蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

夜中に、目をしょぼつかせて、イヒヒとも笑わず、無意味な苦労。

2012-12-31 | 日々のこと

ノートパソコンで、ブログを更新中。

夫の実家で、年末年始を迎えるため、ただいま、夫の実家のキッチンで、夜中に、もそもそやっている。
インターネットにつながったり、つながらなかったり、通信状況悪く、ストレス最大。

去年、パリで、なかなかネットにつながらなかった、二軒目のアパルトマンを思い出す。
あの時、通信の悪さによるストレスは、けっこう、すごかった。
アパルトマンの自室でiPadで文字入力して保存し、道を隔てて斜め前の、イタリアンカフェで、通信、更新していた。
今もそれに近い状況だが、ここは田舎なので、Wi-Fiカフェなんぞない。

このノートパソコン、文字の大きさが、中途半端で、メガネをかけると見えない、メガネをはずすと見えない。
どっちにしても、見えない。
メガネが悪い。目が悪い。画面との距離が悪い。
通信のストレスもさることながら、入力しづらいストレスも大きい。

直に電気カーペットに座って、背中を丸くして、ノートパソコンに、張り付き、しがみついているので、腰に負担がかかって痛い。

なら、やらなきゃいいのだが。

そこを、無理してやるのが、わたし、なのだ。
おもしろくも、なあああんともないものを、目をしょぼしょぼさせながら、やる意味は???あるのか???

・・・・・ない。

で、夜は無意味に、どんどん更けてゆく・・・。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 わたしも、どんどん老けてゆく・・・。

 


隣の芝生は、ゴージャスな薔薇の香り

2012-12-29 | 暮らし

ブログ散歩をしていて、
特定の人だけが読める限定記事や、コメントがあると、なんだか、温度が下がる。
ないと、なにも感じないが、あると、なにか・・そう・・・
身内と、身内でないものを分けているのが、はっきりわかって、自分が、たんなる通りすがりのモノだということがわかる。
そして、勝手に距離を感じる。

長い間、ご無沙汰していた、とあるブログを1年ぶり?に、(何年ぶり? それもちゃんと覚えていない)
その、わたしにとって、卒業ブログを昨日、ふと訪れてみた。
なぜ、卒業ブログかというと、「好きで、キライ」、の、ブログ。
決して好きではないのに、最初の頃、時には、コメントを入れたりしていた。
好きではないが、気になっていたのだろう。

なぜ、好きでないのに、気になるのか?
おそらく、憧れが、捻じ曲がって、卑屈な感情に支配されているのではないかと分析する。
グルメ、インテリア、お出かけ、・・・ゴージャスな生活。
美しい写真で、これでもか、これでもか、と、上質・美生活がアップされている。
彼女に任されている、毎月手渡されている家計費は、おそらく50万円は下らないだろうと想像する。
それは、純粋に食費と、彼女のお稽古事や食べ歩き、娯楽、ちょっとした買い物などの消費に費やす費用。

稼ぐ旦那さんが、気持ちよく、ぽーんと大金を毎月、くださるのだから、それはそれで、けっこうなことだ。
まったくの、アカの他人なのに、惜しげもなく、鍵カッコ非公開コメントにもせず、公開メンバー限定にもせず、
その絢爛豪華な生活を垣間見ることができて、ありがたいことだ。
仲良しさんも、そうでない人も、分け隔てのない、天真爛漫な彼女の、気が変わらないことを願うばかりだった。
のだが・・・

しだいに、自分の生き方と違うということが、わかってきた。
ライフスタイル、生活信条が、まるで違う。
憧れ、家庭生活のお手本に、と思っていたが、だんだん、憧れなくなってきた。
部分的には、食卓に乗るメニューは、参考になるが、メザシは食卓には乗っていない。
材料費もとても高そうなものなので、参考にするにも、できないものも大いにあるが、
まあ、それはそれ。
(こんな素材なら、美味しくないわけがない、というような、高級食材)

いえ、ひねくれているわけでは、ないのですが・・・
(他人が見れば、この状況、ひねくれている、ひがんでいる、としか見えないと、思うが)

で、他人にどう思われようが、(コメントとか、ほとんどやりとりもないし)
胃がもたれるような、なんか、快適ではないような気がして、前々から、どうしようかと思っていたが、
ある日、そのブログから遠ざかることに決めた。(訪問しないだけだが)

で、で、久々ぶりに、そのブログを、えいやっと訪れたわけである。
まあ、なんと、前とまったく同じ。
まあーーったく、同じ。
内容、イベント、同じ。
同じ家、同じ訪問先、同じような出歩き先。

