例年行われている題目立の演目は「厳島」だった奈良市都祁上深川の八柱神社の宵宮祭り。
安芸の国の厳島を訪れた平清盛が弁財天から「節刀」という天下を治める長刀を授けられる語りもの。
氏神さんのゾーク(造営)があるときに奉納される演目で三年間奉納され続ける。
「厳島」を荘厳して供養するといった祝言の意味がある。
平成4年、6年に大仏供養を奉納されてからは専ら厳島の演目であった。
上演時間はおよそ1時間40分。
演者が立ったまま語りをすすめる厳島は長丁場の演目だ。
ところが久しぶりにこの年に行われた「大仏供養」はもっと長い曲だ。
2時間を超えて語る大仏供養は二十六番の厳島に比べて本文の長さがかなりある。
平家の残党である平景清が東大寺の大仏供養に下向した源頼朝の命を狙ったが、三度ともしくじって果たせなかったという語りものである。
大仏供養に登場する人物は(源)頼朝、梶原平蔵、はたけやま(畠山)、和田の吉盛、ほうせう(北条)、泉の小次郎、井原佐衛門、佐々木四郎、(平)景清の9人。
曲目といえば、とふ(どう)音に頼朝と梶原の入句を入れて三十八番まである。
ちなみに登場する語りの数が一番多いのがはたけやまで8曲。
次が景清の7曲。
その次は5曲の泉の小次郎で、3曲の梶原平蔵、和田の吉盛、ほうせう、井原佐衛門。
2曲が頼朝と佐々木四郎である。
ベテランは何度も登場するが入りたての若者は数曲。
とはいっても頼朝や梶原平蔵の台詞が長い。
短い台詞の3倍もある。
佐々木四郎もそうだ。
はたけやまと景清なんぞは曲数も多いし長丁場の語りもこなす。
「みちびき」の歌を歌いながら楽屋の元薬寺を出た若者たち。
弓を手にした姿は立烏帽子を被ったソー衣装。
ソーは素襖小袴だ。
上着の白い筋は肩に沿って両袖口の特徴ある衣装で、烏帽子下には白い細長鉢巻で押さえ後ろで結ぶ。
結び残りは背中まで垂らしている。
足は白足袋に草履を履いている。
ただ、頼朝の装束だけは皆と異なる。
麻地に水色の小紋が入った素襖小袴である。
竹柵で囲った舞台に入場する演者たち。
先頭はローソクに火を持つ長老だ。
演者が所定の位置について長老は奉燃八王子大明神と記された燈籠にみちびきの火を遷す。
氏神さんに向かって拝礼。
すぐさま白衣浄衣姿の番帳さしと呼ばれる呼出役から「一番、頼朝」と声が掛った。
「わーれーはこれー せぇーいーわーてーんのうのー じゅぅだーいーなーりー・・・」と長丁場の演目が始まった。
場を清めるような謡いぶりだ。
耳を澄ませなくとも大きな謡いの声が奉納されていく。
一番、二番、三番だけでも15分かかる長回しの台詞に息をひそめる。
題目立の起源は明らかになっていないが、保存されている題目立「大仏供養」の一冊にある「番長并立所」によれば「享保十八年(1733)二月吉日、古本之三通者及百九年見ヘ兼亦ハ堅かなにて読にくきとて御望故今ひらかなにて直置申候御稽古のためともなら・・・云々」とある。
元薬寺の僧であった野州沙門教智寛海の筆による記述から享保十八年を遡ること寛永元年(1624)ごろには古本が三通(厳島、大仏供養、石橋山であろう)あり、江戸時代初期には題目立が演じられていたと思われる。
その本は稽古のためにカタカナからひらがなに書き改めたのであった。
独特の台詞回しの祭後も特徴がある。
例えば一番頼朝の「・・・こーとーことくもーーようし そうーろうえやー やっ」に二番梶原平蔵の「・・・じゅうーろーくーまん はーせんきーにーて そうろうなりぃ いっ」と気合が入った言葉が付く。
それはその番の終わりを示す言葉尻であろうか、それを聞いて次の三番はたけやまが謡い始める。
