蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ただいま、迷彩中

2013-05-31 | ファッション

一昨日、義姉が、大島紬を着ていた。
(彼女の年齢は、わたしと半年違いで、同じ学年)
とてもいい。ステキだ。しっくりきている。
渋い紬と、白っぽい帯とのコントラストが、色と素材の相乗効果を高めている。
わたしも、キモノを着たくなった。
が、わたしは、どうもキャラクターがキモノにそぐわない。

洋服であっても、きちんと系、キレイ系が、苦手だ。
たとえば、ストッキングにパンプス、膝丈スカートに、ブラウス、そんな格好は、息がつまる。
(ある時期、仕事上、そのパターン、オンリーだったが)

昨日、買った服。
迷彩柄の、かぶりのオーバーブラウス。
(ブラウスという表現は、ぴたっとこないが、アイテム名がわからない・・・)
家に帰って、「どう?」と、上娘に見せたら、
彼女の見立てでは、服の価格、値踏みは、実際に買った値段の3分の1以下だった。
がくっ。

この年齢になって、迷彩柄を、
しかも、70%オフのお知らせを店から受けて
(法事の最中に店長から電話&店員さんから自宅に留守電)、
「おっ、70%オフ!!」と飛びつき、
のこのこ遠いところまで出向いて買いに行き、
70%オフでもなんでもない、まったく安くなってないのに買う、自分。
(あとで、ちょっと引いてくれたが、知れている)
その金額を出すなら、
もっともっとキレイな、ちゃんとした、見栄えのする、どこに着て行っても恥ずかしくない服が買えるはず。
なのに、店に並ぶ膨大な数の服の中から、元値も買値も安くないのに、
迷彩柄をわざわ選ぶ、このセンスはなにか?
自問自答してみたが、・・・
うーーん・・・
わからない・・・

わたしは、日本的な顔をしている。
目が細い。
瞼も重たげな一重瞼。「五木ひろし」のようなかんじではないけれど。
いまどき、一重瞼なんて、芸能界や、ファッション誌には、見かけない。
韓国では、一重瞼は、なんの抵抗もなく、すんなり整形して二重瞼にするそうだ。
でも、わたしは、一重瞼。しかも、細い目。
どーだ?

そして、ソフトクリームのような巻き巻きアップ髪。
そういう人が、迷彩柄。
これって、合う?
ぜったいに、合わない。
(キッと目のするどい、均整のとれた、鍛え上げられた、磨きぬかれた、女性兵士のような肉体の持ち主なら別だが、
・・・程遠い・・・ぶよ~ん・・・だる~~ん・・・)
なのに、わざわざ、時間のない中、必死で焦って買ってきたのが、それ。
店長にまた、やられた。

「ワイルド系、かっこいいですよ」

うーーん。
べつに、店長はさして勧めてなかったのに、わたしが適当にチョイスして買ってしまった。
わたしの年齢に相応したシワくっきり、シミはっきり、クスミたっぷりの顔に、迷彩柄。
あきらかに、おかしい・・・。
魔がさしたのか。

自分は、どういうファッションを目指しているのか。
迷彩柄は、ありえないけれど・・・
そのうち、方向性に、統合性が出てきて、調合され、調和されるだろう・・・ことを祈るのみ。

あれを大勢の人のいる前に着て行く自信があるかどうか?
おそらく、着ていくことだろう。
勇気がある・・・というよりは、たんなる変わりもの。
一度着て、外から自分を客観的に見て、めげて、二度と着ないかも。(可能性、大)

キレイめのファッションをしていれば、好感度アップになることがあっても、
悪い方向で目立つということはないだろうに。
ハイリスク、ノーリターン。
自分のイメージを壊したいのだろうか。
内からも、外からも。

そう言いつつ、べつに、たいしたことのない、服なんです。
大げさ、自意識過剰??
いえ、店長のせいです。
(うそ。店長は、あえて、止めなかっただけだ。しょせん、商売人)

わたくし・・・ときには、魔のさす、お年頃なのだ。

 

 

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あなた、何語、話してるの?

2013-05-30 | 時事&世の中

英語教育。
小学校からスタート?
えらいこっちゃー。

でもまあ、英語は、イギリス~アメリカの過去~現代の歴史からすると、
今は、国際共通語になっているので、使えるようになるほうがよろしい。(あたりまえか)
シンガポールや、その他の国みたいに、国民が一般的に使えると、なにかと国際社会の中で生きるには、
はずせない重要なキー、今後の発展につながる。
などと、浅い薄い、当たり前のことを恥ずかしげもなく書いてみて、ちょっと恥ずかしくなった。

コミュニケーション能力は大事。
国際社会においても。
同じ民族、同じ言語同士でも、親子間でも伝わらない。
(さっき、上娘に「おかあさんとの会話、コミュニケーション不可能」と言われた・・・)
根底に、相手をわかろう、お互いに理解しようという気持ちがないと難しい。

