来は予測しづらい。

あの、ご高齢MORIさんなら、なぜ、朝ドラで女性たちが鬼の表情で噛み付くのか、全く理解できないだろう。
何故かわからないが突然やたらギャーギャー女性がうるさいから、「ハイハイあなたの仰るとおりです」と、負けたフリ、わかったフリをして、ただただその場を収めようとしているだけなのが見え見えで、腹立ちを超えて絶望感に苛まれる。

動くなと言われても

2021-04-24 | わたし
どなたかが読まれた過去の記事を読んだ。
冷や汗たらたら。
嘘は書いていなくて、とりあえずはやれやれ。
だが、当時は本気で本当にそう思っていたことは揺るぎない事実。
嘘ではない。
時間が経過しても、そのままか?と言われると、温度差はあるものの、真逆とかではない。
眼差しが柔らかくなったり、優しくなったり、逆にキツくなったりしている。
時と共に動きながら変化している。

人が「絶対〇〇です!」と言い切るのは、本当に絶対だと思うから。
しかし、その場限りの絶対というものがある。
容易に安易に信じてはいけない。
特に恋愛。
あんなにその場限りのものはない。
結婚式で永遠の愛を神父さんに誓うのは、なんだろう?
人生の先輩たちも、わかっていながら応援する。
しかし、儀式は大切である。
形式にこだわるところが、重要で意味がある。
縛っても無理なことをあえて、儀式で誓わせて、本人に道徳を植え付け楔(くさび)を刺す。
刺すことに意義がある。

別に他に好きな人が出来るとか、そんなのではなくても、熱って冷める。
熱いコーヒーも冷める。
冷めたらアイスコーヒーにすれば良い、というかなんというか、、、
アイスコーヒー専用のコーヒーもあり、味が違う??

一生冷めない熱ってあるのだろうか。
順風満帆は、退屈を誘引する落とし穴がある。
わざわざ穴を作って自分で落ちる人もいる。
人間には色んな煩悩がある。
煩悩は人生のスパイスであるが、スパイスがキツすぎて、料理が不味くなることもある。
何ごともほどほどに。

ちなみに、「流れに任せ、沈んだら浮き上がるまで待つ」とつい最近のブログに書いた。
天ぷらと同じか。
衣の断片をぽとり油に落とすと、一旦沈んで、浮上する時が天ぷらの揚げ時の温度。
料理箸で、ちょいちょい突っついてはいけない。

「君たちは時代より先に行ってしまったから、少し待てば時代が追いついてくる」と、売れない時代のお笑い芸人(コンビ名:ニューヨーク?)が、売れている先輩大御所にアドバイスされて、じっと我慢、何もしなかった時期があるらしい。
3年間。
その間に後輩芸人に追い越され、焦っていた。
で、アドバイスに業を煮やし、ユーチューブなどの何かしら行動に移り始めたら、やっと徐々に売れ出してきたとか。
「先輩のアドバイスを真に受けて真面目に聞いて、3年間を無駄にした」と当時を振り返り悔しがっていた。

そういう事もある。
何もしない時期、何かする時期、タイミングがズレると、沈んだまま浮き上がらない。
魚釣りと同じ。
潮の流れ、タイミングが要。

・・・・・

で、緊急事態宣言。
明日から二週間と三日。
忍耐の時。
あ〜あ。


宇宙教

2021-04-22 | 読む人々には興味ない話
半世紀以上生きてくると、だいたい自分の人生はどんなものか想像がつく。
過去を振り返り、現在を見て、さらに未来を予測する。
そう大きなどんでん返しはないはずだ。
予想通り、何もなければ、大大大大満足である。
予測できないような大惨事に見舞われたとしたら、それは想定外なので仕方ない。
予期できないことのために、備えよと言われても、、、。
せいぜい、最低限の災害グッズを備えるぐらいか。
病気にならないために過度な気配りや心配をすると、せっかく現在健康なのに、健康が目減りしてしまいそうだ。
健康オタクというらしい。
歳がいくと、あちこちガタが来るのは当たり前なのだから、受け止めるしか手がない。
へんに回避するための奇抜な方法や努力を取り入れ、ストレスを溜めるぐらいなら、普通に病気になったほうがマシ。

