昨年の11月3日に訪れた京都府南山城村の田山。
そこで聞いた堂山の観音寺で正月初めのオコナイ行事である。
宮本座・中間(ちゅうげん)座の二座の長老オトナ衆が参集される村行事。
オコナイ行事の途中で作法されるランジョ-がある。
ランジョー作法に叩く木の棒はヤマハゼ。
いわゆるハゼウルシのことである。
仏事の行事であるが、諏訪神社の宮司も参列する神仏混合の行事は数年前より中断中であると聞いた。
中断される前に行っておきたかった観音寺のオコナイはもっと前に知っていたが、地域もわからず手ぐすね引いていた。
教えてくださったのは天理市福住の下ノ坊でお会いした住職である。
住職は田山の観音寺も出仕されていたから存じていたのである。
が、時すでに遅しであった。
ネットで調べていた田山のオコナイ。
そのときに知ったもう一カ所のオコナイ。
場は南山城村の北大河原の春光寺。
たまたま出現したネットに檀家総代がハゼの木を伐りとってきてごー杖を作るという記事だ。
寺住職はごーさんの札に墨書する。
集落の子どもたちがお堂の縁を青竹で叩くランジョーの作法である。
また、場所は不明であるが、同南山城村のどこかでキツネの施行をしているようだった。
キツネの施行は大寒入りの日か、大寒期間中におこなわれるのかどうかわからないが、村の老人会がしているような記事だった。
そのような行事があると写真家のKさんに話したら是非ともとお願いされる。
お願いされてもどこであるのか、廃れている可能性もあるけど・・・と伝えたら、それでも行ってみましょうの返答にとにかく出かけてみることにした。
カーナビゲーションにセットした京都府相楽郡南山城村北大河原。
行事場はわからないから中心部をセットして車を走らせる。
田山から道を下っていけば北大河原にでる。
だが、北大河原はどのような地形になっているのかわからない。
とにかくカーナビゲーションが示す道に沿って走らせる。
最初に示したのは川の向こう岸。
欄干も何もない石造りの沈下橋を渡る。
ここはどこなんだ。
その場に観光マップと思しきものを掲示していた。
在所は笠置町の飛鳥路のようだが、集落がどこなのか。
調べる時間的な余裕もなく場を離れるが、渡ってきた沈下橋は「潜没橋」と書いてあった。
ここより東に数キロメートル走ったところにあるのが、南山城村役場のある北大河原のようだ。
そこを目指して走るが新道のトンネルに入り込む。
そこを抜けても大河原が見当たらない。
だが、カーナビゲーションは月ヶ瀬口を示す。
その指示が誤りだとは気にもせずに走らせる。
これはあかんと思ってUターン。
和風レストランがある辺りになればあっちやと示すカーナビゲーション。
指示は山の中。
そうか山中にあるのだ、と思ってくねくねと急勾配の山道を登っていく。
えー加減に集落でもと思ってみてもまったく出現せず諦めた。
そのころに電話がかかった。
Kさんはそれらしき処に着いたという。
神社があって線路もあるというからまったく違う処を目指していたようだ。
もしかとすれば新道を走っていたためか。
そういえばトンネルを走っていら場所は道なき道の空中を飛んでいるようだった。
つまりは完成したばかりの新道はカーナビゲーションに反映されていない。
そのトンネルは潜らず地道が北大河原。
細くて急な坂道を下っていけば神社があった。
そのすぐ傍に駐車場。
ようやく出会った地は国津神社がある北大河原だった。
とにかくお寺はどこにあるのだ。
神社下の処に数人の男性がU字溝の工事をしていた。
なんでも排水を良くするための工事であって職人さんと思えた人は国津神社の宮総代だった。
オコナイを調べていると聞けば、そこが智山派の春光寺。
私たちもオコナイをしているという。
神社行事でもないが、北大河原には山の神行事があるという。
今年は12月10日にするという山の神行事は午後6時に集まった子どもたちが村を巡ってお米集めをしている。
それは昔のことで今はお金集め。
タイショウと呼ぶ高校1年生の子どもが年長者。
およそ2時間もかけて村全戸を巡る。
全戸という戸数は120戸~130戸。
相当な戸数である。
すべてを廻り終えたら国津神社にやってくる。
神社では3人の宮総代が大釜でカヤクメシを炊いておく。
昔は集めたお米で炊いていたが、現在はお金だからそのお米ではなく神社経費から捻出している。
集めたお金は子どもたちが分配してもらって帰る。
戸数が多いから相当な金額になるようだ。
国津神社のマツリに樽御輿が登場する。
獅子舞も出ているというくらいだから賑やかな状況であろう。
ちなみに南大河原だと思うがイノコの貼り紙があったような・・・とも。
ところで肝心かなめのオコナイ行事である。
お寺さん住職は不在であったが婦人にお話が伺えた。
来年の1月は7日になるというオコナイは本来の日は6日であったが、副住職である息子さんの仕事の関係で近い土曜若しくは日曜にしているという。
7日は先約がある。
大阪府能勢町天王区のキツネガエリ取材を約束しているから次年度は是非ともとお願いした。
ところで副住職は兼寺地の野殿(のどの)の福常寺がある。
そこでは1月4日。
固定日になるそうだ。
寺に着いてからごーさん札に書をするらしい。
その地はダラダラ道を登りつめた処にあるらしい。
ついさっきまで走っていたダラダラ道がそうだったが野殿までは着いていない。
ちなみにダラダラ道よりも川沿いに登っていくほうが良いらしい。
ちなみに春光寺のオコナイは乱杖会の行事名になるらしい。
五つ股のハゼウルシの木は50本。
国津神社を務める村神主が天地、東西南北に向けてごーさんを突き出す所作をするそうだから神仏混合の行事である。
在所は北大河原の本郷。
子供会の案内状には“えんたたき”表記をしているという所作には使う道具は竹のようだ。
北大河原のだいたいがわかってきた。
そこで次の目的地である南大河原に方向転換。
神社はどこに鎮座しているのか。
集落入ったところの民家に人が居たので尋ねてみる。
昭和18年生まれの男性は3年間務めた氏子総代から宮守に区長、老人会の会長を務めてきたという。
特に宮守は夫婦揃っていないとなれないそうだ。
南大河原の神社は10月28にゾーク(造営)をした。
20年に一度のゾークに夜の8時から翌朝の7時までが下遷宮。
仮宮におられた神さんは上遷宮の儀式で戻られた。
もとは古森と呼ばれた地であったが、江戸時代末期の元治元年(1864)、天満宮に合祀した恋志谷(こいしや)神社。
ゾークした両社殿に末社などは美しい朱塗りやから是非参ってほしいと願われて参拝する。
恋志谷神社の大祭は4月2日。
秋も大祭があり9月の2日である。
ゾークを機会に境内4カ所に分散していた山の神は纏めて一柱にされた。
イノコは11月の第一日曜日。
宮守がお供えをする。
中祭でもあるから神饌もんも供える。
10月21はトーヤ(当家)がお供えをすると云われたが何の行事であるのか聞きそびれた。
12月10日はお釜で炊いたゴク(御供)さんを椿の葉に乗せて供えていた。
供える場は3カ所。
それが山の神であったろう。
16時にだんどりつけて19時にお供え。
22時までには50戸(実際は48戸)余りの集落を「ヤマモリやー」と声を出して一軒、一軒巡る。
巡っては下げた御供を分けた2班で配っていた。
当時は4、5人もいたから2班。
4組からなる集落全戸を巡って配っていたが、現在は総代が配っている。
ゾークがきっかけになったのか、大幅に改正した行事名は「ヤマモリ」。
充てる漢字は「山守」である。
供えるのはもう一品のアブラゲメシもあった。
それは当番の人が食べていたらしい。
椿の葉を供える場には細く細工した竹串で建てた。
籠り所で白ご飯を食べていたという。
他にも山の神さんに供えるのは東組だとか、重箱にご馳走を詰めてお参りするとか、また組長は12軒、隣家にオシラスがあったとか断片的な情報で線が繋がらない。
具体的にどう動いているのかわかり難かった。
実際の様相はその日に来て拝見するしかないだろうと思った南大河原の昔に太鼓踊りがあった。
正月の時に踊り子の衣装を貸したことがあるというO家は天保年間(1830~)まで遡るらしい。
(H28.11. 7 SB932SH撮影)
そこで聞いた堂山の観音寺で正月初めのオコナイ行事である。
宮本座・中間(ちゅうげん)座の二座の長老オトナ衆が参集される村行事。
オコナイ行事の途中で作法されるランジョ-がある。
ランジョー作法に叩く木の棒はヤマハゼ。
いわゆるハゼウルシのことである。
仏事の行事であるが、諏訪神社の宮司も参列する神仏混合の行事は数年前より中断中であると聞いた。
中断される前に行っておきたかった観音寺のオコナイはもっと前に知っていたが、地域もわからず手ぐすね引いていた。
教えてくださったのは天理市福住の下ノ坊でお会いした住職である。
住職は田山の観音寺も出仕されていたから存じていたのである。
が、時すでに遅しであった。
ネットで調べていた田山のオコナイ。
そのときに知ったもう一カ所のオコナイ。
場は南山城村の北大河原の春光寺。
たまたま出現したネットに檀家総代がハゼの木を伐りとってきてごー杖を作るという記事だ。
寺住職はごーさんの札に墨書する。
集落の子どもたちがお堂の縁を青竹で叩くランジョーの作法である。
また、場所は不明であるが、同南山城村のどこかでキツネの施行をしているようだった。
キツネの施行は大寒入りの日か、大寒期間中におこなわれるのかどうかわからないが、村の老人会がしているような記事だった。
そのような行事があると写真家のKさんに話したら是非ともとお願いされる。
お願いされてもどこであるのか、廃れている可能性もあるけど・・・と伝えたら、それでも行ってみましょうの返答にとにかく出かけてみることにした。
カーナビゲーションにセットした京都府相楽郡南山城村北大河原。
行事場はわからないから中心部をセットして車を走らせる。
田山から道を下っていけば北大河原にでる。
だが、北大河原はどのような地形になっているのかわからない。
とにかくカーナビゲーションが示す道に沿って走らせる。
最初に示したのは川の向こう岸。
欄干も何もない石造りの沈下橋を渡る。
ここはどこなんだ。
その場に観光マップと思しきものを掲示していた。
在所は笠置町の飛鳥路のようだが、集落がどこなのか。
調べる時間的な余裕もなく場を離れるが、渡ってきた沈下橋は「潜没橋」と書いてあった。
ここより東に数キロメートル走ったところにあるのが、南山城村役場のある北大河原のようだ。
そこを目指して走るが新道のトンネルに入り込む。
そこを抜けても大河原が見当たらない。
だが、カーナビゲーションは月ヶ瀬口を示す。
その指示が誤りだとは気にもせずに走らせる。
これはあかんと思ってUターン。
和風レストランがある辺りになればあっちやと示すカーナビゲーション。
指示は山の中。
そうか山中にあるのだ、と思ってくねくねと急勾配の山道を登っていく。
えー加減に集落でもと思ってみてもまったく出現せず諦めた。
そのころに電話がかかった。
Kさんはそれらしき処に着いたという。
神社があって線路もあるというからまったく違う処を目指していたようだ。
もしかとすれば新道を走っていたためか。
そういえばトンネルを走っていら場所は道なき道の空中を飛んでいるようだった。
つまりは完成したばかりの新道はカーナビゲーションに反映されていない。
そのトンネルは潜らず地道が北大河原。
細くて急な坂道を下っていけば神社があった。
そのすぐ傍に駐車場。
ようやく出会った地は国津神社がある北大河原だった。
とにかくお寺はどこにあるのだ。
神社下の処に数人の男性がU字溝の工事をしていた。
なんでも排水を良くするための工事であって職人さんと思えた人は国津神社の宮総代だった。
オコナイを調べていると聞けば、そこが智山派の春光寺。
私たちもオコナイをしているという。
神社行事でもないが、北大河原には山の神行事があるという。
今年は12月10日にするという山の神行事は午後6時に集まった子どもたちが村を巡ってお米集めをしている。
それは昔のことで今はお金集め。
タイショウと呼ぶ高校1年生の子どもが年長者。
およそ2時間もかけて村全戸を巡る。
全戸という戸数は120戸~130戸。
相当な戸数である。