わたしのブログだって、まったく同じなんだけれど、
久しぶりに同じ内容を見て、とても不思議なような気がした。
彼女は、このライフスタイルが確立されているんだ。

いや、しかし、世の中には、お金持ちはいるものだ。
ゴージャスマダムである彼女が、贅の極めっぷりに圧倒され、目を丸くして参加する、お稽古の先生のお宅(別荘)・・・
パーティには100人近い人が参加し、著名人もゲストで招待されるようだ。(毎年、恒例)
会場や、お食事が素晴らしいのは勿論のこと、
別荘の維持費、どこから出ているんだろう、なんて、下世話な好奇心が、むくむく。
お稽古にしても、生徒に教えていても、あの内容では、持ち出しが多く、趣味としか思えないので、赤字だろう。
いわゆる、サロンだ。
(お金もうけは、旦那さんに任せ、趣味を極めた、「採算」とは別のマダム世界)
膨大な赤字と、維持費、この固定費、どこから出ているのか?
ご主人の会社がらみの経費で落としているのか?
だとすると、なに関連の会社だろう?
オーナー社長?
維持し続けられるのか?

暮れに、掃除しないといけない、カウントダウンの時計の音がチカチカしているというのに、
こんな、まったく関係ないこと書いていて、どうする?
いや、ちょっと興味があったもので。

ま、その卒業ブログ、同じコトを繰り返して、行っておられるスタンスは、人それぞれ、素晴らしい。
人によって、内容は、正反対であっても、しょぼいことを日々、繰り返して行っている人も、素晴らしい。
同じコトを繰り返し行うことによって、人は、なんらかの信条、モットー、身につくもの、気付き、が、ある。
人それぞれの哲学が生まれる。

哲学なんか、持たないという哲学も、立派な哲学だ。
哲学なんか、なんのこと?という、哲学の存在も知らないことも、それはそれで幸せだ。
「考える」という局面に立ったことのない人は、怖いものなしだ。

「ぶーぶーいって、ひねくれて、やぶにらみしているのが哲学だ」、
なんて勘違いしているかも知れないより、純粋かも?

アタマを使うか、お金を使うか、どっちも使うか、どっちも使わないか、
人それぞれ。
ないものは、使えない、これもチョイスできない、チョイスだ。
選択肢を持たないという選択をする、・・・これも、ひとつの選択。
選択肢を持てないという選択になってしまう、・・・これもひとつの道。
チョイスそのものが、できない。迷いがない、迷いようがない。道は、一本。


なんの役にも立たないことをうだうだ書いてないで、
さ、はやく、掃除にかかろう。
昨日は、ごそごそ整頓で、時間が来てしまった。
暗くなってしまったので、掃除は日をまたいで持ち越すことにし、夜から明け方3時半まで、年賀状を書いていた。
(いまどきの時代に、オール手書き、手製。7~8時間かかった。究極のアホかも知れない)

かなりオシリに火がついてきた。
もう、パソコン前のイスから半分、オシリが浮いている。
暗くならないうちに、掃除を完了しなければ、誰が見ても、正真正銘のアホである。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


 


どろっと暗い・・・あっち行け、と蹴られてドブに落ち、にっと笑う。

2012-12-28 | ブログ

最近、わたしは、良い人になっていっているような気がする。
毒が、吐けない。毒自体が、ない。
共鳴、感動、同情も、もちろん尊敬していただけるような日常も、非日常もない。
激動の記録も、輝く美も、シャッと血が出るほど切れる鋭利さも、なあああんも、ない。
(もともと、ない)

ブログを綴っていて、面白くない。つまらない。


ブログは、自滅してもいいかなあ・・って、思ったりもする。
自分で作ったものを、自分で壊す。つぶす。
ついでに、自分まで壊れる。

しょせん、自分のブログで、自分のことしか書いてなくて、超・自己チューで、
なんの役にも立たない、有益なこともない、つまらん内容をあげたら、キリがない。
それでも、自分が救われるのなら、どんなひどい内容でも、それでいい。意義がある。
が、自分さえ、救えないような、中途半端さ。

せめて、アホでも、健気だったり、一生懸命だったり、読んでいて、応援したくなったり、こころ、あたたまったり、
こんな人に比べると、ああ、わたしはなんて、マシなの、と感じてもらったり、
あるいは、優越感や、いい気分を味わえるような・・・
楽しいとか、すっきりする、とか、ウエットになるとか、
わたしも、頑張らなくちゃ、と奮起するとか、刺激を受ける、ピリッとくる、けしからんと火を噴く、とか、
そういう読後感。
そういうもの・・・が・・・ない。

幸せな日常を綴って、だれが気分が晴れる?
自分は正しいのよ。ほら、だから、結果が、これ。
自慢? 
鬱陶しいだけだ。
悲惨な日常、不条理に耐える「おしん」みたいな、そういうのが、欲しいところだ。


書く内容も、技術も、なく、世間からも遠い。
で・・・世間とは遠い世界に、耳を澄ます。
耳を澄ますと、聞こえてくるものがある。
同じ質の、声。
静かな時間。

それだけで、充分かと思ったり。
幅広く、不特定多数の人の興味を引きたいという、そんな浅ましい看板は、下ろしたい。
(何度もそう書いているような気がするが・・・、へんに、しつこい)

というか、そんな看板、出してない、って、自分では思っている。
でも、こころのどこかに、あるのだろう。
いい年した、「ねえちゃん」をとっくに通り過ぎ、でんと構えた「おばちゃん」にもなれない、
さらっと枯れた「おじさん」にも、じつは、なっていない、
生煮えの、わたし。
こんなこと書くと、また、リアル人に、なんか、言われそうだ。
(「あなたのブログは、暗い」と。「ざざざーーっと、スクロールしよっと」、と)
リアルも、ネットも、もう、なんでもいい。そんな気分。

 

とりあえず、一大決心を!!
パソコンから一秒でも早く離れ、
大掃除をして、年賀状を書いて、そして、年末年始の行事に向かって、出発進行!!

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

明日も、なに食わぬ顔で、ノーテンキな更新をしている可能性も、大いにありです。

 

 


五感を鍛える

2012-12-27 | 暮らし

昨夜は、閉店10分前のデパ地下で、半額やら、3つまとめてお安いよ~!!やらを、
ばんばん買った。
閉店時間の8時になったのに、まだ、ベーグルサンドも追加して買った。

安いですね~、
閉店時間には、食料品、各お惣菜は、ぐ~んと値下げの叩き売り状態。
自宅近所のデパートでは、いつも行くのは、閉店1時間前ぐらいなので、あそこまでは安くない。
というか、閉店真際には、何も残ってない。

大阪駅・梅田駅あたりにはデパートが4つもあって、競争を強いられるようで、活気がある。
ただし、伊勢丹は、地下食料品売り場は、閉店真際でも、しら~っとなっている。
まじめに気合を入れて、売る気、あるのか?
ナニワ商売は、あんな、気取ってちゃあ、客がつくのか、心配する。
わたしは一回、行っただけで、やめた。


フランスにお住まいの方々、カロリー高そうなものばかり食べて、よく太らないんだなあ・・・と、感心。
ワインと合いそうなものが多い。

わたしは、ごくごく最近、ワインとシャンパンを味わえるようになった。
高くても安くても、自分の口に合うものが好き。値段や、ウンチクは関係なし。
ちょこっと商品に説明が加わると、舌の味わいに加え、プラス脳の部分で感じる、奥行きが増すのかも知れないが。

といっても、自分で作るものは、ひどいものばかりだけれど。

自分では、ほとんどなにも出来ないけれど、見るもの、食べるもの、いろんなことは経験済み。
五感をフル活用、どんなものでも味わい尽くすということは、生きることの楽しみのひとつだ。
あれこれ、いろんな要素が加わると、もっともっと味わいは深くなる。
ムードを盛り上げる演出と、仲間がいれは、言うことなし。
なあんて、現実と脳内を、ごっちゃにしながら、ブログで一人、楽しんでいる。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


ロボット人生

2012-12-26 | 人生

人には、なんでも、ひとつぐらいは「取柄(とりえ)」というものがある。
わたしは、いくら頑張って考えてみても、それが・・・ない。

強いて言えば、取柄がないということを自覚していることぐらいか。
しかし、努力して治そうとしないので、自覚しても、あまり意味がない。

人生のコンセプトは、役には立たないが、人の迷惑にならないこと。

わたしの人生での役目は、ほぼ終盤戦を迎えようとしている。
一つ目は、自分が生まれて成長したこと。(9割終了)
二つ目は、子供を産み育てたこと。(終了)
三つ目は、親を見送ること。(未了)

2つの「生」、1つの「死」に、関わることだ。
「死」の順番が逆になるという悲劇も、今のところ経験せず、その幸運に感謝している。

この3つのこと以外は、お遊びだと捉えている感がある。
その時、その時は、必死なのかも知れないが、生死に関わるほどでもないことは、あまり重要視しない。
ただ、生きる質を向上させるための努力は、したほうが、しないより、自分が心身ともに快適に暮らせる。

わたしは、努力をするとしたら、人のためではなく、自分のためである。
自己チューそのものだ。
もし、人を喜ばせたいために、なにかをするとしても、喜んだ顔を見たい、という、自分の欲求を満たすためだ。
時に、それは、喜んだ顔をしなくてはいけない人にとっては、迷惑だったりもする。


人を好きになるとしても、
相手そのものが好きなのではなく、その人に対する、自分の気持ちが愛しいだけだったりする。
なので、相手が自分を好きでなかったら、とたんに自分の気持ちも冷める。
ねちねち執着しない。
これは、相手のことを本当に、とことん好きではないこと、無償の愛ではないこと、
見返りを求めるものだということが、はっきりわかる。

逆に、自分は、相手のことをなんとも思っていなくても、相手がわたしのことを好きであれば、
その人が良い人なら、わたしも相手のことが好きになる。
相手自体、人間そのものを好きなのではなく、たんに、感情だけの問題だ。
自分を良いように思ってくれる気持ちが、自分にとって心地よいだけだったりする。
自己愛に包まれ、自己陶酔しているのだろう。


愛憎ゾーンに踏み込むほど、感情があまり動かない。
ロボットみたいだ。
ローリスク・ローリターン。
冷めている。

人を好きになる情熱をあまり持たず、その分、自分が好き。
常に関心を寄せるのは、自分自身のこと、自分しかない。
なので、自己チューなのだ。(何度も言っている)
人には期待をしない。

熱くなるときは、瞬間湯沸かし器のように、一瞬で沸騰する。
理性は、吹っ飛び、一直線。
これをやると、たいがい、相手は逃げる。

そして、また、元のロボットに戻る。

弱火で、ちょろちょろ、とろとろ、長時間、じっくり暖める、そういうストーブが欲しいところだ。


感情の起伏が激しい人は、たいへんだ。
見ていて、暑苦しかったりする。
かといって、あんまり上下しない人は、クールすぎて、冷徹みたいで、イメージがよくない。

わたしは、母が、いつも火を噴き、父が消火するどころか、その何倍も火を噴き、噴火する活火山で育った。
そのせいで、自然鎮火するまで、ずっと辛抱強く待つクセが身についてしまったようだ。
何を言われても、じっと嵐がおさまるまで耐えて待つ。
その間は、他のことを考える。
激情がおさまったころに、やっと埋められた地中から地面へ顔を出す。
わ、太陽がまぶしい、空は青いぞ、快晴だ、
とはならないで、たいがいは、ぼたぼた雪が溶けたような、まだ冷たい小雨が降っているかんじだが、
台風の勢いは、衰えている。

という環境で育ったが、姉は、わたしと、まったく違う性格だ。
環境のせいではないってことだ。
自分自身のせいだ。
オトナになれば、すべて自分のせいだ。
いつまでも、親のせいにしても仕方ないのは、虐待を受けて育った被害者ぐらいか。

日本人は、血にこだわる。
血統、血筋、肉親、実子。
里子や養子は、外国ほど、あまりポピュラーではない。
血を分けた子供に対しては、無条件に愛を注ぐ。無償の愛。
時として、それが、接近しすぎて、うまくいかないこともあるようだが。

親、子供や家族には、感謝の念と、理屈抜きの愛情を感じる。
そして、暖かい気持ちで接してくださる、わたしと関わる人々には、深く感謝している。


今日のブログ、着地点がない。
オチが、ない。時間も、ない。
どうすればいい?

ここまで読んでくださった方に、謝るしかない。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ

 


Xmasに、神から罰を受ける予感

2012-12-25 | 日々のこと

世の中の主婦の皆様は、クリスマスの後は、迎春準備にかかっておられることだろう。
クリスマスイブも、ターキーやら、チキンやら、ケーキにロウソク、窓の外は雪、ホワイトクリスマスの曲・・・
昨夜は、クリスマスっぽい演出で、ロマンチックなイブを楽しまれたことだろう。

さて、わたしは・・・といえば、
イブのメニューは、チャーハンと、二日前に作った野菜スープのみ。
お昼は、醤油を入れすぎて、へんに辛い、野菜と厚揚げのごった煮。
絶対、わたしは主婦ではない。
主婦の風上にも、風下にも、隅にも、床の下にも、置けない。

こんな、つまらん、手抜き中の手抜きチャーハン(じつは、たんなる、炒めヤキメシ)を、
「美味しい!」と、夫は一言。
なんか、気の毒というか、なんというか・・・。
宦官みたい?にしてしまった?

まあ、彼は、連休は、お遊びに出かけて留守だったので、夜、「ただいま~」と帰宅直後の、
留守にしていた、家族に対する引け目みたいなものもあって、
どんなマズイものが出ても、よっぽどでもない限り、「美味しい」と、言うのだろうけれど。


新米をどっさり、食べきれないほど農家から毎年いただいているが、
別の方から、前年の、ご大層な包装で送ってくっださった、どこやら産コシヒカリ、その他を余らせていて、
その古米は、そのまま食べても、いくら優秀ブランドでも、味はごまかせないと、思い、ヤキメシにすることにした。
(元ミスユニバースの、おばあちゃん版。
いくら美しくても、決定的な年齢による劣化は、ごまかせないのと同じ)

下娘は、目下、引きこもり、受験体制。年内からみっちり続き、正月もなし。
お茶を補充しに来る時以外は、ダイニングに顔を出さない。
せめて、その娘のために、一瞬でも、クリスマスっぽくしてあげればいいものを・・・。
なんでかねえ・・・。ほんとに、悪い母、妻。しみじみ・・・。

家族のために尽くさない人物像・・・それは、わたし。典型的。

と・・・ここで、下娘が、お茶の補充と、ブランチに下りてくる。
で、昨日の夫のお土産の、どこやらホテルの肉まんを電子レンジで温めて、二人で食べて、食事は1分で終了。
今から、わたしは、出かけるわけであって・・・
かわいい娘をほって・・・、ああ、悪い母・・・許してね・・・
昨夜も、他の家みたいに、華やかにメリークリスマスしないで、ごめんね、
(七面鳥、クラッカー、パンパンッ、シャンパン、プシューッ、ジングルベル、鈴の音、
サンタとトナカイさん、カミングホーム、ウエルカム・・・英語むちゃくちゃ)
と、下娘に言うと、「わたし、もう、○○才なんで」と、クール顔。
(そうね、その年齢は、わたしは、すでに子供が2.5人いた)