わたしは、自分の人生はほぼほぼ終わっていると思う。
あとは、字の如く、余生。
余った生。
余りは、楽で楽しくて解放されて、この上なく幸せ、充実していると感じる。
それは、今までの人生を肯定しているからである。

元々、出世欲ゼロ、偉くなりたい気持ちゼロ。
世の中に認めてもらいたいという気持ちはなかった。
今は、自分の好きなことをしているのが最高にご機嫌。
とは言え、既存レベルを維持するにはある程度の努力が必要である。
何もしないで全てを他人に依存は、ムシが良い。

既存レベルを少し下げるのか、少し上げるのか、徐々に下げるのか、徐々に上げるのか、そのままで推移するのか。
少しの幅は、自然の成り行きだ。
向上心ある人は頑張れば良い。
欲の無い人はそれなりで良い。
なんでも良い。
自分が良いと思えば。
人にどうこう思ってもらおうとすると、ややこしい。

必要以上に、人に迷惑をかけたくないと思う人がいるようだ。
必要以上に思う必要はない。
全く思わず、ふてぶてしい人には怒りを感じるが、少しだけ、すみませんねー、と自覚すればよいのでは。
小さな迷惑は、小さな支え合い。
小さな依存で、皆んな、社会は成り立つ。
大きすぎる迷惑の場合は、命にかかわりそうなら、丸投げもありだろう。
命まで取られそうな案件は、自分一人では処理できない。

例えば、恥ずかしくても命まで取られない。
何度も書くが、ふてぶてしく、当然の権利とばかり開き直り、更に逆ギレされるのは、嫌悪するが。
不運は自分のせいではないにしても、人のせいではない。
誰のせいでもない。
だが、不運がやってきているのは、隣の人ではなく、自分。
なんで?
となる。

宗教やら占いやら、科学で解明できないことを、別のものに頼ろうとする。
不幸な時は、藁をも掴む心境。
自分がそれで立ち直れるのなら、それでよい。
ただし、他人に押し付けてくれるな、と言いたい。
自分教を持つべし。
わたしの実母(存命)は、(そんなものは、あるのか無いのか知らないが)「宇宙教」を信じたらどう?なんて近年、言っていた。
この人には、自分こそ教祖ばりに自己チューなので、「宇宙教」から「自己チュー教」と改名すればよいのでは。

あの母にして、この子(わたし)あり、だ。
兄妹は、姉だけしっかり者で優れていて、兄もわたしも、もはや、いるのか、いないのかわからないぐらい、もうこの世には生きてない感じである。
とりあえず、わたしは、子供や孫たちを遺した。
(あ、わたしはまだこの世を去っていないが)
それだけが、生きていた実証かも知れない。

とか言いながら、まだ、子育て後方支援係を任命されている。
はやく引退したいのだが、もうじきあと数十分で、ドヤドヤとタスクの山が押し寄せてくる。
早めにブログ遊びは終了し、お役目、お仕事、スタンバイしなければ。
これもスパイスか。
(その割に、予定スケジュールを乱され、疲労感が伴うが)

ということで、早く終えてサボりたい一心で、タスク処理に着手します。
(て、食事準備にかかるだけなんだけど。相変わらず大袈裟)


クロワッサン症候群

2021-04-20 | 人生
半世紀前の自分。すでに義務教育は終了。
あれから50年。
半世紀かけて、醸成されて良い味を出している、と自分では思っている。
熟女とはまた違う方向性。
性別はあるようでないようで、ユニセックス、ユニバーサルデザインのようなもの。
ついでに、年齢枠もない。

四半世紀前、インターネットが初めて繋がってお話ししたのが、香港の中学生男子。
彼はもう40歳にはなっているか。
お互い、ハンドルネーム。
国籍、性別、年齢を超えた繋がりだった。
今も当時のそれに近いかも知れないが、関心事や近況を書いていると年齢はすぐバレる。
魂の深いところで繋がっている場合は、あまり気にならないが。
だが、背景は本人を形成する欠かせない要素だ。

