その昔は十日間。
今では一夜の法会に移った十夜。
収穫の喜びに仏さんにお米を供える。
今ではお金になった仏餉袋(ぶっしょうふくろ)に入れて本尊に供える。
かつては本堂で十夜に百万遍数珠繰りをしていた。
足腰の関係で座椅子を導入したときにやめたという本堂は天理市楢町の興願寺。
これまで寺行事を取材させてもらったことがある。
一つは平成26年5月8日に行われた薬師堂の薬師法会である。
もう一つは同薬師堂に供える民間信仰の冬至カボチャ御供だ。
供えた冬至カボチャが気にかかって訪れた同年の12月22日。
いずれも薬師堂の行事・信仰であるが、興願寺が関与している。
薬師法会は興願寺住職が法要を営まれるし、法会をする薬師堂にはカボチャそのものにカボチャを練り込んだモチ御供もあれば、薬師講を摂待する場は本堂。
そこで講中はカボチャモチを入れたすまし汁をよばれていた。
尤も楢町には楢神社がある。
神社行事は2月に行われる火舞神事や御田植祭に4月の春季大祭に訪れたこともあるから馴染みの人たちもおられる。
前置きが長くなってしまうので十夜に戻そう。
十夜につきもののふるまい料理がある。
これまで天理市南六条町の西福寺、大和郡山市額田部町の融通寺、同市白土町の浄福寺がある。
拝見はしていないが大和郡山市横田町の西興寺もふるまいがある。
これらはいずれもふるまい料理が小豆粥である。
白土町の浄福寺で行われたときは小豆粥の作り方を教わったことがある。
小豆粥の色をだすのにどれほど苦労があるのか。
あらためて知った日でもあった。
楢町興願寺の小豆粥はササゲ豆で作る。
料理人は興願寺住職の奥さん。
婦人たちの支援もあって作る小豆粥は一回、二回、茹でた汁を上のほうから落として空気に触れさす。
空気にさらすことによって酸化させる。
そうしないと良い色が出ないという。
まさに白土町で拝見した通りの作り方である。
ちなみにお供えもササゲ豆。
尤も豆そのものを供えるわけではなく料理した飯御供である。
ササゲ豆を入れて炊きあげたアカメシ御供である。
檀家さんたちに持って帰ってもらうのに、パックに盛って供えていた。
もう一つのお供えはコンブやエリンギにコーヤドーフとかチンゲン菜を立てた御膳である。
チンゲン菜は紅白の水引括り。
エリンギはあちらこちらに飛び出す火のように組んでいる。
私はそう見えたが・・。
コーヤドーフは水平置きに組み合わせた石段であろうか。
コンブは扇のように広げたものが3枚だ。
これは住職がこしらえたもの。
どこもそうだが立てて供える生御膳は決まりもなく住職の創意工夫。
仏さんの一年間のお礼に立てたと話す。
他の宗派は拝見したことがないのでどうともいえないが融通念仏宗派の十夜はどことも立てる生御膳であった。
時間ともなれば男女大勢の檀家の人たちがやってくる。
それまでに拝見したい鉦がある。
写真左にある鉦に刻印があった。
「興願寺什物 奥出家先祖代々法界 施主奥出楢吉」とある銅製の大きい鉦。
楢町に生まれた人は「楢」の一文字を貰って名前をつけたという。
この事例は結構多いらしい。
大正十四年弐月、「楢節約規程」に署名した人の名に「楢司」、「楢蔵(5人)」、「楢治郎(2人)」、「楢次郎」、「楢熊」、「楢市(2人)」、「楢石(3人)」、「楢太郎」、「楢松(2人)」、「楢吉(3人)」、「楢三郎」、「楢太郎」、「ナラエ」である。
女性の名前は数人あるものの総勢90人中に24人。
約3割近くもある「楢」地名を授かった名前である。