ああ、そうだった、オトナなんだった。
しかし、年はいっても、わたしなど、立派な年齢だが、内容は、まるで子供だし。

「そんなもんは、やりたい人がやれば、いいんや」と、下娘。
ほんと? それでいいの? ねえねえ・・???
と、いやらしげに、細目斜め目、猫なで声、すり足で、にじり寄る、わたし。


二つの相反することを同時に行うのは、スーパーマンでもない限り、なかなか、難しい。
ただでさえ、欠陥品のわたし。
「家庭的」「家事万能」「主婦」という路線とは、きっぱり決別しよう。
まるで、能動的に自分で選択して、採択したような書き方だが、たんに、落第、転落しただけだ。

器だけで、中身の伴わない、冷めた家庭、という、クール宅急便の宅配車のような家庭をコンセプトにしよう。
家庭とは、もはや言わない、家族が単体で、同じ家に住んでいる、というかんじか。
だが、これは、逆説的にとらえると、離れて住んでいる家族たちにも、同居しているのと同じ感覚を持てる。

住所は離れているけれど、家族。
同じ住所でも、家族。
温かいナマの血が通ってない、人形の寄り集まりのように、他人には感じられるかも知れないが、
けっこう、ふつうに、トラブルもなく、平和に暮らしている。
ただ、子供たちが家庭を持ったとき、どんな家庭を築くのかが心配だ。
砂の上に建つ要塞を造りあげたとしたら、わたしのせいだ。

幸運なことに、上娘のだんなさんは、とてもいい、よく出来た方なので、娘の不出来な面を補足してくれている。
朝ドラ「純と愛」の愛クンみたいなかんじだ。
わたしは、彼には、足を向けて寝られない。
上娘は、いろんな方々に、「よく出来ただんなさんだ」と言われるようで、
そんな、だんなさんを見つけてきた自分が偉いのだ、と、豪語しているが。
(それなりの、要所要所は、フォローもしていると思われる)

幸せのカタチは、家庭によって様々。
人が見て、外から見て、どう映ろうが、自分たちが、信念持って努力してたら、いいのでは?

ただし、わたしの場合は、信念持って、さぼっている。
これは、誰の目から見ても、神からの罰が下りそうだ。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


ブログと、世間と、自分

2012-12-24 | 日々のこと

人は、認められたいと願う動物だ。
そんな気持ちは、みじんもない、という人がいるとすると、・・・・
すっぱいブドウの進化形、ひねくれ形ではないだろうか。

認められたいが、その姿が、自分の理想としていない姿だったとしたら、
自分を捻じ曲げてまで、認められたいか、どうか。

生活がかかっていて、乳飲み子や育ち盛りの子供を育てていかなければならなかったとしたら、
理想だとか、認められたいだとかもなく、ただただ現実の、必要なものを手に入れるために、必死になるだろう。
もし、選択肢があるとすると、いかに、多く、手早く、効率よく、手に入るか、選択して、ステップアップしていくことだろう。

生きていくため、食べていくために、なにがなんでも、しなくてはいけない。

ハングリー精神は、一定のラインを満たすと、やがて、質を問うモチベーション、欲求へと姿を変える。

社会が成熟し、福祉も整い、餓死するような惨事はほとんどない、平和な日本。
生活保護も、あるし。
(生保の打ち切りを告げられ、市の職員に頭突き攻撃した人もいるそうだが)

目は肥え、舌は肥え、理想は、高まり、
馬の目前にぶら下げるニンジンは、たんなる普通のニンジンでは、なかなか全力では走らなくなっている。
走るのはしんどいから、ニンジンの代わりに、ニンジン・サプリメントでもいいか。
ハングリー精神、どこ行った?


ちなみに・・・
ハナシは、変わるが、
自分の書きたいものと、ウケがいいもの、これには、いささかギャップがある。
これは、ブログ村ポイントや、ブログへのダイレクト訪問数を自分なりに、統計集計、分析してみて、そう感じた。
タイトルのつけ方で、影響があることもわかった。
が、媚を売るかのごとくの、タイトル付け、これって、・・・・・どうなんですかねえ・・・(自問自答)
なので、ウケ狙いの過激なタイトルを一旦考えても、また、自分の感覚に忠実に従ったタイトルに、戻したりしている。
(あまりにも訪問数が激減すると、その逆のパターンもある・・・見苦しく、浅ましい、行ったり来たりの生煮え)

自分が楽しいことを、書く。書きたいことを書く。
自分のこころを解放するために。
訪問数が減ったって、ランキングが落ちたって、べつにいい。
と、思うことは思うのだが・・・。