浮世離れしているため、現実世界ではあまり友達はいない。
(「今でしょ!」でおなじみの元塾講師、林先生も「友達いない」と、テレビ番組内で言っていた。関係ないけど)
インターネット上では、こころを開いていることが多い。
リアルなわたしを知らない人に対しての発言は、お互いに負担が少ない。
発言に責任を持たないかというと、微妙なところ。

ちなみに、、、
クロワッサン症候群というのがある。
クロワッサンという名の雑誌の掲げる理想の生き方モデルであるシングルを追いかけていた読者。
途中で、編集方針を既婚ダブルインカム、お洒落なワーキングママにモデル変更された。
それまでクロワッサンに影響を受け独身を貫いてきたが、今更やり直しがきかない年齢になり、出産からも結婚からも置き去りにされた女性たち。

桐島洋子さんが、当初、その生き方モデルとして読者を牽引していく格好になった。
彼女は3人の子供を持つシングルマザーの草分け的存在だった。
当時はまだ保育制度が今ほど整っていなかったため、産休や育休などなかったようだ。
立て続けに毎年、産んだばかりの赤ん坊を知人の未亡人に連続して預けた、とのこと。
母親に、ではなく、知人の未亡人に。
ざっくりインターネットで調べたところ、桐島洋子さんが50歳ぐらいの時に海外に行っている間に、ご両親は亡くなったとか。
孫が生まれた時はご存命だったにもかかわらず、預からなかったと見られる。
出産に反対したのかなと勝手に推測する。

桐島洋子さんのルポタージュ著書「淋しいアメリカ人」は、読んだことがある。
内容は、あまり印象に残っていない。
が、あの時代なら、そうとう破茶滅茶、破天荒、おてんば娘だろう。
わたしは憧れはしない。
というよりは、無理。
そんなエネルギーも能力も気力も実行力、実践力もない。
生きてきた背景があまりにも違うから、そんなストレスの山に挑もうとは思わない。
比較するのは不毛。
そういった人を生き方リーダーイメージとして君臨させて、一般の普通の人を引っ張っていくのは良いが、自分と桐島洋子さんは能力や運不運、その他、違う、という、現実とのギャップに気づかず、後戻りできない年齢になってしまった読者に、どう責任を取ってくれるのか。

自己責任。
世の中、信じられるものは、自分しかない。
裏切られたり失敗したら、外因に責任を押し付けても、責任を取ってくれないことが、ほとんどだ。

わたしは、自分ほど信じられないものはないと思っている。
じゃあ何を信じろと?
自分を信じられないのだから、他人も信じられない。
とりあえずまだ一番良さそうなものを信じて、たまたまうまく行けば、儲けものだ。
うまく行くとは限らないのが常、と思えば、腹も立たないし、悲しくなっても一瞬だけ。
失敗マイナスが転じて、その後、プラスになることもあるのだから、長い目で見ないとわからない。

ちなみに、腹立たしいことがあっても、命まで取られない。
(「憤死」なんていうのもあるが)
復讐や仕返しを脳内でシュミレーションして鬱憤を刹那的に晴らしていると、時間が経つとまた事態は変わっていることもある。

近年、桐島さんの言っていたことが、たまたまわたしのモットーと同じだった。
「流れに身を任せる」
じたばたもがくと、余計、悪い方向に進む。
沈んだものは、じっとしていたら、いずれ浮いてくる。
待てるか、待てないか。
性格にもよるだろう。

大なり小なり、レベルの違いはあれど、根本的に底に流れているものはそう変わらないと感じた。
ただ、わたしはそもそも若い時から保守傾向にあるので、身の処し方、道の選び方は違ってくるが。

ところで、、、
破茶滅茶ながらも子供をもうけた桐島洋子さんと、切れ味鋭い上野千鶴子さんの対談を読んだが、老後の収まり方は、意識が違っているようだ。
子供を持たないと、甘えが生じる余地がない。

高齢の親と、60代ぐらいの子供の断絶感などが取り沙汰されている手記を読んだ。
子供がいても、老後、自立できなくなって子供と同居して世話してもらうと、良好な関係が維持できなくなる恐れがある。
人によって、認知症の発症などで心身自立が出来なくなると、過去の恩と現実との狭間で親子に亀裂が生じることもあり、きれいごとでは済まない状況もある。