右側にあるもう一つの鉦も伏し鉦は直径20cmばかり。
「和州楢村薬師堂住物 也由西置 宝永六己丑(1709)歳佛生日 堀川住筑後大掾常味作」の刻印がある。
宝永二年であるが、同名作者の鉦が滋賀県草津市芦浦町観音寺に併設する安国寺にあるそうだ。
なお、同名作者の鉦は天和二年(1683)から享保十九年(1734)ごろまであるらしい。
京都で活動していた鋳物師は数々。
そのうちの一人であるが、50年間もの期間に亘っていることから名代を継いできた鋳物師だったことが伺える。
およそ30人もの檀家衆で席は埋まった。
男性は7人。
圧倒的に多い女性に囲まれた。
始まりの合図に鐘を連打で打つ。
安置する本尊、脇仏にローソク火を灯す。
そして、線香も火を点けてくゆらす。
正面、ご本尊さんの前に掲げた来迎図。
住職が云うにはそれほど古くはないという中央が本尊の天徳如来の十一尊来迎図。
本尊の周りに十尊の姿を配置する。
掛図を納めた御箱も丁寧に奉られる。
二つあるのはもう一つが阿弥陀さんの掛図。
たまに虫干しをするというから一度は拝見してみたくなる。
鐘はもう一度打ち鳴らしたら住職の入堂である。
唱えるお念仏が始まって間もないころから焼香が動いた。
廻ってきたら焼香して手を合わす。
両手にそれぞれもつ撞木。
その両手で同時に打つ伏せ鉦の音色が堂内に響く。
そして、回向。
先祖代々の回向。
回向する先祖さんを詠みあげる。
数えていたが途中で諦めたくらいに多い。
午後7時から始まった十夜の法会はおよそ1時間。
融通念仏勤行のお念仏は香偈、礼文、三礼、懺悔、三帰、七仏通戒、総願、別願、十念、開経偈、真身観文、光明文、別回向・・・。
ゆったりとした時間が流れる。
仏餉献上された人たちの名前も詠みあげてご本尊に献上する。
ローソクもお供えなども献上者の人数は多い。
そして般若心経。
五穀豊穣、交通安全なども祈願されて、住職の法話。
ほぼ2時間の十夜は〆に心込めて作った。
ササゲ豆で作った小豆粥をよばれる。
ササゲ豆の色は赤色。
粥も赤い色。
赤は魔除けの色という中国古来のより伝わる食べ物。
これを十夜粥と呼ぶそうだ。
法会の片づけをして本堂に設えた長机。
人数いっぱいが座れるように設営できたら炊事場から急いで運ぶ。
大鍋いっぱいにあるササゲ豆の小豆粥をすくって椀にいれる。
手早く椀にいれては本堂に運ぶ。
漬物ではないが、ダイコンを千切りして作った和え物が小豆粥とマッチしてとても美味しい。
「何杯も食べてや」と云われるが、我が家に帰れば晩飯もある。
少しだけと思いつついただいたらお腹は満腹になってしもた。
食べていた場所におられた4人の婦人は楢町ではなく奈良市の窪之庄だった。
こちらに来られたのは、大和郡山市の井戸野町も関係するが、住職が寺応援している奈良市の窪之庄町行事でお世話になっている窪之庄町の檀家さんだった。
檀家さんと共通する話題といえば窪之庄で田植え作業を取材させてもらったH家である。
奥さんは大好きな写真撮り。
コンテストにも応募されて数々の入選作がある。
そういえばHさんの名前を記した農具があった。
窪之庄でもなく楢町でもない。
東山中になる室生の染田である。
農鍛冶師が注文を受けた数々の農具の中にHさんの名前があった。
タケノコ掘りの道具であった。
そこでまさかの出会いもあれば、楢町興願寺で出合った婦人はH婦人のお友達。
ご主人もよく存じてというから世の中狭いものだと思った。
(H28.11. 8 EOS40D撮影)