ずいぶん前、サンディエゴ(アメリカ)に、ほんの短期間滞在したとき、
わたしは、自分はこの国では、人並みに達しない人間だと実感した。
地域に、なんのかかわりもない人間である、わたしのコミュニケーション能力のなさに対する、地元の人々のリアクションに、
自分は、プライドのカケラも持てないと、ひしひしと感じた。
そして、世界中のどこの国においても、自分は言語が使えない、絶対的ハンディのある人間だと思った。
つまり、母国語しかちゃんと話せない、コミュニケーションがとれない。(あ、母国語も話しベタ・・・)
ちいさい、ちいさい島国でしか生きることができない。
たとえ、海外に出ても、即、日本に引き返してこなければ生きていけない、まったく自立できない人間である。

ということで、英語なり、なんなり、言語を、母国語以外に習得することは、すばらしい。
仕事につながれば、なおよし。
直接つながらなくても、自分のために、悪いことはない。

資料を読むにも、ニュースを知るのも、
世界の出来事を直接、日本のメディアを通さず入手する必要性を強く感じる。
(日本を経ると、意図的に操作される恐れがある)
その意味においても、生きた英語は必要だ。

ぜひぜひ、頑張ってもらいたいものだ。

・・・と、他人事のようなわたしは、もはや蚊帳の外。
黄金のオールドアワーに棲息する人間は、
日本語しか話さない、読まない、話せない、読めない、聞けない、
いや、最近では日本語すら、聞こえなくなってきている。

しかしながら、
自分にとって都合のいいことだけ、何語であっても聞こえる、すばらしい耳の持ち主である。

 

 

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比較

2013-05-29 | 日々のこと

夫の職業や年収、学歴、子供の成績、
そんなものを比較して、なにかいいことがあるのだろうか?

たとえ無意識にでも比較するということは、気になる、価値を置いている、ということの裏返し。
いっそ、そんなものなんて、と、誰になんと思われようが、全面否定する潔さがあれば、気にならないはず。
ただし、他人の目から見て、「あの人、すっばいブドウ」と映ると、きついものがあるが。


いちばん、比較すべきは、自分自身だろう。
自分そのものではないこと、自分の身を置いている属性を比較しても、なんのいいこともない。
なんにも自分に手かせ足かせのない状態で、自分自身を自分の力を競ってみたらどう?

そんなこと、できない。
と、ハナから諦め、あの人はいいよね、と、恨みっぽい目を向ける。
なんで、努力しないで諦める?
どうせダメでも、努力してみたら、自信が木っ端微塵に吹き飛んで、新しい自分が生まれるかも知れない。
(ただし、努力の方向が間違っていると、目もあてられない。
すっぱいブドウ方面で、無理して、見栄を張って、競ってもなんの意味もない。というか、むしろマイナス効果)


すばらしい生活をしている人は、すてき。
みじめったらしい生活をしている自分は、情けない。
ステキなご主人、優秀な子供・・・そういうものを手にしている人が羨ましい、妬ましい。

わからないでもない。
というか、まったく羨ましくもなんともない、と真っ向から否定する人がいるとすると、
よっぽど客観的にみてスゴイ人でもない限り、強がりに聞こえる。

まさに、理想の人生、隣の芝生の、なんと青いこと。
ひがんで、すえて、それが高じて、青々したものも、すっかりすっぱくなり、苦いブドウかも。
が、目に見えない、外からは見えないこともあるんだし。
自分がしんどい、理想やら努力やらより、
他人の不幸は蜜の味で、いっそ、家政婦ミタさんになる?
自分が努力して向上するより、人の足を引っ張ってずり下げるほうが、だんぜん楽だし。

そりゃあ、属性、生活は、ある意味、一部分ではあるが、
その、自分以外の環境すべてを取り去ったあとの、
自分、って?
何色? どんなカタチ? どんなパワーがある?

自分自身に目を向けてみると、どんな自分が見える?


若い頃は、そういった属性に、こころ、奪われるのかも知れない。
まわりや、外見に惑わされるかも知れない。
外側だけにとらわれない、真の部分を見る目を養いたい。
でも、それには時間がかかる。


自分の評価ばかりにとらわれることもあるだろう。
なぜ、自分の力をまわりは、認めてくれないんだ?と。

仕事では、目先の結果に追われる。
実績、利益など、数字で答えを出さなければ、追い込まれる、大ピンチ。
職を失うことにもなりかねない。
家族は? 今の生活は?
理想など言っていられるほど、甘くない。
厳しい現実が横たわっている。

必死で死に物狂いでやってみることは、大事。
一心不乱も結構だが、自分を追い詰めすぎて壊れてもいけない。
かといって、そのボーダーラインの見極めが、わからない。手綱の強弱。

