マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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天秤に掛けた給付はどっち

2011年05月12日 09時04分23秒 | ぽつりと
3月末をもって長年勤めてきた施設を定年満了で終えた。

途中で指定管理者制度によって運営を移管された事業所に転換された期間も含めると通算で7年8カ月だった。

最初にお声をかけてくださった自治体の人事課長。

その人のおかげだと思っている。

お礼に定年満了の挨拶をしたのはいうまでもない。

その間にお世話になった担当者へも挨拶をしておいた。

「なんでやの」と言われてもそれが制度だからと返答せざるを得ない臨時職員の定年制だ。

事業所からは離職票が発行された。

移管後からの事業所では3年間。

自治体を入れれば7年8カ月。

その期間によっては失業給付の期間が異なる。

前者であれば5カ月間で後者を含めれば6カ月だ。

1カ月の差は大きい。

その離職票を持参してハローワークに失業給付の申請に行った。

ロビーには待ち人が多くいる。

月曜日でもあるからだろう。

1時間越えたときに呼び出された。

アンケートを見られた担当者から失業給付期間は180日だと伝えられた。

フルの期間が適用される。

嬉しいことだがそれを選択すれば年金支給が停止される。

すでに証書が送られて支給額は判明している。

で、失業給付額はいくらになるのかと尋ねてみれば、その年金額より少ない。

えっ、なんでとつっこむ。

離職票2に記載されている月々の賃金額から計算されていたのだ。

直勤した半年間の賃金額なら年金よりは多いはずだが・・・。

横におられた男性担当者が言った。

60歳から64歳まではその額から75%ほどに減額されるというのだ。

それは私の思っていたことより計算外のことだった。

直近の賃金額は人様々。

臨時職員だった賃金はとても低い。

9年前にサラリーマンを早期定年したときの失業給付額は伝えられた額よりも多く上限額だった。

2.5倍ほどであった。

少ないうえに減額される。

支給される年金よりも8178円少ない。

僅かな額だが差額は大きく生活するには支障がでる。

辛いのぉ。

その答えをもらってハローワークをあとにした。

失業給付は税金がかからないが年金はそれがかかる。

税金はいったいどれぐらいか。

それは社会保険事務所に問い合わせるしかない。

帰宅してから相談窓口に電話した。

65歳までであれば支給額が108万円以上には税金がかかるという。

ただ、扶養家族がある場合は控徐計算をしなくてはならない。

仮に10万円として、それに0.25%を掛けて65000円。扶養家族1人については372500円が控除され2カ月で21万ほど・・・よく判らん。

その結果は・・・。

年金は雑所得ですが貴方には税金はかかりませんと返ってきた。

失業給付の道を選ぶか年金の道か。

天秤をかけた結果ははっきりした。

ちなみに年金手続きしてから2カ月間勤めた。

その月数は事業所より送られてくる資格喪失が届いてから再計算され通知されるそうだ。

5円ぐらいの増額が見込まれるであろう年金生活に入った。

2月、3月分の年金振込通知書が11日に届いた。

正式な通知の第一報だ。

それによると2カ月で20万円ちょっと越える程度。

その通知には個人住民税は0円だが、所得税はある。

前職では所得税がなかった。

所得が少なかったのに年金にはなんで引かれるのだろうか。

それはともかく月額にすると失業給付よりも827円も安い。

だがだ、確定申告の際に扶養控除や生命保険、損外保険などの一般保険控除ができる。

医療に掛った費用も控除できる。

そうなれば引かれた所得税からいくらか控除で戻ってくるはずだ。

来年の申告はそうであってほしい。

(H23. 4. 4 SB932SH撮影)