今では一夜の法会に移った十夜。
収穫の喜びに仏さんにお米を供える。
今ではお金になった仏餉袋(ぶっしょうふくろ)に入れて本尊に供える。
かつては本堂で十夜に百万遍数珠繰りをしていた。
足腰の関係で座椅子を導入したときにやめたという本堂は天理市楢町の興願寺。
これまで寺行事を取材させてもらったことがある。
一つは平成26年5月8日に行われた薬師堂の薬師法会である。
もう一つは同薬師堂に供える民間信仰の冬至カボチャ御供だ。
供えた冬至カボチャが気にかかって訪れた同年の12月22日。
いずれも薬師堂の行事・信仰であるが、興願寺が関与している。
薬師法会は興願寺住職が法要を営まれるし、法会をする薬師堂にはカボチャそのものにカボチャを練り込んだモチ御供もあれば、薬師講を摂待する場は本堂。
そこで講中はカボチャモチを入れたすまし汁をよばれていた。
尤も楢町には楢神社がある。
神社行事は2月に行われる火舞神事や御田植祭に4月の春季大祭に訪れたこともあるから馴染みの人たちもおられる。
前置きが長くなってしまうので十夜に戻そう。
十夜につきもののふるまい料理がある。
これまで天理市南六条町の西福寺、大和郡山市額田部町の融通寺、同市白土町の浄福寺がある。
拝見はしていないが大和郡山市横田町の西興寺もふるまいがある。
これらはいずれもふるまい料理が小豆粥である。
白土町の浄福寺で行われたときは小豆粥の作り方を教わったことがある。
小豆粥の色をだすのにどれほど苦労があるのか。
あらためて知った日でもあった。
楢町興願寺の小豆粥はササゲ豆で作る。
料理人は興願寺住職の奥さん。
婦人たちの支援もあって作る小豆粥は一回、二回、茹でた汁を上のほうから落として空気に触れさす。
空気にさらすことによって酸化させる。
そうしないと良い色が出ないという。
まさに白土町で拝見した通りの作り方である。
ちなみにお供えもササゲ豆。
尤も豆そのものを供えるわけではなく料理した飯御供である。
ササゲ豆を入れて炊きあげたアカメシ御供である。
檀家さんたちに持って帰ってもらうのに、パックに盛って供えていた。
もう一つのお供えはコンブやエリンギにコーヤドーフとかチンゲン菜を立てた御膳である。
チンゲン菜は紅白の水引括り。
エリンギはあちらこちらに飛び出す火のように組んでいる。
私はそう見えたが・・。
コーヤドーフは水平置きに組み合わせた石段であろうか。
コンブは扇のように広げたものが3枚だ。
これは住職がこしらえたもの。
どこもそうだが立てて供える生御膳は決まりもなく住職の創意工夫。
仏さんの一年間のお礼に立てたと話す。
他の宗派は拝見したことがないのでどうともいえないが融通念仏宗派の十夜はどことも立てる生御膳であった。
時間ともなれば男女大勢の檀家の人たちがやってくる。
それまでに拝見したい鉦がある。
写真左にある鉦に刻印があった。
「興願寺什物 奥出家先祖代々法界 施主奥出楢吉」とある銅製の大きい鉦。
楢町に生まれた人は「楢」の一文字を貰って名前をつけたという。
この事例は結構多いらしい。
大正十四年弐月、「楢節約規程」に署名した人の名に「楢司」、「楢蔵(5人)」、「楢治郎(2人)」、「楢次郎」、「楢熊」、「楢市(2人)」、「楢石(3人)」、「楢太郎」、「楢松(2人)」、「楢吉(3人)」、「楢三郎」、「楢太郎」、「ナラエ」である。
女性の名前は数人あるものの総勢90人中に24人。
約3割近くもある「楢」地名を授かった名前である。