子供がいても、いなくても、厳しい老後は待っていると覚悟しなければならない。
ピンピンコロリといきたい、などと、あまりにも当たり前すぎるお気楽なことを言う気にはならない。
当たり前すぎることをわざわざ口に出して言う、、、という行為は、わたしには単純で深みがなく浅はかに感じる。
漫才のネタならいざ知らず。

まあ、なるようになる。
なるようにしか、ならない。

光と影

2021-04-16 | 読む人々には興味ない話
この頃、思うのだが、心身共に健康に産み育ててくれた両親に感謝している。
唐突な話ではあるが。
あまり悲観的でもない、楽天的な性格と、病気知らずの健康な身体、これは生まれつきのようだ。

子供時代は学校でイジメに遭っていた兄、姉の下で、ちゃっかり目立たない方法を自然に身に付けたように思う。
学年が上がるにつれ、成績面では、優秀だった兄、姉を先生が引き合いに出し、「それに比べてキミは、、、」と説教の種にされ、劣等感に苛まれても不思議ではない状況だったにもかかわらず、全然といってよいほど、めげていなかった。
たぶん、当時、家庭が大嫌いだったので、外の生活が少々悲惨でも、家のことと比べると、マシだったからかも知れない。
というか、子供の頃から先生など信じていなかった。

何かにつけ、結構、激しい家庭だったように思う。
わたしの価値観は、「悩み事や嫌な事があったとしても『人の生き死に』にまでは及ばない」というものだった。
子供の時からそう思っていた。
死ぬほど辛い、というのは精神的な比喩表現で、どんなに辛くても、実際に死んでしまうことはない、と。
生きるか死ぬか、そういうギリギリの線まで来ていない、切迫していない、と感じていた。
友人が、「ママに叱られた〜」とヒステリックに泣き叫ぶ姿を見て、何が悲しいのか、まったく、さっぱり、まるでわからなかった。
蚊に刺される程度なんじゃない?と。
まだ社会に出ていない子供であるわたしにとっては、家庭でのたいした虐待もなかったし、死に至るほどのことは実感出来なかった。

が、今の世の中の子供達を取り巻く環境や意識とは隔世の感がある。
わたしは時代背景も今とは違うし、苦労知らずなのかも知れないが、それなりに気苦労はあった。
生きるか死ぬかが判断基準の子供って、ある意味、度胸が据わっている。
というよりも、もっと、ちゃんちゃん敏速に機敏に動くべきだろう、子供は子供らしく。

話はコロッと変わるが、、、
昭和39年〜40年に「小説現代」に連載され、今から半世紀も前に刊行された小説を今、読んでいる。
黒岩重吾。(1924〜2003)
主人公や登場人物に対する感情移入がまるで出来ない。
当たり前だ。
環境が違いすぎる。
時代が違いすぎる。
感覚が違いすぎる。
性別の違いによる感じ方のギャップ。
読者ターゲットの違い。

女性の考え方は、ああいうものではないと思う。
至極当然だ。
そんなにも昔の男性の書いた小説だから。
第一、わたしの父親世代。そう年齢は変わらない。
戦争出征経験者。
高度成長期の落とし子世代のわたしと感覚が違わないほうがおかしい。

いくつかの短編が収められている文庫本であるが、同じパターン表現が数カ所出て来て、プロの小説家といっても、表現の多用を避けるのは無理なのか、それとも、そういう表現が好きなのか。
わたしが書き手で仮にプロなら、繰り返し同じ表現を使うのは、ちょっと恥ずかしい。
避けたい。
あまり気にしない人や、そういうパターンが好きな人は、そうこだわらないのだろうが、わたしは神経に引っかかる。
うるさい読者だ。

が、1か月に700違い本数のものを書いていた時代のようなので、いちいち覚えていないのではなかろうか。
50年も経って、チマチマ重箱の隅を突くのも、作家と言えどロボットじゃあないのだから。