ロストでホットメール

2011年04月27日 08時57分05秒 | ぽつりと
次男のアフリカ一人旅は順調にいっているようだ。

持っていった携帯電話も繋がる。

だからかーさんも安心する日々をおくっている。

旅立ってから1ヶ月経とうとした6日のことだ。

エチオピアかアジスアベバ辺りで日本人が格安で宿泊できる宿をインターネットで探してほしいと連絡があった。

探しても日本語で出てくるかどうかっていう。

私は日本語しか読めない。

まぁそれでも探してみるかと適当なワードで検索してみた。

するとだ。でてくる、でてくる、ぞろぞろでてくる。

日本人が旅行に行った際に残してくれた紀行文。

それも一覧にしてくれている宿泊先。

価格帯もあるし居心地、寝心地、食事に連絡先、対応などなど。

しかもだ。ほとんどの人が南京虫にやられたと報告している。

シーツにビニールシートを敷いて防備しなくちゃならんらしい。

それもありがたいことだ。

その件も含めて良さそうな宿を選んでメールで伝えた。

こういうときってほんまに役立つ携帯電話。

翌日にメールが届いた。

アジスアベバで日本語が読めるカフェが見つかったそうだ。

ところが既に南京虫にやられていたって。遅かったわ。

その後には震災の状況などを伝えていた。

そして電話が鳴った。

なんちゅう番号や。

携帯でもなく固定電話でもない。

見慣れない12桁番号の羅列。

それも前に「+」の表示がある。

イタズラ電話なんだろうかすぐに切断される。

3回目でオレオレでなくて次男の声が聞こえてきた。

携帯電話が盗られたのか失ったのか、とにかく消えてしまったという。

だから電話してきたのは公衆電話。

こっちからかけても繋がらないはずだ。

口早に解約してくれといって切れた。

その日は取材が入っていたので身動きとれず、翌日に回線を停止した。

あんしんパックに入っているから同じ機種を安く買えるがそれは帰ってからのこと。

その直前のメールは「宿泊先でネズミに噛まれた」だった。

医者にいけばペストにかかっているかもしれないと念のため注射されたそうだ。

三カ日おきぐらいに治療があるという。

中国へ渡りたいが10日間ほどは滞在地のとどまざるを得ない。

海外保険に入っているので保険会社を通じてその状況が知らせられるが・・・。

2日にはその保険会社のシンガポール拠点の担当者から電話があった。

コルカタの病院で治療を受けた。

病名はそのままズバリの「ネズミに噛まれた」であった。

東南アジア地域では狂犬病がある。

念のためにウッドランドの病院で1回目の治療をした。

この治療は数日明けて5回しなければならない。

2回目は4日で滞在する予定のバラクシ。

病院は保険会社が手配する。

3回目の8日は行き先のネパールカトマンズ。

その後、15日、28日の治療日を予定している。

最後の日はジャパン。

その次男。25日に天津を出発して帰ってくる。

直接帰らずに27日には讃岐うどんを食べるのだといって四国に渡るそうだ。

その翌日に戻ってくるのが28日。

どの病院に行くかは・・・探さなければならない。

(H23. 3.20 記)

保護

2011年03月30日 07時31分55秒 | ぽつりと
買い物を済まして家に戻れば次男が玄関に立っていた。

「これ、見るっ?」となにやら袋を差し出す。

何って言えば「鳥」と返ってきた。

死んでいたら鳥インフルエンザかもわからないので保健所に届けやんと・・・とおそるおそる袋の中を覗きこんだ。

「何か、わかる?」と問いに一目見てヒヨドリと答えた。

「生きてるで」と言った次男。

なんでもカラスに痛めつけられていたそうで、可哀想だと保護してきたそうだ。

血は少し。

手のひらでおとなしくしているヒヨドリ。

目は生きている。

元気やったら放鳥してやろうと下水道工事をしている庭に置いた。

ピクっピクっと身体が反応したと思いきや立ち上がったヒヨドリ。

ぱっと飛び立ちあっちやこっちへの枝に移動する。

元気やったんやと手を振って見送った。

小動物を発見したら家で保護しようとする次男。

やさしい心をもっている。

その次男が2月13日にモンゴル、中国に続いて3回目の海外渡航に関西空港から旅立った。

香港経由でインドのデリーへ、そしてムンバイへ。

そこで一週間滞在したのちにアフリカに向かう。

目的地はケニア。キリマンジャロへは行かないらしい。

再びインドへ戻って、帰ってくるのは4月の春に・・・。

二日後に到着したムンバイからメールが届いた。

切符がとれたらしく16日にはナイロビに行くそうだ。

(H23. 2. 9 SB932SH撮影)

始まった下水道工事

2011年03月29日 08時33分56秒 | ぽつりと
市下水道の通樋工事ができたのが昨年。

それより市の通達があって家への引き込み工事などは「私」でしなければならない。

これにはそうとうの費用がかかる。

お隣やその向こうの家も終わった。

残るは・・・。

幾たびか通達が届いている。

「はよせんか」ということだ。

そんじょそこらでかたづけられる費用ではない。

そのまま放置するわけにもいかず、隣近所へも迷惑がかかる。

数社の工事業者に見積もりをとった上で決断した。

周りにあった植木は除去した。

ほったらかしにしていたがらくた鉢も撤去した。

ガレージを掘り起こして管を埋める。

新築した当時以来の大工事が始まった。

4日後の11日には雪が降ったから工事は中止。

休日を挟んでその後の14日も積雪で中止。

15日にようやく完成したがコンクリートが固まるまでは車を止めることができない。

減免措置もなく工事費用は25万円もかかった。

(H23. 2. 7 SB932SH撮影)