が、あるブロガーさん、
前は、ブロガーさんが置かれている、たいへんな状況に、同情、共鳴、理解することもあったが、
依然、その人が楽になれるような、ご自分のこころの内部の内容ばかりが続き(最初からそうだが)、
これは、読んでいても、読み物としては、あまり面白くない。
(わたしが、お気楽、ノーテンキ、苦労知らずで、人の痛みに鈍感なせいもある)
なので、ざ、ざ、ざー、スクロール、斜め読みとなる。

わたしのブログだって、人の揚げ足取りやら、性格悪い腹の中、真っ黒、こんな長々、延々、文字の大安売り、
ざざざー、には、ぴったりだ。
あるリアル人は、「あなたのブログ、ざざざー、ばっかりしてるのよ」、と言っていた。
まあ、来てくれるだけ、ありがたいのだが。
(わたしは、小心モノなので、いくら、ざざざー、だといっても、
もしものことを考えて、その人の悪口は、絶対に、一行だって一文字だって、決して書かない。
あんまり、リアル人のことを悪く思ってないということが、根にはあるのだが)

ざざざー、なのに、なんで来るのか・・・
あまりにも退屈で、することもなくて、街にぶらり出てみた、とか、お店をのぞいてみたとか、
本屋に立ち寄ってみた、気分転換を図ってみた、
が、面白いものは、なかった・・・
そんな感覚だろう。
いいんです、それで。


それとは別に、無意識に、アタマやこころに焼きついて残ってしまうブログもある。
そのブログ内容に、反応したことを部分的に、気付かずに書いていたりする。
それが、お互いだったりして、あとで、発見して気付き、不思議な含み笑いとなる。
読んでいる人に気付いて欲しいとか、そんな、作為的なことは全く思わないのに、
無意識な反応であるところが、実に、ビミョーな、特定の周波数、振動、リズムの共鳴を感じる。
「A+B=C」になっていて、別の合同作品が生まれる。
これが、また楽しい。

ダンスと音楽、ちょっと似ている。
(実際のわたしのダンスは、ただただ相手に合わせるだけで、音楽に合わせているわけではないので、
自立したダンスをすることが、今後の課題であるが、なかなか実現は遠い)


他のブロガーさんの意見をブログで読んで、意識的に、自分のブログに自分の考えを書くこともある。
これは、あくまでも意識的であり、時には、ケンカを売っていることもある。
わたしは、何度も言うが、小心者なので、自分の意見・反論を書いた後は、その後の反論・攻撃が怖くて、
戦々恐々としているが、何事も無かったように、ブログは行き過ぎると、ほっとしている。
説得力のない、取って足りぬ、つまらん「ほざき」なので、無視されてるのかも、知れないけれど。
それは、それで、いいのだ。
ディベートは苦手だ。
一つ目の反論を受けると、即、「あ、すみません、そうですね」と、ぎゃふんと、めげて、ひっこめ、すぐに砕ける。


今日のブログ内容は、まったく一般受けしないだろう。
それこそ、自分の内面、自分が興味を示していることだけを、だらだら書いているだけだから。
ざざざーの、スクロールには、ぴったりであります。


暮れの、大掃除その他、忙しさを前に、ちっとも火がつかない。
ぎりぎりまえで、一歩たりとも、微動だにしない自分が、予想できる。
来年初頭から、チアノーゼになりそうなぐらい、わたしの能力のなさが問われる、一大イベントが控えているのに。
あんまり騒いで演出オーバーヒートして書くと、
またリアル人に「一刻も早く掃除しなさい」と、怒られそうだし。

とりあえずは、のんびり、嵐の前の静けさを、半分、麻痺しながら、ヤケになりながら、楽しもう。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


Xmasの喧騒。元気な人、そうでない人

2012-12-23 | 日々のこと

クリスマス前、連休前夜の土曜日、街は、人でごった返していた。
レストラン、カフェ、人、人、人、、、。
自民党、安倍さん、お札を増刷するってことで、大判振る舞い政策の予兆?
今だけか?
高級店は予約が入らない状態、中級店も、低級店も、それぞれ、ごった返していた。
一年に一度、恋人たちは、張り切るのか?
店は、今が稼ぎ時といわんばかりに、商売っ気を出して、ぎゅうぎゅうに客を詰め込み、時間制でフル回転、
普段は取らないテーブルチャージ料や、ミネラルウォーター代を、ちゃっかり、請求書に入れ込んであり、
呆れるを通り越し、怒る気力も起こらず、「仕方ないわね」、と、力のない微笑を浮かべるばかり。

地下鉄でも、忘年会帰りの初老軍団、ひときわ声も大きい。
とくに、おばちゃん。
でかい、でかい、でかい声。
若い乗客が、思わず、ばかでかい声のするほうを、身体をよじって見ていた。
「いったい、だれや? うるさいなあ・・・」
そんなかんじの顔で、苦情ありあり感。