というか、明らかに読む小説を選び間違えている。
NHK朝の連続ドラマ「おちょやん」の主人公が生きていた時代や地域を舞台に書かれた小説が昨年、書店に平積みにされていたのを手にした。
時代は昭和に移り、特定の地域をクローズアップして書かれた小説も同じコーナーに並べられ、その小説を黒岩重吾氏が書いていた。
黒く暗く重い、、、。
ずしっ。

まあ、そういう本を買ったということは、興味があったということだ。
女性の社会進出など、どこ吹く風の、底辺で蠢く女性たち。
うーーーーん、、、
まったく理解できない。
まったく共鳴できない。
外国語の原書を読むかのごとく、想像力だけで読んでいる。
(シェイクスピアはもっと理解できないが)
まだ、時代設定が明治時代〜の「おしん」や「あゝ野麦峠」のほうが物語としては訴えるものがある。

で、購入した本は、あと、一篇で終わり。
なかなか話が進まないので、パラパラ飛ばして結論を先に読みたいのをぐっと我慢して、頑張って読んだ。
相手を殺したり、自殺したり、浮かばれない結末に、あ〜あ、またか、とため息。
ちょっとだけ涙が流れる箇所もあったが、最近、何もないのに涙が出ることもあり、自分の涙が信用できない。
しかしまた、なんであんなに暗く出口がない、どうしようもない話ばかりなのか。
あれから福祉や数々の制度も整い、社会は成熟し、意識も変わった。
が、また別の社会問題も生じている。
人が暮らす場所、時代には、明るさも暗さも、喜びも絶望もある。
明暗、光と影は表裏一体。
コインの裏と表、どちらも真実である。

読後、時間が経つにつれ、内出血した身体のように、効いてきている。

一斉に放り込まれる先は?

2021-04-14 | 老い
同じ話を何度も書いている。 
2分割のお宅、建設中の話。
ごく最近、アップしている記憶はあるものの、どの記事だったか、探すのが面倒。
何しろ記事が長いので、読むのが疲れる。
と、自分の長文ブログに疲れていたら世話がない。
探せばすぐ出てくるのだが、それがどうした?という話。
気になっていることをきちんと正確に確認するのも面倒なお年頃。
わかっていながら、ほったらかし。
それがどうした?戦法。

本日は完全オフ、フリータイムなのだが、どう過ごそうか迷ったまま、すでに半日が経ってしまった。
小学生チームの孫たち、給食がまだ始まっていないので、うちに食べに来る?と誘ってもいいのだが、誘わず、うだうだ、ぼーっとしている。

我が家へ昼食のお誘いは、娘が育児休暇中で給食が始まるまでの今しか出来ないことには違いないのだが。
いや、まだ明日もその定時ルーティン路線のスケジュールであるし、別件予定もあるので、今日はパスしよう。
のんびり、何にもしない日にしよう。

「今しか出来ないこと」の定義、選択、基準、さじ加減、バランスが難しい。
とても楽しいことでも、毎日精一杯すると、とても楽しいことではなくなってくる。
仮に食に例えると、大好物も大量に頻繁に食べ続けると感動が薄れる。
疲れてきたり、摩耗したり、義務になったり、期待に応えようと無理したり、徐々に負担になってくる。
あるいは、飽きてきたり、慣れっこになって不満が出てきたりする。
自分が楽しい分量、熱量になるように選択するのが望ましい。
ちょっと手前、八分目がわたしのモットーだ。

全てにおいて、そう。
例えば、くだらない例を出すと、ファッションひとつにしてもそう。
公式の場以外では、ここぞという時も、一つ手を抜く。
そういうのを「抜け感」「こなれ感」と、ファッション誌では謳うが、そんな大層なものではない。
頑張り過ぎるのが快適ではないだけだ。

行動もそう。
100パーセント頑張っているのだが、80パーセントも出来ていない。
200パーセント頑張って、必死になっても85パーセントぐらいの達成率。
客観的に見ると、もっと低いだろう。
わたしには100パーセントは無理、増して200パーセントなど程遠い。
頑張って成果を出している人を見ると応援したくなる。

自分への期待値を極力低く下げるように日々、周りにアピールしているように思う。
特に意識していないかも知れないが、ドジ脱力ばかりなので、周りも諦めているのだろう。
これは悲しいかというと、じつに楽ちんなのだ。