ねんきん

2011年03月12日 07時37分57秒 | ぽつりと
昨年の10月ころに「ねんきん定期便」が届いていた。

これまでにも届いていた定期便の内容に洩れはない。

厚生年金保険は485ケ月、国民年金の加入月数が10ケ月。

これは平成14年秋に早期定年で辞めたときに払っていた月数だ。

二つは合算されて計算される。

長年勤めてきた41年間の証しだ。

60歳に到達すれば老齢厚生年金が支給される。

いわゆる報酬比例部分である。

それから5年後の65歳になれば経過的加算部分が付加される。

そこに老齢基礎年金が加わる。

いわゆる2階建ての構造だと叫ばれている部分だ。

そのころの額であれば生活はさほど苦しくない。

5年間は長い待ち期間。

とはいってもそれまでは老齢厚生年金額しかない。

月額は7年8ヶ月勤めてきた臨時職員の日々雇用給与とさほど変わりない。

早期定年後はその給与額で暮らしてきた。

貧困生活には慣れている。

年金請求の申請は誕生日である。

9年前、早期定年で辞めたときに訪れた社会保険事務所。

久しぶりだ。

手続き書類が間違っていたらなにもならない。

記入した書類に漏れがないか、先に到達したかーさんがたっぷりと点検してくれた。

必要な添付書類の一覧もこさえてくれた。

何事も先駆者がいると助かる。

市役所へ出向いて戸籍謄本、住民票、所得証明書を入手した。

銀行へ行って金融機関の証明をしてもらった。

他に持っていくものに雇用保険被保険者証。

かーさんの年金証書や年金手帳、家族の健康保険証などはコピーで構わない。

一式を揃えて事務所に行った。

待ち時間は1時間だった。

60歳を過ぎても働くことができるようだ。

最大月数は528ケ月。

40ケ月は加算することができるが、厚生年金が付く事業所はおそらくないだろう。

市の施設での臨時職員は3月末で契約が切れる。

アルバイト延長もない。

60歳を超えると契約しない。

行政機関と同じようにしないというわけだ。

市職員ならば減額はされるもののさらに延長して勤めることができる。

臨時職員にはそれができないという市人事の通告で3月末のお払い箱となる。

相方はシルバー人材登録を経て継続雇いになるという。

給与の2割りはシルバー人材の手数料で引かれるのは仕方ないと語る相方。

ただ私にはその請負指令はない。

休んだときの手配ができないとかいうが、疑問が残る・・・。

それはともかく健康保険は任意継続できる。

国民健康保険よりは支出が少ないのでその対応をしなくてはならない。

いずれにしても4月にはハローワーク通いになることは必至である。

忘れそうになったのが企業年金だ。

忘れる。

それもそのはず40年も前のことだ。

高校を卒業して初めて勤務した工場。

9ケ月という僅かな期間だったが先輩たちや寮生活での思い出がいっぱいある。

あれから40年。

それぞれ引退されていることだろう。

その9ケ月はその会社の基金連合会。

本社に連絡すれば解散したそうだ。

引き継いだのが企業年金連合会だった。

老齢年金裁定請求書に必要事項を記入、金融機関の証明の住民票を添付し送付した。

期間が短いだけにほんまに額は少ない。

10円より多いことはたしかだけど・・・当時の物価高が悲しい。

申請した結果は翌月の26日に「国民年金・厚生年金保険年金証書」が届いた。

