マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下笠間の七草粥

2012年02月20日 06時46分25秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
山の神さんにアゲオニギリをおまして般若心経を唱えたというI家の婦人が話す。

1月4日の朝には〆飾りを撤去する。

正月を迎えた午前0時。

当主はアキの方向に向かって膳を頭の上にあげて正月の作法をされた。

年初めに行われる家の風習である。

アキの方向に向かうのは顔を洗ったときもトイレに行くときもそうしているという。

こうした家の作法を話す婦人は竃に七草粥を供えていた。

七草も集まらないからと言ってナズナとカブラの2種を粥にした。

この地で採れるのはそれぐらいだから昔から2種類だという。

数日前に摘んできて料理した七草粥。

竃の神さんは喜んでいることだろう。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)

下笠間の山の神御供

2012年02月18日 08時00分47秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
1月7日には山間各地で山の神のマツリが行われている。

室生笠間川流域に点在する一つに下笠間がある。

ここでは組単位で祭られる山の神が数か所あるそうだ。

いずれもそうだが、T家の裏にある山の神も朝早い。

樹木に掛けられているのはウツギの木のカギヒキ。

カギヒキを引いて唄う山の神の歌はないという。

枝には三つ編みした二本の藁束が掛けられていた。

その中には削った小判型のモチに五円玉(入れない家もある)を入れる。

それはたホウレン(ホウデンが訛ったと考えられる)、或いはホウサンと呼んでいる。

家族の男の人数になる個数のモチをいれる。

アブラゲを入れたご飯を供えて般若心経を唱える家もあるそうだ。

ご飯はシイタケやニンジンなども入れて炊いたアジゴハンだという。

それをオニギリにして供える。

その時間も過ぎ去ったころに訪れた。

清らかな水が流れる川を挟んだ土手にお供えがあった。

サカキの葉に洗い米を乗せたオソナエだ。

もう一つは樹木に括りつけたオヒネリ。

おそらくヤマノカミノモチであろう。

2年前に正月のモチを取材させていただいたI家。

イタダキサン、ダイジングウサン、ダイコクサン、エビスサン、サンポウコウジンサン、センゾサン、ミズコサン、イナリサンに供えるモチは多種に亘る。

これらは家の中や外にある神さんに供える。

他にもミカヅキサン、ゴヤサン、ジュウゴヤサン、ニジュウサンヤサン、ニジュウロクヤサンがある。

ご婦人が言うには一年間の月の数になるツキノカズノモチ。

閏年の場合は13個になる。

ヤマノカミノモチはその名の通り山の神さんに供えるのだが、モチを割って入れる。

各家のことだから決まりはないが、それぞれの方法でオヒネリやタワラの中に入れるという。

ちなみに一年前に供えたカギヒキやホウレンは12月25日に取り外して川原で燃やされる。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)

下笠間九頭神社オコナイ

2012年02月17日 08時07分06秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
前日は山添村岩屋の興隆寺で宮さんの修二会が営まれた。