こうして延々と謡い続けた大仏供養は既に2時間も経っていたころ。
三十七番に続いて演じられるふしょ舞は「そーよーやーよろこびに そーよーやーよろこびに よろこびに またよろこびをかさぬれば もんどに やりきに やりこどんど」の目出度い台詞の「よろこび歌」に合わせて所作をする。
これまでは延々と「静」かなる所作だった。
動きといえば口だけだ。
真正面を見据えて謡う演者たち。
それが、唯一動きがあるふしょ舞に転じる。
扇を手にした和田の吉盛が舞台に移動する。
手を広げて動き出す。
持った扇を広げて上方に差し出す。
上体も反らして顔は天に届くような所作を繰り返す。
それを終えて最後の三十八番は入句。
祝言の唱和は全員で「・・・あっぱれーめんでー たーかりけるはー とうしやのみよにてー とどめたーり」と。
そして長老のみちびきですべての演目を終えた演者は再び元薬寺に戻っていった。
宵宮はこのあと直会に移る。
演者を慰労する場でもある。
席についた男子の顔つき昨夜と違っていた。
昨夜のナラシではまだ不安な表情だった演者たち。
一夜にして大役をこなし自信に溢れた表情になった。
演目をやりきった成(青)年男子の顔つきは室町時代から続く伝統行事を繋ぐ一員でもあった。
満月の夜はこうして終えた題目立。
「石橋山」は百年前の明治時代に演じていない。
演じた人がいなくなり、それを知る人もない幻の曲となっている。
八柱神社には座講、氏神講、オトナ講と呼ばれる家筋からなる宮座があった。
数え17歳になり、名付けと呼ばれる座入り(村入りとも)を経て奉納してきた題目立。
かつては家筋の長男がそれを演じていた。
その後の明治21年ころには村座に改められて村人すべてが座につくようになった。
(H23.10.12 EOS40D撮影)
安芸の国の厳島を訪れた平清盛が弁財天から「節刀」という天下を治める長刀を授けられる語りもの。
氏神さんのゾーク(造営)があるときに奉納される演目で三年間奉納され続ける。
「厳島」を荘厳して供養するといった祝言の意味がある。
平成4年、6年に大仏供養を奉納されてからは専ら厳島の演目であった。
上演時間はおよそ1時間40分。
演者が立ったまま語りをすすめる厳島は長丁場の演目だ。
ところが久しぶりにこの年に行われた「大仏供養」はもっと長い曲だ。
2時間を超えて語る大仏供養は二十六番の厳島に比べて本文の長さがかなりある。
平家の残党である平景清が東大寺の大仏供養に下向した源頼朝の命を狙ったが、三度ともしくじって果たせなかったという語りものである。
大仏供養に登場する人物は(源)頼朝、梶原平蔵、はたけやま(畠山)、和田の吉盛、ほうせう(北条)、泉の小次郎、井原佐衛門、佐々木四郎、(平)景清の9人。
曲目といえば、とふ(どう)音に頼朝と梶原の入句を入れて三十八番まである。
ちなみに登場する語りの数が一番多いのがはたけやまで8曲。
次が景清の7曲。
その次は5曲の泉の小次郎で、3曲の梶原平蔵、和田の吉盛、ほうせう、井原佐衛門。
2曲が頼朝と佐々木四郎である。
ベテランは何度も登場するが入りたての若者は数曲。
とはいっても頼朝や梶原平蔵の台詞が長い。
短い台詞の3倍もある。
佐々木四郎もそうだ。
はたけやまと景清なんぞは曲数も多いし長丁場の語りもこなす。
「みちびき」の歌を歌いながら楽屋の元薬寺を出た若者たち。
弓を手にした姿は立烏帽子を被ったソー衣装。
ソーは素襖小袴だ。
上着の白い筋は肩に沿って両袖口の特徴ある衣装で、烏帽子下には白い細長鉢巻で押さえ後ろで結ぶ。