だが、銀行や携帯電話ショップや、自動支払機で払うショップなどで、一テンポの遅い反応のわたしに、スタッフの人は、目を釣り上げるか、大きな声でゆっくり話したり、いかにも高齢の人に対するような態度を取られると、不快になる。
「深く傷つく」と書こうかと思ったが、そう書くのは情けない。
テンポがほんの少し間延びしていると、その瞬間、理解の遅い高齢者枠に放り込まれる。
「あ、この人は、わかってない人!」と見なされる。
いたくプライドを傷つけられる。

元々、ピンと目から鼻に抜けるタイプではないのだが、おっとりは自分のキャラだと捉えていた。
が、高齢枠が加わると、自覚していないまま、他の大勢の高齢の人々と共に同時に弱者枠に放り込まれるイメージ。
トロイのを自覚するか、テンポを上げてシャキシャキするか、だが、一番有能なピーク時の若い時でさえ、「大正時代のお姫様」と時代遅れレッテルを貼られていたのに、心身ともに歳相応分の老化を加える今は、ますます、まばたきもしないお姫様になっている。

しかし、無駄な抵抗はやめよう。
開き直るしかない。
65歳以上の高齢者にはワクチン優先だそうだが、65歳以上は高齢者なのかと思うと感無量である。
わたしは、あと数ヶ月で高齢者になる。
ちなみに、政治家はほぼ全員、高齢者だ。

そこで苦肉の策として、高齢者呼ばわりされるにはふさわしくない前期高齢者と、後期高齢者に行政では分けていたように思う。
65歳以上の人口に占める割合は、いったいどれぐらい?
65歳は、まだまだ働ける。
が、高齢者ということで、ひとくくりされる。
これからは、高齢者という自覚をじわじわ徐々に持っていこうと思う。
へんに傷つかないで、かわいいおばあちゃんになれば良いわけで。

しかし、銀行やお店の方、もうちょっと余裕をもって対応していただきたい。
無理かも知れないが。

とかなんとか、期待されずに、義務を最小限にして、ぼーっと遊びたい。
一人で遊べなくなったら、最近、どうしてるの?と気にかけてほしい、、、なんて言うとムシが良すぎか。

サボりすぎると、楽しみまで取り損ない溢れ落ちるから注意が必要だ。
他者と自分、お互いの微妙な力の加え方が要だ。
(タイミング、圧の強弱、持続状態、関わり具合、などなど、、、)

ちなみに、人生100年時代において、わたしの敬愛する上野千鶴子さんは、とてもこころにピタっとはまることを言っている。
その話はまたの機会に。

何でもないこと

2021-04-13 | 日々のこと
楽しいなあ。
毎日が。
こんなに楽しいなんて、おかしいのかな。
でも、毎日、毎日、充実している。
不思議だ。

おそらく、満足のハードルを下げているのだろう。
ちょっとしたことが、嬉しい新発見。
いままでいったい何をしてきたのだろう。

アタマがパーになったのか?

↑これは、一昨日の夕方、帰りの電車内で書いたもの。
うーむ、アタマがパーになったのかも知れない。

今日は今日で、行きの電車自動券売機を前にオタオタ。
冷や汗たらたら。
財布をもぞもぞ。
中味が足りるか、はらはら。
メモをぱらぱら。
(じつは、小学3年孫の国語の勉強でこういうのを延々と教科書に書いてあり、面白がっているわたし)
擬態語?副詞的?形容副詞?
英語と日本語の文法用語がごちゃまぜになっている。
孫に国語も教えられない、、、。

まあいい。
あとでググろう。
グーグルは、わたしの先生。
何回ググッても、全く覚えられなくても、電波事情とバッテリー残量さえあれば、スマホは文句も言わず、教えてくれる。
(今、焦りながらググッてみると、どうやら日本語では「副詞」のようだ)