すべてを廻り終えたら国津神社にやってくる。
神社では3人の宮総代が大釜でカヤクメシを炊いておく。
昔は集めたお米で炊いていたが、現在はお金だからそのお米ではなく神社経費から捻出している。
集めたお金は子どもたちが分配してもらって帰る。
戸数が多いから相当な金額になるようだ。
国津神社のマツリに樽御輿が登場する。
獅子舞も出ているというくらいだから賑やかな状況であろう。
ちなみに南大河原だと思うがイノコの貼り紙があったような・・・とも。
ところで肝心かなめのオコナイ行事である。
お寺さん住職は不在であったが婦人にお話が伺えた。
来年の1月は7日になるというオコナイは本来の日は6日であったが、副住職である息子さんの仕事の関係で近い土曜若しくは日曜にしているという。
7日は先約がある。
大阪府能勢町天王区のキツネガエリ取材を約束しているから次年度は是非ともとお願いした。
ところで副住職は兼寺地の野殿(のどの)の福常寺がある。
そこでは1月4日。
固定日になるそうだ。
寺に着いてからごーさん札に書をするらしい。
その地はダラダラ道を登りつめた処にあるらしい。
ついさっきまで走っていたダラダラ道がそうだったが野殿までは着いていない。
ちなみにダラダラ道よりも川沿いに登っていくほうが良いらしい。
ちなみに春光寺のオコナイは乱杖会の行事名になるらしい。
五つ股のハゼウルシの木は50本。
国津神社を務める村神主が天地、東西南北に向けてごーさんを突き出す所作をするそうだから神仏混合の行事である。
在所は北大河原の本郷。
子供会の案内状には“えんたたき”表記をしているという所作には使う道具は竹のようだ。
北大河原のだいたいがわかってきた。
そこで次の目的地である南大河原に方向転換。
神社はどこに鎮座しているのか。
集落入ったところの民家に人が居たので尋ねてみる。
昭和18年生まれの男性は3年間務めた氏子総代から宮守に区長、老人会の会長を務めてきたという。
特に宮守は夫婦揃っていないとなれないそうだ。
南大河原の神社は10月28にゾーク(造営)をした。
20年に一度のゾークに夜の8時から翌朝の7時までが下遷宮。
仮宮におられた神さんは上遷宮の儀式で戻られた。
もとは古森と呼ばれた地であったが、江戸時代末期の元治元年(1864)、天満宮に合祀した恋志谷(こいしや)神社。
ゾークした両社殿に末社などは美しい朱塗りやから是非参ってほしいと願われて参拝する。
恋志谷神社の大祭は4月2日。
秋も大祭があり9月の2日である。
ゾークを機会に境内4カ所に分散していた山の神は纏めて一柱にされた。
イノコは11月の第一日曜日。
宮守がお供えをする。
中祭でもあるから神饌もんも供える。
10月21はトーヤ(当家)がお供えをすると云われたが何の行事であるのか聞きそびれた。
12月10日はお釜で炊いたゴク(御供)さんを椿の葉に乗せて供えていた。
供える場は3カ所。
それが山の神であったろう。
16時にだんどりつけて19時にお供え。
22時までには50戸(実際は48戸)余りの集落を「ヤマモリやー」と声を出して一軒、一軒巡る。
巡っては下げた御供を分けた2班で配っていた。
当時は4、5人もいたから2班。
4組からなる集落全戸を巡って配っていたが、現在は総代が配っている。
ゾークがきっかけになったのか、大幅に改正した行事名は「ヤマモリ」。
充てる漢字は「山守」である。
供えるのはもう一品のアブラゲメシもあった。
それは当番の人が食べていたらしい。
椿の葉を供える場には細く細工した竹串で建てた。
籠り所で白ご飯を食べていたという。
他にも山の神さんに供えるのは東組だとか、重箱にご馳走を詰めてお参りするとか、また組長は12軒、隣家にオシラスがあったとか断片的な情報で線が繋がらない。
具体的にどう動いているのかわかり難かった。
実際の様相はその日に来て拝見するしかないだろうと思った南大河原の昔に太鼓踊りがあった。
正月の時に踊り子の衣装を貸したことがあるというO家は天保年間(1830~)まで遡るらしい。
(H28.11. 7 SB932SH撮影)