勧請掛けと思われる「シメ」掛けにダンジョーの太鼓叩き、ケイチンの所作と考えられる社守の魔除けの朱印作法。

それらは古くから行われている神仏習合の修正会や修二会、つまりオコナイである。

それとは打って変わる様相で行われた宇陀市室生の下笠間のオコナイ。

九頭神社社殿際に祭壇を設えて行われる。

下笠間ではオコナイを「行い」と表記していた。

江戸時代に記された古文書に、「行ひ」とか「御行く」などと書かれていることを目にしたことが度々ある。

大寺で行われてきた修二会の行法は村々に下りてきて「おこなひ」と呼ばれてきた。

現在の九頭神社には神宮寺の存在を示すもの存知しない。

江戸時代(初期であろう)の神社、神宮寺では修正会や行いと呼ばれる正月行事が営まれてきた。

寺の僧侶と村の宮座の社守が行っていた行事である。

それらの多くは法要儀礼に牛玉宝印の加持、ランジョウ、祈祷、勧請掛け(古文書ではくわんしゃうかけ、くわんせうかけ)などがあった。

さて、九頭神社ではどのような形式で行われるのであろう。



紙垂れを取り付け、四方を竹で囲んだ祭壇。

海や山、里などの産物にお神酒などを供える。

中央には「牛玉 徳ケ峰 宝印」と書かれたお札がある。

手前には「咒願」文と僧侶が用いる器が置かれた。

その脇にはウルシの木で作られた弓矢がある。

祭壇の後方にもウルシの枝木がある。

僧侶は融通念仏宗派春覚寺の住職である。

役員たちが並ぶなか、僧侶は咒願奏上、念仏を唱えていく。

15分ほど経過したころだろうか。

俄かに僧侶は弓を手にした。



そして同材のウルシの矢をかけて射った。

矢は四方へ放たれた。

東西南北の方向であろう。

それを済ましたあとは役員の焼香。

再び僧侶は念仏を唱える。

静けさを取り戻して、再び念仏を唱える。

およそ8分ぐらいであろうか、塩を撒いて祭壇周りを清めていく。

こうして村から邪気を払った「行い」の作法。

願わくは融通念仏の功徳を以って祈祷された。

村から災いを排除して福を為し、風水、火、旱、祟りなどが起こらぬよう祈祷されたのであった。

「行い」を終えた祈祷札は祭典後日に行われる村の総会で配られる。

宮年寄りが書かれたお札はウルシの木に巻いて苗代に立てるという。

なお、僧侶が祈祷されるようになったのは20年ほど前。

それまでは神主、つまり宮年寄りが行っていたという。

オコナイの作法は形骸化されているものの神仏習合には違いない。

ちなみに九頭神社境内には二つの注連縄が張られている。

二つもあるのは珍しい。

尋ねてみたところ一つはかつて鳥居下の道側にしていたそうだ。

道路がアスファルトに立てることができなくなって境内に寄せたという。

話を聞けばなんでもなかったが、何故という疑問は解消しておかねばならない。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)

フイゴ祭りに感謝

2011年12月22日 06時47分28秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の染田は度々訪れる。

昨年の11月17日、産経新聞で野鍛冶師のことを紹介した。

取材が5年前だったフイゴ(鞴)の祭りのことである。

『弥生時代は安定した生活を営むため水稲耕作が広まった。農耕具が木製から鉄製に移ったことが普及の一因だ。鉄製農耕具は荒れ地を開拓するのに適し、より広大な土地を耕すことで文化水準が一挙に高まった。そんな農耕具を作る野鍛冶は戦後間もなくまでは村の花形だった。しかし、その姿は農作業の機械化に伴いほとんど見られなくなった。・・・・。』

『田畑を耕す鍬や鎌は農業を営む人にとっては欠かせない大切な道具。鍛冶屋はそれを作り出し、打ち直して機能を長持ちさせる職業で、農家とは密接な関係にある。鍛冶屋にとってなくてはならない道具が鞴で、火をおこし、風を送る。・・・』など、長文を書いた。

その記事を大切に保管されているF氏。

ありがたいことだ。

サブタイトルは「火おとし 感謝の一日」。

これは新聞社の人に作ってもらった。

数文字で私が言いたいことのすべてを表す。

これにも感謝した。

(H23.11. 8 EOS40D撮影)

無山牟山寺会式

2011年10月06日 06時37分54秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
稲刈りが始まっている室生。

