奈良市南庄町に地蔵尊がある。
そこにはたくさんの木製の槌がある。
形の大きさ、長さ、太さがさまざま。
材もカシやヒノキのようだ。
ざっと数えただけでも215本。
地蔵堂には棚もあるからそこにも多数の木槌がある。
所狭しに並べた木槌は願掛けのお礼に奉納されたもの。
腰痛が治れば奉納する。
そういう言い伝えがあるから腰痛地蔵の名がある。
そのことを知ったのはずいぶん前のことだ。
南庄町の行事を始めて取材した日は平成16年の12月31日。
大晦日の日に村総出で結った勧請縄を神社下の鳥居付近にある大杉にかける。
取材した日は特になんでもなかった日だった。
午前中いっぱいかけて結った勧請縄は見事な形になった。
そうこうしているうちに雪が降りだした。
降り積もった雪はまたたく間に風景を真っ白にした。
道路はとてもじゃないが走れそうにない。
半端な量に積もった雪は道路を塞ぐ。
しばらく待ってもやみそうにもない。
仕方なく村に滞在した。
雪はやんだが解けることもない。
焦った。
車のタイヤはノーマルタイヤ。
とてもじゃないが走れない。
夕方になろうとする時間までには動きたい。
道路はなんとか走っていったタイヤの重みで轍が解けている。
なんとかなるだろうと車を走らせた。
実際は走るという感覚でなくトロトロ坂道の道路はカーブもある。
周りが樹木のところは解けが少ない。
何カ所かで見た放置の車。
一旦、止まれば再び動くことのない車は崖側に放置。
そんな様子を見ながらトロトロ。
川上町辺りに来たときはほっとしたもんだ。
その年以降はいつ降るやもしれない雪にスタッドレスタイヤを入れ替えることになった自然の恐怖日だった。
それはともかく久しぶりに目にする南庄町の腰痛地蔵。
もしや、この日であるかもと思ってやってきた。
村の人たちは清掃を終えて腰痛地蔵を祭っている地蔵堂の付属建物内で寛いでいた。
取材したい旨を伝えて撮らせてもらう。
本来は7月24日であった腰痛地蔵の地蔵祭り。
祭りと云っても行事にはそもそも名前がないから敢えてこう呼ばしてもらう。
南庄町は上、中、下の3垣内。
かつて24戸の村であったが、現在は22戸。
それぞれの垣内が毎年交替されて地蔵尊に奉納されている木槌は一本、一本取り出して清掃する。
午後のある時間にすべての木槌を取り出して埃を取り去る。
汚れは水道水にシャワー刷毛で洗う。
その場は膝裏に延久四年(1072)奉始造・佛師越前國僧定法などの墨書銘がある県指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置する公民館。
かつてお寺があったというから調べてみればおそらく廃寺となった常福寺であるかも知れない。
回収した木槌はすべてを戻すのではなく、申しわけないが撤去するものもある。
と、いうのも奉納、奉納とくれば場をとることになる。
溢れてしまうことになる。
一年間も経てばそうなる。
とにかく増え続ける奉納の木槌は古いものは選別されて撤去しているという。
そういうわけがあって木槌は元の位置には戻らない。
実は木槌の形を形成していないものもある。
それは亜流の木槌になるそうだ。
本来の木槌はヨコツチ。
木槌はワラウチ(藁打ち)に使われるヨコツチの形である。
ちなみにお話を伺った南庄町の人たちは木槌と呼ばずにツチノコと称していた。
これらは南庄町の人たちが奉納されたものでなく、奈良市内、生駒市、大和高田市の人たちである。
7、8年前に寄進された紺地の幕を見ればわかるが、寄進者の名の他に「高田市」の糸文字があることや、奉納したツチノコにもどこそこの地名が書かれていた。
洗っていれば目につく在所の地名でわかったそうだ。
ローソクや線香に火を点けて参拝者を迎える。
私が訪問した時間帯は午後5時を過ぎていた。
それより1時間前ぐらいから参拝者を待っている。
もう1時間もすれば終えるという。
そのころにやってきた参拝者は村の女性。
時間の都合がとれなくて遅れたと云う。
お参りを済ませば当番垣内の人がお下がりのお菓子を手渡す。
丁重なお礼に頭を下げた婦人が走り去ったあともお参りがあった。
保育園に通っている我が子を迎えに出かけた母親が戻ってきた。
車から降りてすぐさま地蔵さんに駆け寄る二人の女児は手を合わせて拝む。
お菓子がもらえるから拝んでいるようには見えない女児の参拝。
たぶんにいつもそうしている自然体の参拝に感動する。
昔の昔は地蔵さんに呼び名はなかっただろう。
いつしか慣例が発生したことによって呼び名がついたと思われる腰痛地蔵。
腰痛になった人がいた。
この地蔵尊にあった1本のツチノコ(木槌)を家に持ち帰った。
持って帰った木槌を痛みがあった腰をトントンと打って叩いた。
すぐに効果がでるものではなかったが、何日も続けていた身内のおばあさんが治ったという。
こりゃご利益があったのだと新しいツチノコを作って地蔵さんに奉納した。
どれぐらいの間があるのかわからないが、何べんもそうしていると若い女性がお参りに来た。
そういう効果があると聞いて同じように持ち帰って腰をトントンと叩いていたら治った。
そういうことから始まった願満のお礼。
時代は不明であるが、願掛けで治ったというありがたい地蔵さん。
ご利益があったと伝わって広まったものと考えられる民間信仰。
洗うのも処分するのもたいへんであるが、信心する人たちのご利益に貢献できるのが嬉しいと当番垣内の人が話す。
この日の行事を終えた当番垣内の人は幕や地蔵さんに着せた涎掛けは次の垣内に廻すという。
なお、前述した勧請縄掛けの行事日は大晦日ではなくなったという。
4、5年前になにかと忙しい大晦日を外してその直前の日曜。
つまり12月の最終日曜日に移したという。
(H28. 7.18 EOS40D撮影)
そこにはたくさんの木製の槌がある。
形の大きさ、長さ、太さがさまざま。
材もカシやヒノキのようだ。
ざっと数えただけでも215本。
地蔵堂には棚もあるからそこにも多数の木槌がある。
所狭しに並べた木槌は願掛けのお礼に奉納されたもの。
腰痛が治れば奉納する。
そういう言い伝えがあるから腰痛地蔵の名がある。
そのことを知ったのはずいぶん前のことだ。
南庄町の行事を始めて取材した日は平成16年の12月31日。
大晦日の日に村総出で結った勧請縄を神社下の鳥居付近にある大杉にかける。
取材した日は特になんでもなかった日だった。
午前中いっぱいかけて結った勧請縄は見事な形になった。
そうこうしているうちに雪が降りだした。
降り積もった雪はまたたく間に風景を真っ白にした。
道路はとてもじゃないが走れそうにない。
半端な量に積もった雪は道路を塞ぐ。
しばらく待ってもやみそうにもない。
仕方なく村に滞在した。
雪はやんだが解けることもない。
焦った。
車のタイヤはノーマルタイヤ。
とてもじゃないが走れない。
夕方になろうとする時間までには動きたい。
道路はなんとか走っていったタイヤの重みで轍が解けている。
なんとかなるだろうと車を走らせた。
実際は走るという感覚でなくトロトロ坂道の道路はカーブもある。
周りが樹木のところは解けが少ない。
何カ所かで見た放置の車。
一旦、止まれば再び動くことのない車は崖側に放置。
そんな様子を見ながらトロトロ。
川上町辺りに来たときはほっとしたもんだ。
その年以降はいつ降るやもしれない雪にスタッドレスタイヤを入れ替えることになった自然の恐怖日だった。
それはともかく久しぶりに目にする南庄町の腰痛地蔵。
もしや、この日であるかもと思ってやってきた。
村の人たちは清掃を終えて腰痛地蔵を祭っている地蔵堂の付属建物内で寛いでいた。
取材したい旨を伝えて撮らせてもらう。