被保険者期間は488月とあり、月額は11万円程度とある。

さらに、5月には加入者ではなくなったので再計算され6月6日に「年金決定通知書・支給額変更通知書」が届いた。

それによると被保険者期間が491ケ月であって、期間は3ケ月増えたが、支給額が3400円も下がっとるやないか。

こりゃ掛け損かいな。

どういうこっちゃ。

翌日の新聞に年金相談コーナーに記載されていた記事でそれは判明した。

平成23年度が5年ぶりに「年金の物価スライド」が実施されるという記事だ。

今月の振込から全ての受給者に対して年金額が0.4%減額される。

実際に減るのは老齢基礎年金が満額の人らしい。

物価スライドは物価の下落に伴う措置だと・・・。

答えは判ったがやはり確かめなくてはと社会保険事務所に出向いた。

待つこと40分、その通りの結果であった。

年金の見直しは毎年されているのだが、減額されたのが5年ぶりだというがそれにしてもこの通知書には一切そのことが記載されていない。

4月15日付けで「年金振込通知書」が届いていた。

そのときはあまり気にしていなかった年金額。

実際に少なくなっていたのだ。

2ケ月割りをしているのかと思っていたのだ。

その通知書にも物価スライド減額のことは一切書かれていない。

今回の「年金決定通知書・支給額変更通知書」もその件は書かれていない。

新聞で知った物価スライド制。

テレビ報道でもしていたのか判らないが・・・。

出向いた社会保険事務所にはいたるところにその案内を知らしめているチラシが貼られていた。

これで周知徹底していたというのか。

日本年金機構になってからは通知文面も見直しされたというがそれは一般の人には判りにくい専門用語を判りやすい文言にしただけである。

しかしだ。

周知するのは当然ながら受け取るのは個人。

そのときになって理解できる内容文でなければならないと思うのは私一人だけであろうか。

3、4、5、6月の年金履歴を端末で確認した解説した社会保険事務所の担当者も不親切な文面であると、この件を認識された。

(H23. 1.27 記)
(H23. 6.10 記)

瓦崩れ

2010年11月24日 08時35分20秒 | ぽつりと
樋の点検、泥落とし作業が3千円の価格に飛びついたかーさん。

先日にその作業をしてもらったら、屋根瓦がどえらい状態になっていることの報告を受けた。

2階の部屋から見える1階の屋根。

のぞき見ればたしかにどえらい状態だ。

1階は切り妻屋根。

両サイドの瓦のいたるところが破損している。

漆喰は剥がれている。

手前はなんともない。

南側の屋根を見てもそんな状態は発生していない。

北側だけなのだ。

業者に言わせると漆喰部分の中は水分がたっぷりあるそうだ。

おそらくその水分の関係でその付近の瓦が風化現象になっているようだ。

これではいつか雨漏りになってしまうであろう。

発覚したら放置するわけにはいかない。

見積もりをとって修理してもらった。

新築入居当時に発生した雨漏り。

そのときの補修が今頃になって発覚したのだが20年以上も前のこと。

よくまあ保ったものだと感心する。

しかしだ。

2階の屋根は費用の関係で未だ手つかず。

補修はしたくとも原資はない。

引き込み下水も費用を捻出できず発注していない。

どうしたらいいのだろうかと悩んでみてもお金はどこにも落ちていない。

(H22.10.17 EOS40D撮影)

大陸の病

2010年08月21日 07時35分21秒 | ぽつりと
モンゴルから出国して中国へ渡った次男から電話があった。

しんどいからと地元の医者に診てもらったら「即刻国に帰れ」と言われたそうだ。

なにやらが欠乏しているらしい。

電話口の声ではそのしんどさは伝わらないし歩ける状態。

往複船便の切符を持っているが船では発着日もあって時間がかかり過ぎる。

飛行機で帰らざるをえないぐらい急を要する。

ところがその航空運賃を費やすお金がない。

えらいことになったと話す。

それだけ連絡があってプツンと切れた。

電話口に出たかーさんはオロオロ。

飛行機で中国まで飛んで行きたいというがどこにいるやら判らない。

北京、上海それとも・・・。

キャッシュカードも持っていない次男。

送金しようにもどうしようもないが調べてみた。

送金には郵便もあるらしいが日数がむちゃかかる。

長男の話では航空便なら早いというが、調べてみりゃこれも数日かかる。

それからも電話はかかってこない。

行方は相変わらず不明だ。

海外で困ったらどうするか。

そのために海外保険も加入しておいた。

治療費や緊急帰国の費用は後払いで出るらしい。

今、必要なのは航空運賃だ。

保険会社で立て替えてくれはしない。

それならばと、日本大使館に救いを求めた。

翌朝に電話した。

なにやら流れるテープの声。

数時間後にかけたら簡単に繋がった。

まだ時間が早かったのだ。

事情を伝えた。

そうしたら担当官は次男が居る処へ行きましょう。

海外保険も手続きしましょうと返事が返ってきた。

救いの手は北京にあったが、次男の所在は未だ知れず。

昼過ぎに電話が入った。

昆明に居て飛行機で上海に向かうという。

切符代はどうしたのかと聞けば、よれよれ切断状態の為替を紙に張り付けてみれば通貨換金できたという。

なんということか。

そういえば国内でもその対応が可能だと存知している。

万国までとはいかないが共通なのだと認識した。

で、上海経由で翌日の21時には関西空港に着くという。

コレクトコールの方法も教えてくださった大使館の担当官。

その方法で大使館に連絡した次男。

それから1時間後、担当官から電話を受け取ったと知らせてきた。

翌日にも担当官から連絡があった。

それによればラオスで病にかかったそうだ。

人民病院で診療を受けた結果、おそらく検査入院であろうと一週間の診断。

下痢症状も併発しているという。

発疹も症状のひとつ。

入院措置をけって帰国の道を決めたことから、緊急帰国の要請だった。

この日のうちにラオスから上海。

そして関西空港へと手続きは進んでいるそうだ。

帰国するのは夜8時半ころだが出国できるかどうか判らない。

かーさんはそれでもと関西空港にでかけた。

飛行機は無事に到着したらなんとケータイが繋がった。

そこで見た発疹も見られない次男の顔に涙ぐむ。

日本での病院探しはこれから始まった。

天理のよろず病院で診療を受けたが特になにも検出されなかった。

自然治癒して病原菌は消えていたそうだが念のため細胞検査をすることになった。

それから2週間後の29日。

病院から結果が判ったと連絡があった。

デング熱(病)だという。

中国へ渡ってから熱があった。

それが始まりだったのかもしれない。

2度目の発病がラオスであったのだろうか。

次男はなんとか無事に帰ってきたが、海外へ旅する人はどう注意しなくちゃならんのだろうか、私では判らない。

(H22. 7.13 記)
(H22. 7.16 SB932SH撮影)

耐震診断

2010年07月21日 08時16分04秒 | ぽつりと
無料で家の耐震診断をしたいと訪れた業者。

かーさんは信用して日取りを決めてしまった。

以前もそんな理由で診てもらったことがある。

あなたの家はこのような状況になってますと撮ったビデオを私に見せた。

「だれが写してもえーといったんじゃ」と一喝した。

勝手なことをする業者は信用ならん。

即効で映像を消させた。

「プライバシーマークを見せろ」と伝えたら「それは何ですか」と返ってきた。

ますます信用ならん。

なんじゃかじゃと業者に云ったら尻尾をまいて離れていった。

そんな業者なのかどうか判らないが二人が来た。

大阪府知事許可番号や診断士が記された写真入り名刺を差し出した。

会社案内も提示した。

ふむふむ。

ところで無料で診断するのは何故なのかと聞いた。

要約すれば自治体への提案に事例を作りたいというのだ。

それは判ったと了承した。

診断は屋根裏や床下に潜ってデジタル画像を収録していった。

うちの家であることを証明するために印となるモノを一緒に撮っていった。

およそ2時間の診断。

現況結果はテレビに映し出される。

スジカイ、アンカーボルト、断熱材等は建築当時の状況記憶を蘇らす。

建築中の30年ほど前は毎週見にきていた。

一部は写真やビデオにも撮っておいた。

木造の湿気計測は良好を示す。

30年間も暮らしているのに劣化も認められない。

当時の建築基準で建てられたものだがそれ以上の作り方で建てられていたことに診断士は驚きを隠せない。

当時の棟梁の顔を思い出す。

建築後には屋根瓦を補修したり、壁の塗り替えをしていたが中身は手をつけていない。

シロアリ対策はしてきた。

それから10年以上は経過しているにも関わらずほれぼれするような映像が映し出される。

が、だ。

それから大きな地震が発生して基準が一挙にあがった。

現在の基準と照らし合わせて耐震を診断する。

間違いなく「倒れる」となるであろう。

案の定、4日後の診断結果はそうであった。

震度6強に耐えうる補強は壁、床などに2百万円。

どこにそんなお金があるんじゃ。

最小限の補修でも70万円はかかる。

事例とはいうものの、やはりこれが狙いであった。

(H22. 6. 5 記)

再びモンゴルへ

2010年07月14日 08時39分08秒 | ぽつりと
何ヶ月も前から用意周到に準備してきた次男。

今回は海外保険を先週に済ませた約2ヶ月のモンゴル旅。

荷作りは万全。それ様にザックも大型に替わった。

前回は飛行機で旅立ったが、今回は船旅。

神戸からフエリーで中国に渡るという。

安価な旅をスタートした。

いつ中国に着くのか船旅の日程の詳細を知らされていないかーさんは二日後に寝られんようになった。

相変わらず連絡はしてこない。

中国のどこに着くのだろう。

調べてみりゃチャイナエクスプレスラインという航路があるではないか。

それによれば天津だ。

そこからは汽車でモンゴルに行くのであろう。

大陸は汽車だと言っていたんだけど。

それから4日も経つが音信不通になった。

メールを送っても反応はない。

電話は当然ながら電源切れか通信不能のメッセージ。

襲われたのではないだろうかと、心配で眠れないかーさん。

毎日泣いてばかりで考えることはマイナス方向で悪いほうへとストーリーを作っていく。

この状態が続くなら、警察に行方不明の手続きをしてビザをとって大陸まで行きたいという始末。

そんな毎日が続いていた5日目の9日。

留守番電話が入っていた。

本人の声が残されていたのを聞いたかーさんは嬉しさと安堵で涙があふれ出た。

心配しなくとも節目には電話をしてくるだろうと思っていた通りだった。

昨年も旅立ってからメールはするし、電話もするものだから戻ってから「もうかけやんといてや」と意志を伝えていた。

次男は大陸でなにもかも解放されたかったのだ。

しつこく通信すればするほど「ほっといたろっ」てなことになる。

初日は大陸行きのフェリーが出港したとき。

5日目は大陸を走る汽車に乗ったとき。

次は下車したときかモンゴルに着いたときになることだろうと思っていたら、6時間後に再び電話がかかった。

なんでも携帯が圏外になったままで繋がらなかったという。

そうだったのか。

圏外のままでは使えないので契約を解除してくれというがそれは必要ないだろ。

少ない話中時間に恐ろしい目にあったことが報告された。

中国でタクシーに乗ったそうだ。

日本人は次男を入れて3人。

運転はそうとう荒かった。

飛ばす、飛ばす。

びゅんびゅん飛ばして、突然に横転した。

幸いにも次男は怪我がなかったが一人は軽症で病院行きとなったそうだ。

心配のタネがまたひとつ増えた。

モンゴルゲストハウスに無事に着いた2度目のモンゴル行き。

果たしてその目的とは。話の端々によればどうも永住する気でいるらしい。

だから今回は仕事ができるかどうかという点であろう。

海外旅行なぞ行くことはあるまいとしていたかーさん。

パスポートの手続きをしたのはいうまでもない。

で、その後の電話はあったのか。

6月20日といえばそれから10日後だ。

それまで音信はなかった。

元気でなによりなんだろう。

かーさんも電話コールをしなくなっていた。

ゲストハウスに滞在しながらモンゴルを堪能しているらしい。

今度もモンゴルへ行くのかと聞けばそうでもないそうだ。

3度目はないという。

見飽きたらしい。

で、次はどこやねん。

帰ってきた返事はアフリカだった。

まだまだ心配のタネはつきない。

その後も一週間おきぐらいに状況を知らせてくる。

ところが、身体がえらいことになったので緊急帰国したいと電話がかかった。

7月13日のことだ。

(H22. 6. 4 記)

引っ越し作業

2010年04月26日 08時48分43秒 | ぽつりと
一年以上暮らした賃貸マンション。

来週にはいよいよ東京へ旅立ちする長男。

荷物は少ないけれど仕事が忙しくてなにもできないだろうとかーさんが箱詰め作業に行きたいと申し出てやってきた。

関西は60ヘルツ。

関東は50ヘルツと周波数が異なる。

電気製品で引っかかったのは電子レンジだけだった。

作業に取りかかった頃、会社指定の引っ越し業者が見積もりにやってきた。

丸々会社もちだがそれはパック部分。

自家用車を運送するオプションは個人もちで、陸送にかかる費用は5万円を超えた。

予想の倍だったそうだ。

電気製品などはパック料金内だが工事を伴うのは別料金。

洗濯機の水漏れパンは引っ越し先の付帯になる。

こちらで買っていっても室内の形状が合わなければ無駄な費用になる。

それは電気屋まかせにして料金は3千円の追加。

食器や本、小物類を箱詰めする。

衣服はハンガー掛けのままでいいという。

ところがパソコンは引っ越しできないという。

精密機械は対象になっていないのだろう。

それはともかくインターネット電話回線は持っていけるのだろうか。

ずばり、ダメ。

西日本から東日本への転換はできないという。

回線は解約。

一年ちょっとなので、解約手数料は2万5千円もかかると返事がきたそうだ。

えらいまたふっかけだのう。

あらためて電話したら、4月1日に解約すれば千五百円だという。

担当者によってこれだけ差異があるとは信じられない。

(H22. 3.25 SB912SH撮影)