平成4年3月6日に県指定された菅生のおかげ踊り。
2週間後に迫った芸能大会の披露に最後の練習が始まった。
平成8年に三重県紀伊長島で披露された大会のビデオ記録を見て当時を懐かしむ。
あれから15年も経った。
当時出演していた人たちも15年前の映像で歳月を確かめる。
それからは若い人も加わっておかげ踊りを続けてきた保存会。
後継者も力がついてきたのでそろそろ引退する時期がきたと話す婦人も目を細めて映像を見る。
これを見るのは舞台演出だ。
かつての映像には「ヤマ」も「旗」もあった。
おかげ踊りは、代参を終えた伊勢講が戻ってきたときにヤドの家でそれを祝って踊っていた。
そのヤドでは出発する際に「ヤマ」を作って代参を見送っていた。
戻ってきたときにもてなして酒を酌み交わす。
仮装の衣装を着てオドリコミをしていたのである。
輪になって踊りこんだという。
その人数は座敷に入ることができないくらい大勢いだったから溢れた踊り子は「カド」で踊ったそうだ。
その「ヤマ」を舞台で演出しようというのである。
15年前、それを勤める男性たちは登場していない。
そういうわけでビデオ映像を確認されたのである。
当時の仕掛は台車を土台に使っていた。
それを白い布で覆って「ヤマ」に見立てた。
踊りの練習をしている間は設計図作り。
装飾にも拘る設計図だ。
旗といえば赤い布。
竹に取り付けた旗には「奈良県無形民俗文化財 菅生おかげ踊り保存会」の文字がみえる。
手作りの旗に胸がときめく。
踊り子たちは舞台袖にたつ。
舞台の関係上、二手に分かれて登場するという想定で始まった予行の練習。
まずは舞台に置かれた「ヤマ」に向かって伊勢代参の男性たちが参拝をする。
神事と同じように2礼2拍手に1礼だ。
そして始まったおかげ踊り。
囃子の唄い手は三人に太鼓打ちがドン、ドンと叩くリズムが心地よい。
「アーヨイサー お陰阿波から ヨイセ、コラセー 踊りはー河内 アーヨーイセー コラセー せんぎょ(ナヤー) 初めはヨイリャ 大和から ササヤートコ セイノヨイヤナ コリャ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデモーセー」の1番歌に続いて2番、3番と舞う踊りはシナイを右手でもって左手で支え、振り回すように踊る。
そして、4番の囃子を終えたときに扇に持ち替える。
そのとき、シナイは背中に挿す。
両手が空いて二枚の扇で舞い踊る。
優雅な踊りに拍手喝采する。
踊り終えると唄い手が口上を述べられた。
それを受けて踊り子が語った口上は「誉めて貰ったら、そのお礼の向上もするのです」という。
その年ごとに異なる口上。
「なにを述べるのか4年ごとに考えた」と話す唄い手の一人。
「おまんは上手いこと言うな」と考えた口上には「花づくし」や「お茶づくし」、「松づくし」、「青ものづくし」などで目出度い言葉が散りばめられているそうだ。
その口上の一部が残っていると話す太鼓打ちのUさん。
菅生の記録を整理して残さねばと話す。
そのUさんが所属しているのが隣村の春日で奉納されている申祭りの能狂言者。
菅生の春楽社の一人である。
おかげ踊りの予行をされた集会センターで毎週火曜日に申祭りの練習をしているそうだ。
(H23.11.11 EOS40D撮影)
2週間後に迫った芸能大会の披露に最後の練習が始まった。
平成8年に三重県紀伊長島で披露された大会のビデオ記録を見て当時を懐かしむ。
あれから15年も経った。
当時出演していた人たちも15年前の映像で歳月を確かめる。
それからは若い人も加わっておかげ踊りを続けてきた保存会。
後継者も力がついてきたのでそろそろ引退する時期がきたと話す婦人も目を細めて映像を見る。
これを見るのは舞台演出だ。
かつての映像には「ヤマ」も「旗」もあった。
おかげ踊りは、代参を終えた伊勢講が戻ってきたときにヤドの家でそれを祝って踊っていた。
そのヤドでは出発する際に「ヤマ」を作って代参を見送っていた。
戻ってきたときにもてなして酒を酌み交わす。
仮装の衣装を着てオドリコミをしていたのである。
輪になって踊りこんだという。
その人数は座敷に入ることができないくらい大勢いだったから溢れた踊り子は「カド」で踊ったそうだ。
その「ヤマ」を舞台で演出しようというのである。
15年前、それを勤める男性たちは登場していない。
そういうわけでビデオ映像を確認されたのである。
当時の仕掛は台車を土台に使っていた。
それを白い布で覆って「ヤマ」に見立てた。
踊りの練習をしている間は設計図作り。
装飾にも拘る設計図だ。
旗といえば赤い布。
竹に取り付けた旗には「奈良県無形民俗文化財 菅生おかげ踊り保存会」の文字がみえる。
手作りの旗に胸がときめく。
踊り子たちは舞台袖にたつ。
舞台の関係上、二手に分かれて登場するという想定で始まった予行の練習。
まずは舞台に置かれた「ヤマ」に向かって伊勢代参の男性たちが参拝をする。
神事と同じように2礼2拍手に1礼だ。
そして始まったおかげ踊り。
囃子の唄い手は三人に太鼓打ちがドン、ドンと叩くリズムが心地よい。
「アーヨイサー お陰阿波から ヨイセ、コラセー 踊りはー河内 アーヨーイセー コラセー せんぎょ(ナヤー) 初めはