この日の前日、夜間。
なにかを感じた胸騒ぎ。
大和郡山市内の年中行事はあらかた調べてきた。
特に、留意していた年末年始の習俗。
ひとつは、市内に今でも数カ所で行われていた砂の道撒きや砂もち習俗。
正月の前日。夕刻に近い時間帯に行われる砂撒き、砂もち。
氏神社の本殿から砂を撒き、線を引くように砂を盛る。
その砂の道は、氏子たちの家の玄関まで続く砂の道つくり。
大晦日に仕立てる砂の道は、神さんへの導きしるべ。
あくまでしるべであり、氏子が歩くのはその砂の道の沿って出かける初詣で、あり砂の道は、また氏神さんが、我が家にやってくる、いわゆる年神さんを導く砂の道。
もう一つは、神社の鳥居などにかけるしめ縄である。
お家、それぞれもしめ縄をかけ、年神を迎えるしるしでもある。
そのしめ縄の形態である。
市中に売られているしめ縄のカタチでなく、七・五・三を連続的に詰めてカタチづくる簾のように見えるしめ縄。
地区によっては、名称が異なるそのしめ縄。
見た目のカタチから、私は簾型のしめ縄と仮称してきた。
と、いうのも、その存在を調べた結果、さまざまな呼び名がわかってきた。
民俗語彙から、ひとつ。
その簾型しめ縄を、ドウガイ或いはゾウガイと呼ぶ地域があった。
安永九年(1780)・文政三年(1820)・十一年(1828)古文書に記載されていた名称。
その文字は「どをがゑ」。
今もなお、その名のしめ縄をかけている地区は、大和郡山市内内でなく、南に隣接する天理市荒蒔に鎮座する勝手神社。
年中行事取材の際に拝見した『荒蒔村宮座営帳(※控え)』に記載されていた「どをがゑ」文字。
読み名は「どうがい」である。
何十件も読み名を調べてわかったことは、他の地区では古文書にまで及ばず、長老らの記憶にあるしめ縄名称である。
ちなみに参考にしたいドウガイ名称がある春日大社。
記録によると、文久二年(1862)に記された中臣祐興記す『春日大社日記』にドウガイの文字があるようだ。
ドウガイの読み名がある地域に、大和郡山市の白土町、櫟枝町、横田町・柳生地区があり、ゾウガイ読み名は、同じく大和郡山市の白土町に。
地区住民によって異なる読み名。
長老が申していたドウガイ名称が、おそらく人から人へ伝わる際に、「ド」が「ゾ」に訛ったのであろう。
訛りかたは人それぞれに発生するものと考える。
私が聞き取り調査した範囲内であるが、ドウガイ・ゾウガイから派生したと想定される「オウガイ」、「ドウガン」、「ドンガン」、「ドンガ」があった。
また、そういった読み名でなく、「オシメサン」や「オオシメナワ」。
或いは単に「シメナワ」と称する人もおられる。
大和郡山市外の奈良市佐紀町門外釣殿神社の元氏子が話してくれた「ゾウガイ」も気になる簾型しめ縄の名称。
調査に見つかった地域は、田原本町、斑鳩町の他、大和高原にあたる旧都祁村。
現在は奈良市の東部山間の都祁の町の一部の地域(※南之庄・小山戸)に見られる簾型しめ縄が継承されてきた。
さて、今日の本題は下三橋町に鎮座する風神社の簾型しめ縄である。
この日に訪れた風神社にかけていたしめ縄が様変わり。
平成31年の1月4日に拝見した簾型しめ縄から一般的に見るしめ縄に移っていた。
コロナ禍における対応なのかわからないが、同様の措置をしている事例は増えつつある。
横田町・柳生垣内しかり、横田町・本村の神社も簾型しめ縄だった。
横田町から南。
新庄町・本村もかつては「ムカデ」と呼んでいた簾型しめ縄があった。
そこから東、北の馬司町(※まっさか)もあれば、一旦は廃れたものの復活。
そして再び消滅した今国府町の事例もあるここ数年の動き。
大和郡山に多くみられた簾型しめ縄が、今や壊滅的状況にきている。
その要因は、作付け・栽培していたもち米をつくっていた家が継承されなかったことが大きい。
しめ縄の原材料は稲藁でなく、もち米の藁。
つまり、しなりがあり、縄結いしやすいもち藁の減少による。
また、簾型しめ縄の度合になる竹不足。竹林の伐採も影響しているやに聞く。
こういった状況は、なにも大和郡山に限ったことではない。
また、地域文化を継ぐ者の声もなく中断した、と思われる小林町、発志院町も・・・
(R3.12.27 SB805SH 撮影)
なにかを感じた胸騒ぎ。
大和郡山市内の年中行事はあらかた調べてきた。
特に、留意していた年末年始の習俗。
ひとつは、市内に今でも数カ所で行われていた砂の道撒きや砂もち習俗。
正月の前日。夕刻に近い時間帯に行われる砂撒き、砂もち。
氏神社の本殿から砂を撒き、線を引くように砂を盛る。
その砂の道は、氏子たちの家の玄関まで続く砂の道つくり。
大晦日に仕立てる砂の道は、神さんへの導きしるべ。
あくまでしるべであり、氏子が歩くのはその砂の道の沿って出かける初詣で、あり砂の道は、また氏神さんが、我が家にやってくる、いわゆる年神さんを導く砂の道。
もう一つは、神社の鳥居などにかけるしめ縄である。
お家、それぞれもしめ縄をかけ、年神を迎えるしるしでもある。
そのしめ縄の形態である。
市中に売られているしめ縄のカタチでなく、七・五・三を連続的に詰めてカタチづくる簾のように見えるしめ縄。
地区によっては、名称が異なるそのしめ縄。
見た目のカタチから、私は簾型のしめ縄と仮称してきた。
と、いうのも、その存在を調べた結果、さまざまな呼び名がわかってきた。
民俗語彙から、ひとつ。
その簾型しめ縄を、ドウガイ或いはゾウガイと呼ぶ地域があった。
安永九年(1780)・文政三年(1820)・十一年(1828)古文書に記載されていた名称。
その文字は「どをがゑ」。
今もなお、その名のしめ縄をかけている地区は、大和郡山市内内でなく、南に隣接する天理市荒蒔に鎮座する勝手神社。
年中行事取材の際に拝見した『荒蒔村宮座営帳(※控え)』に記載されていた「どをがゑ」文字。
読み名は「どうがい」である。
何十件も読み名を調べてわかったことは、他の地区では古文書にまで及ばず、長老らの記憶にあるしめ縄名称である。
ちなみに参考にしたいドウガイ名称がある春日大社。
記録によると、文久二年(1862)に記された中臣祐興記す『春日大社日記』にドウガイの文字があるようだ。
ドウガイの読み名がある地域に、大和郡山市の白土町、櫟枝町、横田町・柳生地区があり、ゾウガイ読み名は、同じく大和郡山市の白土町に。
地区住民によって異なる読み名。
長老が申していたドウガイ名称が、おそらく人から人へ伝わる際に、「ド」が「ゾ」に訛ったのであろう。
訛りかたは人それぞれに発生するものと考える。
私が聞き取り調査した範囲内であるが、ドウガイ・ゾウガイから派生したと想定される「オウガイ」、「ドウガン」、「ドンガン」、「ドンガ」があった。
また、そういった読み名でなく、「オシメサン」や「オオシメナワ」。
或いは単に「シメナワ」と称する人もおられる。
大和郡山市外の奈良市佐紀町門外釣殿神社の元氏子が話してくれた「ゾウガイ」も気になる簾型しめ縄の名称。
調査に見つかった地域は、田原本町、斑鳩町の他、大和高原にあたる旧都祁村。
現在は奈良市の東部山間の都祁の町の一部の地域(※南之庄・小山戸)に見られる簾型しめ縄が継承されてきた。
さて、今日の本題は下三橋町に鎮座する風神社の簾型しめ縄である。
この日に訪れた風神社にかけていたしめ縄が様変わり。
平成31年の1月4日に拝見した簾型しめ縄から一般的に見るしめ縄に移っていた。
コロナ禍における対応なのかわからないが、同様の措置をしている事例は増えつつある。
横田町・柳生垣内しかり、横田町・本村の神社も簾型しめ縄だった。
横田町から南。
新庄町・本村もかつては「ムカデ」と呼んでいた簾型しめ縄があった。
そこから東、北の馬司町(※まっさか)もあれば、一旦は廃れたものの復活。
そして再び消滅した今国府町の事例もあるここ数年の動き。
大和郡山に多くみられた簾型しめ縄が、今や壊滅的状況にきている。
その要因は、作付け・栽培していたもち米をつくっていた家が継承されなかったことが大きい。
しめ縄の原材料は稲藁でなく、もち米の藁。
つまり、しなりがあり、縄結いしやすいもち藁の減少による。
また、簾型しめ縄の度合になる竹不足。竹林の伐採も影響しているやに聞く。
こういった状況は、なにも大和郡山に限ったことではない。
また、地域文化を継ぐ者の声もなく中断した、と思われる小林町、発志院町も・・・
(R3.12.27 SB805SH 撮影)