とはいうものの、世の中、甘くはないのだ。
難しいものでありまする。

とりあえず、深呼吸、深呼吸。

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丸呑み

2013-05-28 | オトコとオンナ

オトコとオンナ、絶対的な性差がある。
絶対に越えられない、深い深い溝がある。
なので、わたしは、オトコを「理解しよう」というよりは、「理解できない」、ということを理解している。

丸呑みである。
理解できないし、大嫌いだけれど、とりあえず、まるごと噛まずに、砕かずに、呑み込んでしまう。
そのうち、胃液やらなんやらで、じんわり溶けてくる。
ただし、もとのカタチはない。

蛇が自分より大きな獲物を丸呑みするのと同じ。
呑んだあとも、ひたすら、じーーーっとしている。

死ぬまでオトコなんて、理解できない。
その逆も言える。
オトコは、オンナのことを、まったく理解していない。
おたがいさまだ。

でも、付き合っていくんだから不思議なものだ。
お互い、ないものがあり、それが吸引力となる。
理屈ぬき。

ないものを補充し、あるものをパワーアップし・・・
なんて、アタマで考えない。
そんなの、めんどう。
(ちなみに、まったく学術的根拠はないけれど、めんどくさがりは、B型の特徴だそうです)
だいいち、理屈のないところに、思考はいらない。

相手を必要とするかしないか。
大きな枠、くくりで受け入れる。
どうしても受け入れられない部分は、・・・どうするかなあ・・・
こころのなかで、相手を殺す。
死んでいるから、べつに平気。
でも、お腹のなかで、ときどき暴れたり、ちくちくお腹が痛んだり、
丸呑みしたものが、悪さすることもある。


オトコという生き物、
わたしが知っている限りでは・・・
見栄っ張りで、いいかっこしいで、優越感に浸りたくて、
でも、寂しがりで、かまってほしくて、甘えん坊で、子供みたいで、
そんなかんじだろうか。
芯のところは、繊細で、もろい。

オンナは・・・と、ひとくくりにしては言えない。
オトコだってそうだけれど。

ちなみにわたしの場合、明らかに中性。
おじさんでも、おばさんでもない。
少女や、少年、児童、幼児、・・・、
どんどん低年齢化して、ベビー路線かも。
「She」 「He」で表現するのではなく、「It」。中性単数。
これ、今の自分に、けっこう、気持ちよく、ぴたっとくる。

と、佳境に入ってきたところで、
皆が起きてきて、パソコン周辺は大会場と化してきた。
こんな「オトコとオンナ」あれこれ論を書きながら、
コーヒー入れたり、おにぎりにぎったり、デザート用意したり・・・

もう、入力続行は無理なので、ここで終了いたします。

 

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小学生日記 老人バージョン 「あのね・・・」

2013-05-27 | 日々のこと

子育て世代のブログをちょっとだけ読む。
わたしは、子育ては、完全に卒業。

概念、観念としての子供ではなく、現実的固体として、生物としての子供は・・・
いま、寝ているだけのベビーが、そのうち、わたしのお気に入りゾーンにべとべとの手で侵入し、
ギャングになる日が、少しずつ近づいてきていて、恐ろしい・・・。
しかし、神様からのプレゼント、天使のラブソング。
感謝あるのみ。


娘の世代の話も、いろいろある。
それぞれの仕事や、家庭。
上娘には友だちがあれこれいるので、彼女たちの話もよくしてくれる。
いわゆる子育て世代のブログの人々と同じ世代だ。
いやはや、たまたま見に行くブログが、わたしの性格に似ているブログなので、
ぜんっぜん、上娘のタイプや、彼女のまわりの人々とは違っている。
おそらく、わたしが子育て真っ最中なら、ママ友として、上娘タイプの人々とはお付き合いしないだろう。
(してくれないだろう)
まったくすべての面で違っているので。似ているところは、ひとつもない。
上娘とわたしは、親子なのに、不思議なものだ。
なぜ、あんなに働き者で、真面目で、気働きができるのか、
・・・疲れないのか・・・?
わたしは、彼女の目を盗んで、サボっている。

家事の面でも、非常に厳しくて、わたしは、小さくなっている。
掃除、整頓が特にNG。
確かに、この面に関しては、人に自慢できる要素は皆無で、隠すべき、欠点である。
隠さなければいけないことだらけ。

未分類の大量のゴミとしか思えないようなものの中に、超・貴重なものが埋まっている。
「家にあるもの、ほとんど無駄なものだから、全部捨ててもいいよ」、と、言いつつ、
宝探しのごとく、貴重品が、中に埋没している。
なので、不用品の扱いは、非常に丁寧&慎重さを要する。
アットランダムに、不定期に、不規則に、突然、重要なものを発見する。
即刻、分類せよ。(自分が自分に命令)