台風12号の影響で稲が倒れていることから拍車がかかっているから行事どころではないのだが、と話す村人たち。

コンバインを荷台に乗せて稲田に向かう。

それは風の影響だけでなく雨がよく降ったので重みで倒れているのだという。

倒れた稲は手刈りをしなければならない。

ハサギに掛けて稲を干す。

枯れた藁は高く売れる。

畳のウラ地にするのだそうだ。

身体の湿気を吸い取ってくれる畳。

軽い流行りの畳ではこうはいかんと話す。

ムシロやコモにもあったが昨今は見なくなったのは機械で刈っているからだという。



その頃、太鼓が叩かれて村中にその音が聞こえるようにする。

一人、二人と自家の畑で栽培した野菜を袋に詰め込んで牟山寺にやってくる。



春先は天候不順だった。

今年のデキはあまり良くないと話す。

持ち寄った野菜は種類ごとに纏められてナスビとインゲンマメ、ヤツデの葉だけが取り上げられた。

ナスビは二つ切りにして左右の角に小さな穴を開ける。

そこに半切りしたインゲンマメを挿す。

まるで耳のように見える。

「ウサギの耳のようだと昨年は言ってたが、どうもシカのツノにも見えるなあ」と今年の役員たちが口々にいう。



一方では穴の空いた竹筒にごはんを詰めていく。

そこへ木の棒を突っ込んでメシを押し出す。

それはお皿に見立てたヤツデの葉に立てる。

これをメシツキと呼んでいる。



ナスビもメシも20個ずつ作られる。

村の戸数であってそれは本堂に供えられる。

御供はもう一種類ある。

本来なら葉付きダイコンを使うのだが、今年は間に合わず代用のシシトウで恰好をつけられた。

すべてが出来上がるとコジュウタに入れて本堂に運ばれて長い机に並べられた。

ずらりと揃った御供は豊作の証し。

オコナイと呼ばれる正月の初祈祷でたばったヤナギの木や矢は田んぼに挿す。



豊作を祈願したものだ。

その残りが寺縁側に見られた。

6月には祈祷されたお札を虫送りの際に村内の数か所へ挿しておいた。



それらは豊作を祈願したものである。

そのおかげか稲は金色に染まって収穫の日を迎えた。

野菜もそうである。

それらの恵みをこの日の会式に供える。

本尊の正面にはツキメシや野菜、果物などを載せた椀が四つ。

その高膳を供えられローソクに火が灯された。

こうした世話をするのは自治会役員と寺世話(てらぜわ)の人たち。

その音が村に聞こえた数時間後のことだ。

御供が供えられた本堂には婦人たちは上がっていった。

「いつもならもうちょっと多いのですが・・・」と申しわけなさそうに般若心経を3巻唱えられた。



かつて会式は3日あった。

五日、十日、十五日だったそうだ。

その三日目の十五日はここでコモリをしていた。

「女のコモリ」だといって、めんめんが家で作ったごちそうを持ち寄って団らんしていたそうだ。

ズイキとドロイモが入ったご飯は塩味だった。

当時は導師がおられて木魚を叩いてお念仏を唱えたという。

子供も一緒になって会食をしていた。

境内ではしゃぎまわっていたし盆踊りもあった。

9月にはイモ名月やマメ名月(旧暦9月13日の十三夜)もしていた。

あっちこっちの家へ行って「だあーっと盗っていきよった」と婦人たちが話す食べ物はダンゴだったそうだ。



無山では盆のときにトビウオを食べる習慣はなかったが、婚姻した年の夏にはトビウオをソーメンを嫁の実家に送っていた。

お中元の際に贈った習わしは「昔のことや」と話す。

年末にもあったようだからそれは歳暮であろう。

そのお盆の13日には竹棒に挿したワラを燃やして先祖さんを迎える。

そのワラ火は送りの15日にもされる。

供えた薄い経木。

戒名が書かれた木だ。

それらも含めて供えたものは笠間川へ持って行く。

前の川だからマエノカワと呼んでいる橋の袂だそうだ。

そこで燃やして先祖さんは天に帰ってもらうらしい。

(H23. 9.11 EOS40D撮影)

染田の虫送り

2011年07月18日 06時40分14秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
16日に予定されていた室生区染田の虫送りは大雨で翌日に持ち越しされた。