わたしは、そのうるさい軍団がたむろしている場所と同じあたりに立っていたけれど、
「わたしではありませんよ、違いますよ。
わたしが、しゃべっているのでは、ありませんから」
そう誤解を解きたい気持ち、ありあり。
巻き込まれただけの、切ない、無実の弁明・表情。

地下鉄、誰も話してない車内に、ひときわ声の通る、おばちゃんの大声話が長々炸裂し、
それを受けて仲間内で、大きな笑い声が、どっと、とどろき響く。

わたしが立っていた地点を囲むように、どやどや入ってきた、初老軍団は、
社交ダンスのレッスン仲間の忘年会帰りのようだった。
教室に新しく入ってきた生徒で、気に入らない態度の人がいて、いかに、その人物を追い出そうかと、
熱心に作戦会議中だった。
メンバーの中には、ダンスの先生とされる女性も混じっていて、この女性がまた、ほんとに先生?と疑うほど、
がはがは、笑い、べっちゃくっちゃ、くっちゃべるお方。
わたしのイメージする、先生とは正反対のタイプ。
それよか、わたしより背か低い、その先生の茶髪(白髪染めのキツイやつ)が、ぼわんぼわんと、
わたしの鼻のあたりをもぞもぞ、ぱらぱら入ってきそうで、
同時に、すごいキツイ香水のニオイとともに、わあーー、助けて~となった。
わたしこそ、被害者なのに、若いニイちゃんから、
うるさ軍団の一人と勘違いされているかも知れない、疑惑視線を感じるし、いい迷惑だ。

いやはや、同じ社交ダンスを志す者でも、
いくらお酒が入って、店の延長のまんまのあのノリには、いささか閉口する。
ぜったい、この人たち、上手になんか踊ってない、ド下手・初心者だと、確信の目を向けた。
(根拠は、ないけれど)

それにしても、お元気ですねえ。

逆に、元気のない、お年を召した方々も、街で目に入る。
喫茶店や、その他でもお見かけするが、
その周辺は、空気が止まっているというか、どよっとして、澱みを生じているというか、、、、
同じ年代でも、ものすごい個人差を感じる。
あの違いは、なんだろう?

ご本人は、さほど、感じていないと思うが、
周囲に与える雰囲気が、ねずみ色になっている。
服装が、ねずみ色だからか。
だとすると、サラリーマンのスーツも、ねずみ色だ。
でも、そのスーツイメージとは、また違う、あの、ねずみ色。
独特の、上から下まで、ねずみ色ファッション。
安らぎ、落ち着き、癒し、とは違う、どよどよっとした、生気のない空気感。

などと失礼極まりなく、好き勝手を書くと、
「好き好んで、そうなったんじゃないわい、アンタになんか、何がわかる?!」と、
黒いものを湛えた怖い目でキッ!!と睨まれ、舌打ちをされそうだが。

そう言いつつ、もし、わたしが、お店などに入っているのを見て、
若い人は、「う、周辺に漂う、おばちゃんのニオイ」、と後ずさりするのだろう。
なので、人のことは、決して言えない。
各世代ギャップか。

同じ年代の人が集うところは、おたがい落ち着く。
若い人の集まるところに、場違い的に自分が足を踏み入れると、気まずい空気に包まれ、
あ、違う、と足が、それ以上、進まなくなることもある。

なにかの活動で、一緒なら、そんな年代ギャップ・バリアは発生しないが、
見知らぬ人同士なら、どうしても、年代ギャップ印象を受ける。
ただし、わたしの感じるところでは、若ければよくて、年がいっているのが、悪いわけでもない。

その人の発するムード、雰囲気。
きっと、その人の人生を表しているのだろう。

わたし・・・といえば、病み上がり、
キツい抗生物質のせいか、目を目一杯開けようにも、まぶたが覆いかぶさり、お岩さん状態であるにもかかわらず、
賑やかな街中に出かけているが、おそらく、目を腫らした気の毒な、おばさんに映ることだろう。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


捨てた女が悪いのか、捨てられて泣く男が女々しいのか

2012-12-22 | オトコとオンナ

昨夜は、社交ダンス仲間との忘年会があった。
総勢、6名。
社交ダンス関係、面々の内部の、おどろおどろしいハナシ、内情、内幕を聞いて、
げんなり、がっかり、がっくり、嫌気がさした。


社交ダンスは、特に競技ダンスの場合、男性と女性がペアになるので、なにかと問題が起きるらしい。
恋愛から結婚するカップルも、よくある。
ご夫婦で、現役競技選手や、教室を開いている人もいる。


ただ、ペア解消やら、別れたり、ひっついたり、涙や恨みを伴うことも多々ある。
昨日、会に顔を出していたTさんは、
別れたパートナーが、別の男性と組んで、今ではA級(トップクラス)のパートーになっている。
その元パートナーのことを、
「彼女のほうが、上達が早くて、ペアを解消した」と前は言っていたのに、
昨夜は、お酒が入ったせいもあるのか、もう解消して4年にもなるのに、恨みがましいことを言っていた。
女性であることを武器にして、上手な男性に取り入り、ダンスの技術を盗む、と。
ダンスのためなら、なんでもする、と。