前も不意に、去年の家計簿の中に、新札が何枚か挟まれていたのを発見した。
大喜び。
でも、これって、自分でやっておきながら、忘れている。
アブナイ。
へそくり・・・とは、また違う。。。なんだろう?? 
どういう位置づけをすればいいのか、よくわからないが。
認知症の、前触れ、予告編、サイン、警告か。

とは言うものの、自分では、自覚がないわけではないのだ。
そこが、非常にややこしい、複雑なところである。


さて、今朝も、5時から庭掃除、老人アワーを経て、ブログタイム。
このごろは、なななんと、懐かしのmixiを復活させている。
いったい、何年ぶり?
この蝶ブログより、古いのではないだろうか。
「ミク友」は昨年、全員、削除した。(あんまり接点のない一人ぐらいしか、mixiやってないだろうし)
ハンドルを変えて、日記は、過去の分は非公開にして、今年からだけ、公開にしている。
古いビルを解体せず、鉄骨だけ残して、リニューアルしているようなものだ。

「mixiなんて、いまどき、やってるひと、いるの?」
と上娘は驚く。
facebookをすればいいのだが、実名はどうも抵抗がある。
顔、出身校、勤務先、・・・すべて、ほんもの。
姉や姪、上娘、夫などは、そこからお互いの近況を仕入れている。
実社会での写真や記事が、堂々とアップされているのを見ると、便利ではあるが、
自分がそれに参加するのは、尻込みしてしまう。
なので、家族がログインしたfacebookから見せてもらうだけだ。
案外、わたしは、へんなところで保守的だと感じる。

さて、二人は、すでに出勤し、そろそろ、ラジオ講座フランス語の時間。
このへんで、朝の、うだうだタイムは、終了します。

 

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イラつかれてます、おそらく。

2013-05-26 | ブログ

総合ランキングサイト-gooランキングに、
イラっとくる知人ブログ、「イラつきランキング」のベスト10のうち、
自覚症状のある内容が、かなりあった。


無理やりっぽい正論を押し付けるとか、
自慢たらたら、や、事実を曲げて誇張し同情を買うとか、
受け売りオタク知識の、だらだら流しとか。


苦笑。


まるでわたしを隠しカメラで見ていたような、ランキング。


リアル本人と、かなりかけ離れたギャップのあるキャラ設定とか。
これは、おもしろい。というか、むしろ笑える。

虚構と、事実の間に、文字を埋める作業(この表現、パクりました・・・)が好きな、わたし。
自分そのままを書いても、自分もおもしろくないし、読んでいる人は、もっとおもしろくない。


そして、じつは、そのままだったりもするのだが、
それではあまりにも痛々しいので、虚構と混ざっていることにしたほうが、楽。


ただし、ウケ狙いはしていない、つもり。

わざとやって、ウケなかったときほど、シラけることはない。
リアルの場合もよくあることだが、スベる瞬間って、瞬間冷凍みたいで、きーん、と冷たい。
この雰囲気、どうやって収めよう・・・と、オタオタするが、
勝手に自分が感じているだけで、じつは、みんなは、全然、なんとも思っていないかも知れない。
自意識過剰っていうのも、疲れます。


シラけていると感じていても、じんわりウケている場合もあり、
しかも後になって、ウケていたことがわかったりして、えらいタイムラグつきで、なにがなんだかわからない。



エッセーというジャンルは、それだけでは、ひとり立ちしにくい。
共通の趣味や、年代や、関心事、そういうプラスアルファがないど、純粋にエッセーだけでは続かない。
文章の達人ブログを拝読すると、充分、エッセーで成り立っていると、感心、尊敬するが、
そうじゃない、いわゆる、お友だちネットみたいなくくりのジャンルだと、
なんだか違和感を感じる。
お友だち回覧板みたいなかんじ。

なあなあを断ち切ったところの、内容に骨があるものが、読み応えがある。
それと、そのブロガーさん自体に、興味があったりすると、どんな人、考えなのか、知りたくなる。
意気投合しなくても、意見が合わなくても、へんな人でも、面白い。


どこの誰とも共通点なんか、ないわ~となっても、それを逆手にとって、自分の好きなように書けばいい。
どういうプロセスであろうが、わたしは、好き勝手を書いている。


gooランキング「B型人間の特徴 ベスト10」によると、わたしは、B型人間の典型であるようだ。
極めつけ、マイペース。
はい、そのとおり。異論は、まるでない。


 


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口下手な、あほ

2013-05-25 | わたし

「あなたは、口下手なんですね」
そう言われた。

「口から出る言葉は、『ありがとうございます』だけですね」
そう付け加えられた。

なるほど・・・
自分で思っていた通り、わたしは、口下手なんだ。

「はい、そうなんです。
文章なら、すらすら出るんですけれど・・・」
そう答えた。

ま、しゃーない。
実際の自分と、外側の自分とが、まだうまく自分で折り合いがついていないので、
自分をどう表現していいのか、
どこまで自分を出していいのか、
よくわからないまま、対応しているから、そうなる。
なんと、この御年で、・・・!!