本来は7月24日であった腰痛地蔵の地蔵祭り。
祭りと云っても行事にはそもそも名前がないから敢えてこう呼ばしてもらう。
南庄町は上、中、下の3垣内。
かつて24戸の村であったが、現在は22戸。
それぞれの垣内が毎年交替されて地蔵尊に奉納されている木槌は一本、一本取り出して清掃する。
午後のある時間にすべての木槌を取り出して埃を取り去る。
汚れは水道水にシャワー刷毛で洗う。
その場は膝裏に延久四年(1072)奉始造・佛師越前國僧定法などの墨書銘がある県指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置する公民館。
かつてお寺があったというから調べてみればおそらく廃寺となった常福寺であるかも知れない。
回収した木槌はすべてを戻すのではなく、申しわけないが撤去するものもある。
と、いうのも奉納、奉納とくれば場をとることになる。
溢れてしまうことになる。
一年間も経てばそうなる。
とにかく増え続ける奉納の木槌は古いものは選別されて撤去しているという。
そういうわけがあって木槌は元の位置には戻らない。
実は木槌の形を形成していないものもある。
それは亜流の木槌になるそうだ。
本来の木槌はヨコツチ。
木槌はワラウチ(藁打ち)に使われるヨコツチの形である。
ちなみにお話を伺った南庄町の人たちは木槌と呼ばずにツチノコと称していた。
これらは南庄町の人たちが奉納されたものでなく、奈良市内、生駒市、大和高田市の人たちである。
7、8年前に寄進された紺地の幕を見ればわかるが、寄進者の名の他に「高田市」の糸文字があることや、奉納したツチノコにもどこそこの地名が書かれていた。
洗っていれば目につく在所の地名でわかったそうだ。
ローソクや線香に火を点けて参拝者を迎える。
私が訪問した時間帯は午後5時を過ぎていた。
それより1時間前ぐらいから参拝者を待っている。
もう1時間もすれば終えるという。
そのころにやってきた参拝者は村の女性。
時間の都合がとれなくて遅れたと云う。
お参りを済ませば当番垣内の人がお下がりのお菓子を手渡す。
丁重なお礼に頭を下げた婦人が走り去ったあともお参りがあった。
保育園に通っている我が子を迎えに出かけた母親が戻ってきた。
車から降りてすぐさま地蔵さんに駆け寄る二人の女児は手を合わせて拝む。
お菓子がもらえるから拝んでいるようには見えない女児の参拝。
たぶんにいつもそうしている自然体の参拝に感動する。
昔の昔は地蔵さんに呼び名はなかっただろう。
いつしか慣例が発生したことによって呼び名がついたと思われる腰痛地蔵。
腰痛になった人がいた。
この地蔵尊にあった1本のツチノコ(木槌)を家に持ち帰った。
持って帰った木槌を痛みがあった腰をトントンと打って叩いた。
すぐに効果がでるものではなかったが、何日も続けていた身内のおばあさんが治ったという。
こりゃご利益があったのだと新しいツチノコを作って地蔵さんに奉納した。
どれぐらいの間があるのかわからないが、何べんもそうしていると若い女性がお参りに来た。
そういう効果があると聞いて同じように持ち帰って腰をトントンと叩いていたら治った。
そういうことから始まった願満のお礼。
時代は不明であるが、願掛けで治ったというありがたい地蔵さん。
ご利益があったと伝わって広まったものと考えられる民間信仰。
洗うのも処分するのもたいへんであるが、信心する人たちのご利益に貢献できるのが嬉しいと当番垣内の人が話す。
この日の行事を終えた当番垣内の人は幕や地蔵さんに着せた涎掛けは次の垣内に廻すという。
なお、前述した勧請縄掛けの行事日は大晦日ではなくなったという。
4、5年前になにかと忙しい大晦日を外してその直前の日曜。
つまり12月の最終日曜日に移したという。
(H28. 7.18 EOS40D撮影)