フィールドの行事であるだけに松明を持ち歩く虫送りを実施するには判断が難しい。

針ケ別所では雨があがったことから実施されたと聞く。

染田では県外からその虫送りの様相を拝見したいと団体で来られていたが中止となってしまっては遠方から来られたのに気の毒だと野鍛冶師のFさんが、その鍛冶の仕事ぶりを見せてやろうと急遽実施された。

俳句をされている団体だけにそれは大喜びであったそうだ。

さて、染田の虫送りといえば地区の田んぼを松明で虫を送っていく行事で、周囲を練り歩く距離は4kmにもなる。

それが始まる前の午後6時半ころ。十輪寺の境内で火を点けられる。

それまでは村の人に始まりの合図として鉦と太鼓が打たれる。

それは子供の役目。

カン、カン、カンの鉦の音色に続いてドン、ドン、ドンと太鼓が打たれる。

二人の呼吸がピタリと合まってそれはまるでお念仏の音色のように聞こえる。

虫送りは稲の生育を阻害する害虫を駆除する役目もある行事。

松明で虫を焼き殺す殺生だけに虫を供養する意味もある。

それはこの鉦と太鼓が打ちだす念仏の鉦鼓なのであろう。

染田天神講連歌会発祥の地として名高い連歌堂の回廊で打たれていた鉦を太鼓は軽トラックに移された。

以前はそれをオーコで担いで村練り歩いていた。

それは相当な大きさの太鼓だけに担ぐことが困難になった。

そういうことからトラックに載せて随行する形になったのである。

ロープでしっかりと荷台に固定された太鼓は再び子供が叩く。

それを聞いた村人たちは松明を担いでやってきた。

鉦鼓打ちは始まるまで1時間あまりも打ち続けられていたが出発前には大人に替った。

辻ごとに立てられる祈祷札も載せている。

それは3か所に立てられるのだ。

春日神社北方での最初の休憩場、次に石仏が並ぶ穴薬師算(ざん)のある染田口バス亭付近、そして小原向う街道筋のトンド場である。

村の役員が挨拶をされて火点けが始まった。



勢いよく燃えだす松明を持って出発した。

子供が持つ松明は小さいが村の役目を担う一人でもある。



女児もいるし男性に混じってご婦人も松明を持っている。

重たいからと途中で交替する人もいる。



松明の数はおよそ10数本。

今年は少ないとついていく消防団が話す。

それのせいなのかいつもの年より早い速度で村を練り歩いた時間はおよそ1時間でトンド場に着いた。

この日は蒸し暑い夜だった。

虫送りをしていた田んぼにはホタルが光を放っていた。

それを見つけた子供たちは松明の火に集まったホタルを手にする。



それはゲンジボタルであった。

話によれば「数週間もすればヘイケボタルばかりになるんや」と話す。

ホタル狩りに夢中なっていた子供たちもトンド場まで向った。

そうして長い距離を練り歩いた虫送りは田んぼの稲を荒らす害虫を村外に追い出したのであった。



その歩数はおよそ8千歩にもなった。

(H23. 6.17 EOS40D撮影)

無山の虫送りの夜

2011年07月15日 09時05分17秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
毎年16日に田の虫送りが行われている地域が多くある。