しかも、最初に誉められすぎると、ますます、なにを言っていいのかわからなくなる。
最初が100点満点で、その後、減点、というパターンを、わたしは避けたいと思っている。
満点の後、さらに加点ということは、ありえない。
なにも始まっていない状態から、すでにもう、めいっぱいだ。
なので、徐々に点数が落ちていく自分が、手に取るように予想でき、ますます口が重くなる。
口を開けば開くほど、イメージとは程遠い、わたしは、へんなキャラクターになっていくので・・・ 

あまり、誉めるのも考えものである。
相手を喜ばせようとする意図があるにしても、マイナス効果を生み出す場合もある。
わたしの場合、へんに固まってしまい、のびのびと自分を表現できなくなる。
おそらく、小さい頃から、ぼろかすの、ぼろのちょんに、言われて大きくなってきたからだろう。
こうして、いじけ性格は形成された・・・。

ところで・・・話は、いつものごとく、右へ左へと、意味なくゆらり揺れ・・・

優等生を演じるって、すごい。尊敬する。
しかも、相手は、職場の人や、先生、学友とかにではなく、身内である自分の母親に対して。
わたしの場合、母親が、天真爛漫すぎて、
母親なら子供に対して模範になるよう、もっと、行動や思考の見本として見せてほしい、と子供の頃、よく思ったものだ。

へえ~、こんなこと、してもいいんだ、
ほお~、こんなこと、言ってもいいんだ、
夫や姑、子供たち(我々きょうだい)に、感情に任せてブチ切れる母の姿を前に、よく思った。
(「火に油」夫婦。どっちが、火で、どっちが油か知らないが、父は、さらにもっとブチ切れていた)
でも、それは、わたしにとっては反面教師になってしまった。

感情をあまり表にあらわさない子供になってしまった。
いまでも、ポーカーフェイス。
感情を表すのが不得意なので、
いま、わたしは喜んでいるんだけど、どんな顔をすればいいか?
いま、わたしは怒っているんだけど、
いま、わたしは悲しんでいるんだけど、
いま、わたしは・・・
どんな顔をすればいいか? 
どんな行動をとればいいのか、どんな言葉を発すればいいのか?

などと、考えてしまい、リアクションにタイムラグが生じる。
電源を入れて、機械が温まるまで、ちょっと時間がかかる。

少々、アタマが、ゆるい、ぬるい、とも言える。
(ちなみに、関西では、こういうのを「あほ」という。
「あほ」は、かなり広義の意味合いを持ち、用いるのに便利な言葉である)


なにしろ、おそろしく感情的な母親とは、結婚後、距離を置くことができ、とてもよかった。
危険物は、身近にないほうが、いい関係を保つことができる。
危険な母親に代わって、それはそれは、賢明な義母が、わたしの前に現れた。
彼女たちは、1歳違い。同世代。
似たような社会背景のなかで、軍国主義の日本で、女学生時代を塗りつぶされた。
あの時代を生き抜いた人々は、働き者で、パワフルである。
それぞれ独自のキャラ、いろんな特徴を持っているが、どちらも、いい人であります。

わたしは、いい人物たちに囲まれて、じつに幸せである。
感謝こそすれど、恨みを抱くようなことは、なにもない。
おそらく、今が、なにごともなく、つつがなく平穏に暮らせているからだろう。
少々、いけスカンお方が、気に入らない行動をとっても、するっと、スルーできてしまうのだ。
嫌い、とか、イヤ、とか、そういうセンサーは、対象物を遠くからでも察知し、遠のけているようだ。
なので、至近距離になることはないので、
お互いに、侵略されない自分エリアを保て、平和を維持することができる。


ぬるい、ちょっと、あほな、そういう毎日が、ますますわたしを「あほ」にする。
が、「あほ」DAY、けっこう、気に入っていたりする。
「あほ」に、磨きをかけると、どんな「あほ」になるのか、楽しみでもある。

 

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おはようさん

2013-05-24 | 日々のこと

朝、早く起きると、得をしたような気になる。
用事の前倒し、日常家事の前倒し、日頃できない家事の前倒し、
さらに、ゆったりブログタイムの確保。
いいことだらけだ。
早朝5時から7時まで、2時間は、この大きい。

黄金の(老人)アワーだ。
これは、夜、早く寝たせいでもある。
ライフスタイルが、お年寄りパターンになっていて、自分でも悪くないと感じている。
下娘が勤務から帰ってきた頃は(何時か知らないが)、自宅は真っ暗。
ベビーを含め、大人3人は、もう就寝している。

つい最近、朝、起きてみると、食卓の上に、お菓子を食べた形跡があり、
「夜中にまた、お菓子なんか食べて・・・!」
と、わたしが目をむいて下娘に言うと、
「夜中っていっても、午後9時半やで」とのこと。
なるほど、夜中ではないようだ。