結び残りは背中まで垂らしている。
足は白足袋に草履を履いている。
ただ、頼朝の装束だけは皆と異なる。
麻地に水色の小紋が入った素襖小袴である。
竹柵で囲った舞台に入場する演者たち。
先頭はローソクに火を持つ長老だ。
演者が所定の位置について長老は奉燃八王子大明神と記された燈籠にみちびきの火を遷す。
氏神さんに向かって拝礼。
すぐさま白衣浄衣姿の番帳さしと呼ばれる呼出役から「一番、頼朝」と声が掛った。
「わーれーはこれー せぇーいーわーてーんのうのー じゅぅだーいーなーりー・・・」と長丁場の演目が始まった。
場を清めるような謡いぶりだ。
耳を澄ませなくとも大きな謡いの声が奉納されていく。
一番、二番、三番だけでも15分かかる長回しの台詞に息をひそめる。
題目立の起源は明らかになっていないが、保存されている題目立「大仏供養」の一冊にある「番長并立所」によれば「享保十八年(1733)二月吉日、古本之三通者及百九年見ヘ兼亦ハ堅かなにて読にくきとて御望故今ひらかなにて直置申候御稽古のためともなら・・・云々」とある。
元薬寺の僧であった野州沙門教智寛海の筆による記述から享保十八年を遡ること寛永元年(1624)ごろには古本が三通(厳島、大仏供養、石橋山であろう)あり、江戸時代初期には題目立が演じられていたと思われる。
その本は稽古のためにカタカナからひらがなに書き改めたのであった。
独特の台詞回しの祭後も特徴がある。
例えば一番頼朝の「・・・こーとーことくもーーようし そうーろうえやー やっ」に二番梶原平蔵の「・・・じゅうーろーくーまん はーせんきーにーて そうろうなりぃ いっ」と気合が入った言葉が付く。
それはその番の終わりを示す言葉尻であろうか、それを聞いて次の三番はたけやまが謡い始める。
こうして延々と謡い続けた大仏供養は既に2時間も経っていたころ。
三十七番に続いて演じられるふしょ舞は「そーよーやーよろこびに そーよーやーよろこびに よろこびに またよろこびをかさぬれば もんどに やりきに やりこどんど」の目出度い台詞の「よろこび歌」に合わせて所作をする。
これまでは延々と「静」かなる所作だった。
動きといえば口だけだ。
真正面を見据えて謡う演者たち。
それが、唯一動きがあるふしょ舞に転じる。
扇を手にした和田の吉盛が舞台に移動する。
手を広げて動き出す。
持った扇を広げて上方に差し出す。
上体も反らして顔は天に届くような所作を繰り返す。
それを終えて最後の三十八番は入句。
祝言の唱和は全員で「・・・あっぱれーめんでー たーかりけるはー とうしやのみよにてー とどめたーり」と。
そして長老のみちびきですべての演目を終えた演者は再び元薬寺に戻っていった。
宵宮はこのあと直会に移る。
演者を慰労する場でもある。
席についた男子の顔つき昨夜と違っていた。
昨夜のナラシではまだ不安な表情だった演者たち。
一夜にして大役をこなし自信に溢れた表情になった。
演目をやりきった成(青)年男子の顔つきは室町時代から続く伝統行事を繋ぐ一員でもあった。
満月の夜はこうして終えた題目立。
「石橋山」は百年前の明治時代に演じていない。
演じた人がいなくなり、それを知る人もない幻の曲となっている。
八柱神社には座講、氏神講、オトナ講と呼ばれる家筋からなる宮座があった。
数え17歳になり、名付けと呼ばれる座入り(村入りとも)を経て奉納してきた題目立。
かつては家筋の長男がそれを演じていた。
その後の明治21年ころには村座に改められて村人すべてが座につくようになった。
(H23.10.12 EOS40D撮影)