室生地区では無山に染田

天理では山田地区

都祁では針ケ別所小倉がある。

田の虫送りはお寺で祈祷してもらったお札を集落の周りの辻に立てる。

その際に火を点けた松明をもって田んぼの虫を送っていくのだ。

焼き払う意味もあるらしいがいずれにしてもフィールドであるだけに雨天では実施できない。

雨量が多い日となったこの日はほとんどの地域で実施日程を順延されたが無山ではやむなく中断の決断をされた。

当日は雨だったが虫送りする時間には止んだことから実施した年もあったが中断したのは珍しいという。

ずいぶん前には中断したときもあったそうだがそれほど雨の影響を受けない日が夏至の数日前にあたる16日なのであろう。

村のお寺である牟山寺には大きな呼出し太鼓が置かれている。

虫送りを始める合図に使われているがこの日は本堂にある。

1月5日に行われたオコナイで邪悪を祓った鬼の的が残されている。

虫送りの松明は中断されたが、お札だけは辻に挿してきたという役員たちは会所で会食をされていた。

その役員たちは9月に行われる会式に供える御供作りがされる。

竹筒にご飯を入れてトコロテンのように突きだすという。

それをカエデの葉に乗せて本堂に供えるのだがもう一つの供え物もあるという。

それは朝から村の人たちが寄進したナスビである。

そのナスビは翅のようなものや脚を取り付けるツクリモノだという。

村の戸数にあたる20個を作るそうだ。

それを作り終えたちょうど昼ごろに般若心経を唱えて会式を営む。

天理上入田の御膳、都祁小倉の十七夜ゴゼン、あるいは来迎寺の会式に近いツクリモノであろう。

それは秋の収穫祭と思われる。

また、氏神さんの九頭神社では5月末に田植え終わりの毛掛け、8月末には風の祈祷もしているそうだ。

(H23. 6.16 EOS40D撮影)

向渕高堂の花まつり

2011年06月09日 06時39分22秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
向渕(むこうぢ)は北の奥山から西出、上出、大垣内、中村、馬場出、宗脇の6垣内。

南の峰には堀越頓宮跡がある竜王淵。

40年ほど前は雨乞いで登った山(堀越神社)だという。

松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。

囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。

少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。

いずれにしても龍神信仰があったと思われる。

宝ガ池がある水晶山(すいしょうざん)山頂は北の峰。

飯降(いぶり)薬師の石仏がある飯降の淵(春日神社;H23年造宮)がある。

向かいあうように淵があるから向渕の名がある地区だ。

お寺は北に正定寺、南の集落には安楽寺があり、いずれも京都本願寺系の浄土真宗だが、数百年も前は真言宗派だったようで一時は向渕を向寺の字が充てられたそうだ。

その名残かどうか判らないが木造十一面観音像(宝暦二年・1752年)を安置する高堂(たかんどう)がある。

長谷寺の仏像を造るための練習仏だと地区の人はいう。

正定寺を出発した白いゾウはお堂の前に置かれて会式が始まった。



境内には地区の人たちが加わった。

自治会主催の行事とある花まつりは舞台をお堂に移した。

当堂でも同じように産湯に浸かるお釈迦さんにアマチャをかけて手を合わせる。

漢方薬局で買ってきたアマチャで作られたそうだ。

子供会となったから日曜学校よりも人数が増えているがその子らとともに役員はお堂に登った。

本尊右手にはこの日だけに掲げられる室町時代とされる涅槃図を掛けて法要を営む村の行事は涅槃のレンゾであるかもしれない。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

向渕正定寺の花まつり

2011年06月08日 06時41分48秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の向渕(むこうぢ)は都祁から室生寺に向かう県道にある。