と、どうでもいい話から先ずはスタート。
いつも、中味もどうでもいい話が多いが。

ところで、、、
我が家の、道を挟んで斜め向かいの家が新築されている途中で、2軒が同時進行している。
ニコイチ(2戸1)住宅として、住宅会社が建て売り住宅を先に作ってそれから販売するのではなく、元は一軒家で高齢男性がお一人で住んでいたが、数年前に解体撤去後、更地にされたものの、買い手もつかず、除草費がかさみ、持ち主の不動産会社は困っていたことだろう。
そこを2分割された土地をそれぞれ別の購入者が同時期に買い、各家が別のハウスメーカーで建てている。
建築着手は2軒は1ヶ月ぐらい前後し、時間のズレがある。
建物の外側が建つと、あとは内装にかかる。
家の前には2軒分の工事業者の車が所狭しと並ぶ。
一部、数台は二重に道路にはみ出し並列駐車している。
近所に、買い物への行き帰りなど、建築業者の皆さんと顔を合わせることも度々。
賑やかである。
通常、建て売り住宅だと一度にまとめて同じ業者が工事するが、1戸ずつ別々の業者なので、人数が2倍になる。

その隣は前からの住人が住んでいた家があるが、先日、山のような断捨離品が自宅前に積み上げられていた。
翌日、きれいに無くなっていた。
廃品回収業者に依頼したのかと想像する。
たまたまかも知れないが、隣が新築されるとなると、我が家も片付けてキレイにしようと影響を受けたのだろうか。
それにしては、うちは、全然、断捨離の影響を受けていない。

ちなみに、断捨離したご近所さん、巨大な物置きを作られたようだ。
断捨離ゴミを見たついでに、見慣れない物置きを見つけた。
あんなに断捨離でモノが減少したのに、まだあれだけの大きな物置きを新たに作り、モノを入れる空間を設けられたわけだが、一体、何を収納するのだろう。
と、人の家に関心を寄せるヒマがあれば、自分の家を断捨離せよ!と、こころの中の神様が仰る。
はい、その通り。
しかし、あのお宅、あんなにモノを家の外に押し出して、リフォームでもするのだろうか。
わたしの独断と偏見、根拠なき憶測では、住民である高齢のお母さんが老人施設に入るのか、入院したのか、あるいは、ひょっとして亡くなったのか、何らかの動きがあったと思われる。
今時、亡くなっても自治会には事後報告なので、たとえ目と鼻の先に住んでいても、内情はわからない。

とまあ、うちの近くでは新たな動きがあるわけで、少なからず、周りに活性化の動きが伝わっている。
他にも、ご近所さんに4分割された土地に4軒の新しい若い家族が更に入るとのこと。
1軒につき土地代金は4分の1なので、若い人も入手しやすくなる。
若返り、活気が生まれるといいなあと思う。

毎日の何気ないことや変化、あるいは変化がないことが、貴重な幸せの一つ一つなんだと。
取り立ててどういうことのない、平凡な一日一日に、しみじみ、落ち着いた愉しさを感じる。

嵐が来るまで静かにサボろう

2021-04-10 | 日々のこと
さて。
ちょっとこの頃、なんだか追われる気分。
わたしの、おサボりお休みタイムが終了しそうだから。
期限付き。
長女が育児休暇が終わり仕事に復帰する。
で、小学生になったばかりのピカピカ一年生の2番目孫のお迎えや自宅受け入れ待機、後方支援。
そして、4番目孫は、今春、保育園に入り、ピカピカ保育園児(生後8か月)となった。
1番目、2番目は小学生チーム、3番目、4番目は保育所チーム。
孫。親がいて、にこにこ微笑みながら見ているのと、親がいなくて見るのとでは雲泥の差。
オブザーバー(観客)から実施者へ。

それに加えて、他にも忙しくなる案件が数件、控えていて、打ち合わせが増えてきた。
が、とりあえずは、嵐の前の静けさ。
お尻に火がついてから慌てよう。
最後のあがき、サボれる時に思いっきりサボろう。

そのうち、「ばあちゃん、この子らに晩御飯食べさせといてね」なんて、孫たちを我が家にポイと放り込まれたりしたら、数年後はすごく半端ない量の食糧を消費しそうな予感、、、。

移り変わり

2021-04-08 | 
嫌〜な話を書く。
爽やかな話や、心温まる話を読みたい人は、ここでストップしてください。
わたしは、人のために無料でサービスしてブログを書くほど、余裕もなく、こころが満たされていないので。