夜、早く寝ると、朝、早く目が覚め、用事を前倒しにできて、そのぶん、自由時間を愉しめて、非常に快適だ。
若い頃、このパターンは、想像も出来なかったことである。
愉しみは、夜にぎゅっと凝縮され、詰まっていると感じた。
朝は、その刺激を脳で、再度、時間いっぱい、ぎりぎりまで味わったり、
次の愉しみのためにエネルギーを貯めるものだと思っていた。
着実に、着々と、お年寄りに近づいていっている。

電車のなかでの、シエスタ(午前中でもシエスタ)が、またまた心地よい。
隣の人に、ごんごんアタマをぶつけていないか、心配であるが、熟睡からうっすら覚めて様子をみると、
首をかくんと前に90度曲げているように思う。
かっこわるい。
いつ、この爆睡状態から、お目覚めモードに変わろうかと、タイミングを計るのだが、これがまた難しい。
降りる駅の寸前まで、寝たふりをして、
到着するやいなや、がばっと急に電源が入ったように足早に席を立ち去るのが、いつものパターン。
どっちにしても、かっこわるい、おばさんである。


 


一昨日、夜、帰ってきた時に体重を量ったら、自己最低新記録の体重の少なさに、びっくり、大喜び。
と同時に、急激減少ぶりに、癌にでもなったのか?と、病気を疑った。
(その日、個人レッスン1つ受けたあと、別会場で3時間半ぶっ通しで、汗だくになって踊っていただけなのだが。
ただし足が痛い)
そして、まる一日経った、昨夜、またまた、おそるおそる、しかし、期待も込め、体重を量ったら・・・
プラス1.6キログラム。


たった一日で、1.6キロも増えた。
これは、サウナなどで大量に汗を流したりすると、減った後、元に戻ったりして、こういうことはあるようだが、
わたしにとっては、はじめての出来事。


昨日、お昼に、超超超久久ぶりに、マクドナルドに行って、店内でポテトとベーコンレタスバーガー、アイスコーヒー、
マックシェークS(半分)・季節のなんとかアイス(半分)を食べたからか?!


今朝は、昨夜の就寝前よりは600グラム減っていた。
寝ている間に、体は動かないが、内臓が動いて減ったということか。
さて、今日は、日中の活動で、何キロに変化していることだろう??


近頃、楽しみの質が、あきらかに変わってきている。
楽しい(老人)アワーの遭遇、大発見である。
楽しみは、案外、そこかしこに、ごろごろと、ころがっている。


内向きに、ゆったりと。
自分流の楽しみを見つける、その楽しみ。



さて、皆、起き出してきた。
朝食やら、お風呂やら、朝が動き出した。

ここで、朝のささやかなお楽しみは終了することにします。
おしまい。


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手抜きのための戦略

2013-05-23 | 

4日前、法事を行った。
当然ながら、わたしは主催者サイドであるので、婚家でのことである。
(実家で法事があるなら、わたしは主催をすることは決してないため、常に招かれる側になる)
義父と、義祖母の法要。
呼んだのは、ごくごく身内の親戚のみ。

最初、義叔父(夫の父の弟)の奥さんが、出席を断ってきた。
それを、義母が、「今回偲ぶ人のうちの一人である、おばあちゃん(=義祖母)に、
嫁として、いちばん、かわいがられたあなたが出席しなかったら、おばあちゃんがかわいそうだ」、と、説得した。
義叔父の奥さんは、「主人が出席するし、なにもお手伝いもしないわたしまで、出席するのも悪いと思って・・・」
と理由をおっしゃっていたが、義母の要請に応えるかたちで、出席となった。

この理由、わたしは、そのまま言葉どおりには受け取っていないけれど、理由なんかどうでもいいのだ。
要は出席したくないという意向だ。
1年も前から言われていたら、よっぽどの具体的な動かない事情でもあげない限り、断る理由を探すのは難しいだろう。
でも、よくよく深く考えると、お客さんでなければ、出席したくないということか。
かつての記憶をうんとさかのぼると、
このお方、仏事行事では、主催者側の末席で、兄嫁2人の下で、争うように気働きしておられたが、今では堂々たるもの。
仕えなければいけないものが吹っ切れて、じつに、けっこうなことだ。

他の出席は、義父の娘夫婦(=義祖母の孫夫婦でもある。わたしから見ると、小姑夫婦)、
あとは、義父の孫(=義祖母のひ孫)二人。ついでに、夜叉孫も一人追加。
(これ、わたしの娘たちと孫。息子は仕事のため、先週、代りに帰省した。同日、娘婿も。)

開催1時間前にはすでに集まり、お坊さんを待つ。
(わたしは、別に一日、準備日をもうけ、当日は当然ながら、もっと早くからスタンバイ)
お坊さんが家の仏壇の前でお経を唱え、焼香、墓に出向き、そこでまた読経。
皆は、お墓にぞろぞろ着いていき、手を合わせ、その後、料理屋で食事。
食事スタートから2時間ぐらいで解散。そして、各々、家路に着く。