その上の古道は高樋の五カ谷から伊勢へと通る街道で宿屋もあったそうだ。

その道沿いにある正定寺(しょうじょうじ)本堂に子供たちや檀家がこの日に行われる花まつりに集まってきた。

本来は4月8日であるが向渕にはまだ花は咲いていない。

それならば四月末が望ましいと祝日に行われている。

花御堂に飾るお花は地区に咲いている春の花。

奇麗な花は色とりどりに屋根を飾った。

可愛い字体の「花」文字に感謝する住職の挨拶で始まった。

7日が入学式だったお寺の日曜学校。

子供たちへの「教え」の場でもある。

一人ずつ進み出てお釈迦さんの誕生仏に柄杓で掬ったアマチャをかけて手を合わせる。

花まつりはお釈迦さまに出会わせてくれる日。

なんまんだぶつを唱えて聖典教本の唱和に「知ってるね」も合唱した。

読本もある花まつりは住職の法話もある講話の日である。



3千年前にインドで生まれたお釈迦さん。

ルンビニーの園地だった。

6本牙をもつ白いゾウさんに乗って母体に入った。

ある夜、母親が見た夢のことであった仏陀の受胎であった。

誕生したら7歩も歩いたという。

生まれてまもなく母親は亡くなり妹が育てた仏陀。

東の門から出れば老人がいる。

仏陀は思った。

いずれ年老いていく。

南の門には病気の人がいた。

いずれ病に陥るだろう。

西の門をでれば行列があった。

葬送の儀礼だった。

人は死ぬ。

そうすれば人は幸せになるのだろう、何のために生きていくのだろうと思った。

北の門を出れば清々しい顔の旅人がいた。

修行に出た聖なるお坊さんだった。

そのような話をする住職の声が聞こえる。



それはどの本に書かれているのかと子供たちに問えば読本と答える日曜学校の花まつりは白い象の行列に移った。

向かう先は木造観音像を安置する高堂(たかんどう)だ。

水の入った田んぼを見下ろす旧道を眺めながら子供たちが曳いていく白い象。

牙は見られないが手作りの張りぼてゾウの背には花御堂。

本堂に設えたものより小ぶりだが中には釈迦像がある。



今はリヤカーに乗せているが55歳の男性は長い棒で担いだと話す。

仏教会式であろう花まつりは健やかに育つ子供の願いでもあるようだ。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

下笠間無縁仏地蔵参拝

2010年09月29日 07時32分29秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
下笠間に住むM家とI家。

施餓鬼の朝は地蔵菩薩に参る日だ。

地蔵さんに供えるのはセキハン(赤飯)でこしらえた小さなオニギリ。

両家で合計108個作る。

地蔵さんは平成4年に造成された崖崩れ防止壁を登ったところにある。

昔、山が崩れて流れてきたという石塔もある。

宝印塔のような形が残されている。

かつて山の上に坊があったらしい。

その横にあるのが地蔵菩薩さん。

これらは壁を作る際に山から出てきた地蔵さん。

寄せて一緒にした。

そのうちの一つは元の場所が良いと言ったので井戸傍へ戻したという。

オニギリの数は数珠の数。

オガミさんがそうせよと言ったからそうしているのだと話す。

30年ほど前のことだと語り始めたIさん。

「当時、頭が痛くなった日が続いた。半分は見えるが半分は真っ暗。やたらと主人に当たり散らした。オガミさんにみてもらったら母と子供の無縁さんだという。両家の裏山にある無縁さん、どうか成仏してくださいと自然に車が向かった先は壺坂寺だった。お参りしたら父親が現れ、観音さんが合わしてくれはった。そうするとつきものがとれたようにすっきりした。それからは無縁仏地蔵参拝を欠かさずしている」という。

参拝は施餓鬼のアトサキ3日以内であればいつでもいいそうだ。

線香をくゆらせ始まった。

ガキドウに落ちた無縁さんを成仏するようにと般若心経三巻唱えて供養する。

この行事は「地蔵盆」と称している。

お下がりのセキハンオニギリは山の神さんに供えられる。

裏山は神さんの山と呼んでいる。



正月7日にホウレン(ホウデンが訛った)を供えた磐代の壇など数カ所に一つずつ置いた。

さらに上へ登っていく。

葉っぱの上を歩けばずるずると下がっていくほどの急斜面だ。

しばらくするとMさんが見えなくなった。

一方のIさんは砂防崖の道を行く。



陽が照る方向の斜面にあるのは阿弥陀さん。

ここへもオニギリを供える。

急斜面を登っていくIさん。

樹木の根っこや岩下などに供えながら登っていった。



80歳にもなるが足腰は元気でついていくことはできない。

108個の御供。寒施行の様子を思い出したが、真夏日が続く日はまるで酷暑に彷徨う勤行。

それは山に住む獣(天狗が住む山だとも)に与える施行のように感じた。

かつて薬師堂があった畑。

およそ80年も前に春覚寺に移された。

そこは今でもヤクシサンの地と呼ばれている。

(H22. 8.23 EOS40D撮影)