さて、嫌〜な話。
もう10〜15年は軽く経っているだろう。
ご近所のママ友が、一時的に自宅に預かることになった舅さんの愚痴を言う。
舅さんがトイレを汚す。
自分の夫のトイレ始末でも嫌なのに、舅のトイレ後、汚した始末をする嫌さ。
食事の一時間以上前から、じーっと座ってお箸を持って待たれる嫌さ。
嫌で嫌でたまらない、と。

姑さんが病気で入院中に舅さんを預かったらしいが、息子である旦那さんは次男。
長男でもないのに、なぜ次男の家で預からなければならないのか。
ぶーぶーこぼしていた。

やがて間も無く姑さんは亡くなり、本格的に舅さんを引き取ることになった。
どれだけ嫌か。
そうとう彼女が嫌がったせいか、嫌だ嫌だオーラ、ビームが強烈だったせいか、なんと舅さんは、何の持病もないのに、姑さんの亡くなった1ヶ月後に亡くなった。
病名は不明。
わたしはあの時、彼女の怨念、嫌な気持ちが手に取るように舅さんに伝わり、舅さんは、こりゃいかん、とばかりに奥さんの後を追ったのかと感じた。
このキツイ嫁のところに居なければならないなら、なあ、おまえ(亡くなった奥さん)、俺をおまえのいる所に連れて行ってくれ。
そう、祈ったのかも知れない。

すごい力だと、わたしは感心した。
そのママ友は、土地も家も旦那さんの親に買ってもらい、結構なことだと思った。
その代償に旦那さんの両親の世話をしなければならない、、、
無料で良いとこ取りは、ムシがよい。
伏線は覚悟していたかも知れない、、、。
大変だ、、、が、1ヶ月で実にあっけなかった。

そのママ友は、最近、都市部のマンションに家族4人で住まいを移した。 
元々、彼女にしてみると、あまり好きではない和風テイストの家だったし、夫の親に買ってもらった、自分たちで買った土地・家でもないので、さほど愛着も執着もなかったように想像する。

旦那さんのご実家は車で30分〜1時間の地。
ご長男さん一家は、阪神地区に別にお住まい。
家はもう空き家になって久しいだろう。
処分されているかも知れない。

そのママ友も随分前にご両親は他界し、ご兄弟は遥か遠方に住み、実家にも誰もいない。
というか、実家自体、引っ越されているので、元々の地元の人ではないようだ。
そう考えると、実家は転々とする場合も少なくない。
わたしのケースのように、土着的な考えや感覚は古いタイプと思われる。

京阪神屈指の高級住宅地、芦屋、中でも六麓荘の住民も隣人さえ知らないうちに変わっていることがあるし、東京、世田谷区の成城や、松濤なども明治以降のようだし、日本の場合は、住宅地としては都市部より地方のほうが特徴があるように思う。

と話は全く脱線している。
そのママ友は、わたしとは30年以上前からご一緒した、この地から引っ越して出て行った。
熱く子育てを頑張った日々の思い出の一つになっている。
もう一人のママ友も、子供達が全国に散らばって赴任したため、新幹線の駅近くの、皆んなが集合しやすい、交通の便利な地に、残された夫婦2人で引っ越して行った。
ライフワークや、住み手の事情が変わると、住み替えるというわけだ。
リフォームもさることながら、家を郊外の戸建てから駅前にマンションに移すのも、また、県をまたいで地域そのものをごろっと変わるのも、どれを選んでも良く、選択肢は広がる。
家族が集まりやすい、高齢者施設も。

ちなみに、持ち家の買値と売値に幅があり、利益が出るのは嬉しいことだが、土地神話が崩れた日本は、逆の場合が多い。
まして郊外地は高齢化も進み土地値は下落するばかり。
30年、50年、100年、、、移り変わる一方で、かたや、変わらないまま、時が止まったような所もある。
変わるのは顔ぶれ。
継承され世代交替が行われている。
わたしとしては、片足は躍動的な、変化のある地、もう片足は動かない地、軸足を時代の時、時に合わせてバランスを取り、時代遅れではない新しい風、空気を吸いながら、更新していくのが理想だ。