一言で言うと、楽。
このシンプルさは、出席メンバーによる。
うるさい親戚がいない。数がごくごく少数。義理の間柄の人は、いない。(配偶者以外は)
今回は、東京の親戚たちを呼ばなかったことが、非常に非常に非常に、楽だった。
これは、お互いに、だろう。
往復の交通費、労力、時間を使って、出席する側も、出席したくないだろう。
身柄は移動させず、御供えや粗供養などの相互間、郵送にとどまっていた。
(義母が、していた)

おそらく、東京陣を呼ばなかったのは、
そのうちの一人が、娘一家の海外赴任先に長期滞在していて不在だったこともあるのだろう。
もう一組も、配偶者が老いて弱っているので、「呼ばない行かない」、の提案に喜んで便乗したのだろう。
残念ながら、というカタチはとりながら、喜んで、欠席なのだろう。
おたがい、おおきく、喜ばしいことである。

こんなに円満に、法事を縮小できて、わたしは、とても嬉しく思っている。
同じ法要でも、一周忌などであれば、こんなに簡略化はできないだろうけれど、
その他、亡くなってうんと時間が経っている法要は、カンタンにしないと、あと、引き継ぐ気がしない。

歴史の浅い、造成されたばかりの人工的な地域(いわゆるニュータウン)であれば、
冠婚葬祭のルールなど、地域色は、各自に任せて、透明であろう。
逆に、古い歴史伝統地域は、長々と伝えられることがあり、
受け継ぐ者は、よほど賛同しない限り、鬱陶しくて限りなくブルーで渋々嫌々、無理やりか、逃げ出すか、であろう。


一旦、嫁に行って出て行った人間が、実家のことをあれこれ、うるさく言うケースがあるようだ。
婚家に関しては、それはまったくない。
おそらく、義母が、とてもこころを砕いて、親戚の隅々にまで完璧に心遣いしているのだろう。
それと、トラブルにならないよう、いろいろ、実質的な面で、割り振り、振り分けをしている。
結果的には、共存共栄になっている。

わたしの順番が来て、気の回らない嫁になった・・・と、陰口をたたかれたところで、
わたしは、親戚づきあいは、極力、本当に芯の部分の人しかする気がないので、
(もう、共存共栄のあとは、自力で自立していただく)
枝葉の人々のお付き合いをしなくなったら、彼らの声を吸い上げる機会がないだろう。
第一、遠縁の親戚たちも、どんどん年をとっていくし、
先方も若い人、次の世代に親戚付き合いをバトンタッチしないだろうから、お互い縁が切れていく。
文句をいうお年寄りたちは、時の経過とともに、自然消滅するのを待つばかり。
次世代とは、もう付き合わないので、そこで、おしまい。


人も時間とともに、新陳代謝していく。
うるさい年寄りは、この世から去り、次世代は、過去の風習から、すくい上げた伝統なり習慣なりだけを踏襲していく。
やがて自分も、どんどん年をとり、自分より年寄りはあまりいなくなる。

同じ地域でも、昔流のやり方をまるまるそのまま踏襲している次世代がいれば、
それはそれで、やっていただくのは、立派なことだ。頭が下がる。
手抜きとなれば、不義理な家だ、そんな家は(精神的に)村八分だ、と、
近隣・同世代から、ブーイングということもあるだろうが、ブーイングを伝える手段、キーマンは、誰になるのだろう?
ごく近くに住んでいる次世代親戚か?
当家の本人だけが知らなくて、まわりからは、大いなる大批判を受けているかも知れない。
反対派の思惑を気にしていたら、改革はできない。
もともと、その地にべったり住むつもりがない、そういう割り切った捨て身の気持ちが、
ご当地の慣わしをそのまま受け継がない強気を生み出すのかも知れない。
地域で課せられる義務(寄付や自治会費、自治会での役割)には、負担するつもりであるが。

長年、代々、同じ地に住み続けるには、その地域がよほど好きなのか、他を知らないのか、よそに移る術がないのか、
先祖代々の土地があるから、職業柄そうなのか、はたまた、そんなことは、考えたこともないのか。
住み分ける意識のある人々と、そうでない人々と同じ価値観を持つこと自体が難しい。
いろいろ、知った上で、最後は故郷に帰ってくるという考えもある。
定年を迎えた旦那さんと、奥さんは、ここで分岐点を迎える。
二人の意見が一致すれば、同じ道を歩み、同じ地に住む。
一致しなければ、レールは、分かれる。
別れたくても経済事情や、介護事情で、こころは別々でも、いがみ合っていても、別れられない事情もある。
ときには、夫婦間で殺人に発展する、そんな悲劇さえ生み出すこともある。