右側にあるもう一つの鉦も伏し鉦は直径20cmばかり。
「和州楢村薬師堂住物 也由西置 宝永六己丑(1709)歳佛生日 堀川住筑後大掾常味作」の刻印がある。
宝永二年であるが、同名作者の鉦が滋賀県草津市芦浦町観音寺に併設する安国寺にあるそうだ。
なお、同名作者の鉦は天和二年(1683)から享保十九年(1734)ごろまであるらしい。
京都で活動していた鋳物師は数々。
そのうちの一人であるが、50年間もの期間に亘っていることから名代を継いできた鋳物師だったことが伺える。
およそ30人もの檀家衆で席は埋まった。
男性は7人。
圧倒的に多い女性に囲まれた。
始まりの合図に鐘を連打で打つ。
安置する本尊、脇仏にローソク火を灯す。
そして、線香も火を点けてくゆらす。
正面、ご本尊さんの前に掲げた来迎図。
住職が云うにはそれほど古くはないという中央が本尊の天徳如来の十一尊来迎図。
本尊の周りに十尊の姿を配置する。
掛図を納めた御箱も丁寧に奉られる。
二つあるのはもう一つが阿弥陀さんの掛図。
たまに虫干しをするというから一度は拝見してみたくなる。
鐘はもう一度打ち鳴らしたら住職の入堂である。
唱えるお念仏が始まって間もないころから焼香が動いた。
廻ってきたら焼香して手を合わす。
両手にそれぞれもつ撞木。
その両手で同時に打つ伏せ鉦の音色が堂内に響く。
そして、回向。
先祖代々の回向。
回向する先祖さんを詠みあげる。
数えていたが途中で諦めたくらいに多い。
午後7時から始まった十夜の法会はおよそ1時間。
融通念仏勤行のお念仏は香偈、礼文、三礼、懺悔、三帰、七仏通戒、総願、別願、十念、開経偈、真身観文、光明文、別回向・・・。
ゆったりとした時間が流れる。
仏餉献上された人たちの名前も詠みあげてご本尊に献上する。
ローソクもお供えなども献上者の人数は多い。
そして般若心経。
五穀豊穣、交通安全なども祈願されて、住職の法話。
ほぼ2時間の十夜は〆に心込めて作った。
ササゲ豆で作った小豆粥をよばれる。
ササゲ豆の色は赤色。
粥も赤い色。
赤は魔除けの色という中国古来のより伝わる食べ物。
これを十夜粥と呼ぶそうだ。
法会の片づけをして本堂に設えた長机。
人数いっぱいが座れるように設営できたら炊事場から急いで運ぶ。
大鍋いっぱいにあるササゲ豆の小豆粥をすくって椀にいれる。
手早く椀にいれては本堂に運ぶ。
漬物ではないが、ダイコンを千切りして作った和え物が小豆粥とマッチしてとても美味しい。
「何杯も食べてや」と云われるが、我が家に帰れば晩飯もある。
少しだけと思いつついただいたらお腹は満腹になってしもた。
食べていた場所におられた4人の婦人は楢町ではなく奈良市の窪之庄だった。
こちらに来られたのは、大和郡山市の井戸野町も関係するが、住職が寺応援している奈良市の窪之庄町行事でお世話になっている窪之庄町の檀家さんだった。
檀家さんと共通する話題といえば窪之庄で田植え作業を取材させてもらったH家である。
奥さんは大好きな写真撮り。
コンテストにも応募されて数々の入選作がある。
そういえばHさんの名前を記した農具があった。
窪之庄でもなく楢町でもない。
東山中になる室生の染田である。
農鍛冶師が注文を受けた数々の農具の中にHさんの名前があった。
タケノコ掘りの道具であった。
そこでまさかの出会いもあれば、楢町興願寺で出合った婦人はH婦人のお友達。
ご主人もよく存じてというから世の中狭いものだと思った。
(H28.11. 8 EOS40D撮影)