Tさんは、恋愛とダンスをごっちゃにしている。
が、競技の練習では、1週間に4日もいっしょに踊っているから、配偶者より共にいる時間が長い。
当然、男女の愛も生まれる、そうだ。


Tさんは、捨てられたわけである。
が、Tさんを乗り越えて、もっと上の人とくっついて、ますます向上したことの、どこが悪い?
怨み節など、聞きたくなかった。
恋愛においては、情というものが付きまとうが、競技の世界には、情などいらない。
そんなことに振り回されたら、勝てない。

元彼女(元パートナー)は、今、ペアを組んでいるの男性とも恋愛関係らしい。
Tさんも、元彼女と、毎日、顔を合わせるわけでもないんだから、もう忘れたらいいのに。
彼女を引き止めるだけの技量が伴わなかったんだから、しかたない。
切磋琢磨して、次のパートナーを探して彼女を見返すか、(でも、年齢的にみて、現状維持がやっとだと思われる)
自分より、うんとレベルの低いパートナーに、また一から教えるか。
愛も同時に注いで、また踏み台にされて捨てられても、それはそれで捨てられるまでには、情熱の日々がある。


男性は、昔の彼女のことを、くよくよと引きずる傾向にあるようだ。
女性は、過去は、さっぱり、きっぱり捨てて、現在進行形のものを大切にするように感じる。


「ダンスのために、女の武器を最大に利用して」と、Tさんは元パートナーを非難するが、自分だって利用された一人。
いい思いをした時も、あったわけで。
蜜月の甘い記憶が残っただけでも、いいじゃない。
最後のどんでん返しで、恨みが残ったようだが。


元パートナーは、女の武器を使っているのではなく、相手を次々に好きになっただけなのじゃないかと思う。
男と女とでは、受け取り方が違うのか?


でも、捨てられた人って、たいへん。
恋愛のおどろおどろしい、愛欲、愛憎の泥沼。うげげ・・・。
そういう類、昼ドラだけで充分だ。


現実の世界では、
わたしは、ナマの血のように、へんに生あたたかい、ああいうハナシは、キライ。
おかげで、昨夜は、へんな夢を見て、延々と夜明けまでストーリーが続いた。
ただし、後半は、天才と狂気と、ありえないギャグの展開になっていて、なにがなんだかわからなくなっていた。
どうなっていくのか、おとなしく、夢のストーリーを鑑賞していた。

そのせいで、今朝は、朝ドラ「純と愛」に遅刻した。
(土曜日だけれど、平日と同じタイムスケジュールで予定があるのに・・・)
その後も、引き続き遅刻だ。
 


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ


カッコわるい日常

2012-12-21 | 日々のこと

さて、今日は、もう最初からあきらめている。
時間がなさすぎるのだ。
更新は好きだが、なんでもかんでもアップすれば、いいってもんじゃあない。

で、これは助走時間。
なにを書こうか・・・。15分しかない。
出先への行きの途中に、ご近所に、あるものを届けなければいけないし、その時間も見ておかないと。
バスに間に合わない。

昨日は、わたしの前を走り去るバスの後ろから、さようなら。。。とバスを見送った。
めちゃくちゃ重いものを持っていたので、にっちもさっちも行かなかった。
いつものバス停留所、次のバスが来るのは25分後。
他のバス停留所、3箇所をチェックしたが、15分以上待たないと、バスは来ない。
タクシーも、いなかった。

しかたないので、駅まで、延々、重い荷物を持って歩いていった。
最初は、ターミネーターごっこの如く、荷物を持った腕を、上下させ、バーベル代わりにして、腕の筋力を鍛えた。
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10・・・
左右、20回やったり、30回やったり・・・
腕が痺れてきた。

ジムでやるのは、そこそこ渋いが、バス通りを重い荷物を上下させるのは、かなり哀愁を帯びる。
それより、ターミネーター姉さん(=わたし)は、だんだん、疲れてきた。

よいしょと肩にかけ、山の僻地に生活物資や食糧を届ける、行商のおばさんに変身。
いっそ、どこかの国の人のように、オデコにショルダーバッグの持ち手を引っ掛けて歩こうかと思ったが、
そこまで、首は強くないので、脳内想像にとどまった。

これって、なんだか、
ジーンズのポケットに携帯やサイフをいつも入れて、そこが擦り切れて破れた、みじめジーンズを
今、ダメージ・ファッションが流行だから、ひょっとして、きっと、カッコイイかも?
と、勘違いして、はいているのと、似ている。
(そんな人、2人知っている・・・決して、カッコよくない)

ああ、時間が来たのに、オチがない。
ご近所に寄る時間を計算し、もう、ここで、終わりだ・・・
まとめる能力がないのに、時間のせいにしている。
これって、決してカッコよくない。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ人気ブログランキングへ