仲むつまじく、同じ地に住んで、
そのまま同じ地かどうかは知らないが、同じ建物、同じ老人ホーム、同じ部屋なんてこともありえる。

・・・・・・・

それはそうと・・・

延々、大昔からの、時代をさかのぼった親戚、いくらなんでも、もう切ってもいいはず。
切ってもらう側も、嬉しいはず。
なにがよくて、そんなに延々とお付き合いしているのか、わたしには、まったくわからない。
せいぜい、叔父、叔母、彼らが弱って来れないときは、その子供(甥、姪)
シンプルなラインだけでいいと思う。
家系図をもとに関わりを図式にしないと、アタマが、いまだにこんがらがる、そんな複雑な親戚たち、って?
(義母から聞き取り、メモみたいなものを何度か書きなぐるのだが、それをすぐ紛失してしまう・・・
と同時に、アタマの中からも消えてしまう・・・)


わたしは、義母の代りに、遠い親戚の法事に顔を出すが、呼ばれる側は、くたくただ。
とは言うものの、遠い親戚とは、法事で会食でもしない限り、葬式で顔を合わす程度なので、
まあ、コミュニケーションをとるということは、悪いことばかりでもないような気も、しないではないが。
(もって、まわった言い方)(はやいハナシ、悪くないってこと)


わたしの手抜きサボりの性格は、生まれて死ぬまで続くことだろう。
いかに、手抜きを正当化するか、この作業ばかりに重きを置いている。

そんなことをする暇があれば、母の日にこころのこもったサービスでもしろ、と。
今日は、お昼から、義母の家に向かって、法事の後片付けをする。

ま、サボり人間は、ぼちぼち、ぼつぼつ、一歩ずつ。
急には働き者にはなれません。

 

 

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楽しい根暗人

2013-05-22 | わたし

世の中には、似たような性格、考え方、感じ方の人がいるものだ。

おそらく、ひとくくりにしていうと、内向的なのだ。
それが、わたしのキャラクター。

そっくりのフィーリングの人のブログを読んだ。
あらまあ、そっくり。
感じ方や性格はそっくりだが、違うところはある。
自分の置かれている状況だ。
年齢から来るものも大きい。

身動きできない状況にいると、自分の欠点ばかりを見るようになる。
人のことを羨ましく思う。行きすぎると、妬ましくなる。
で、人への悪口ざんまいを綴った文章を読んで、いやはや・・・失礼ながら笑ってしまった。
この、人への悪口の内容、わたしのある面にそっくり、そのままだった。
他人にはイラつかれてるんだろうなあ・・こういうふうに、・・・と苦笑した。

悪口を思いっきり書いている人は、それでストレス解消になっていることだろう。
ああ、すっきり、と。
それも、いいんじゃないかと思う。
(特定する人物に対する誹謗中傷は、当然よくない)

ストレス解消法は、ひとそれぞれ。
嫌いな人の、嫌いな面、行動、性格を、さんざん書いて、ストレスが発散するのであれば、それはそれでいい。
ある意味、羨ましくもある。
わたしは、そんなことをしたら、そういう行動をとる自分に、失望し、かえって落ち込む。
マイナス効果。


ひとつ、思うこと。大きく年齢が違うということもあるだろうけれど、
目を外に向けること。
自分に向けて掘り下げるのもおおいに、けっこうだが、世界を自分の半径5キロ以内という、
狭い範囲から抜けること。
ちまちま、ちまちま、ちまちま、
そういう小さな限定されたところに身を置かなくてはならない時期もあるだろうけれど、
一生、檻に入れられて囚人のように拘束されることはないだろう。
病気で一生、死ぬまで入院生活を強いられる場合は、また別。
くだらない、たわ言は、通じない。
わたしごときの出る幕はない。

外の世界に触れると、ぱあっと目の前が明るくなったような気になる。
色が変わる。
小さな世界で、ぐるぐる出口がなく回っていた自分が、愛しくなる。
今でも、時おり、お気に入りの小さな世界で、あいかわらず、ぐるぐる回って、疲弊したりしているが、
それはそれで、もはや、ライフワークのひとつだ。
そうやってエネルギーを貯め、ジャンプするときの助走に使う。

とかなんとか書いてみたところで、人は人であって、その人の人生は、その人のもの。
生きてきたプロセスが違うので、発想も違うだろうし、行動力も違うだろう。
自分は自分で、自分の時間を最大限、有効に使いたいと思っているが、
そのためには、努力が必要である。
努力の方法も、自分流のやりかたを見つけるのに、ずいぶん、時間がかかったが、
必ず、自分に合った方法が、各人あるはずだ。

闇から抜けだして、明るいところで、きゃーきゃー喜んでいるのも、わたし。
また、闇に戻って、自問自答、膝を抱えて三角座りをするのも、わたし。
この振幅、けっこう、好きだったりする。

 

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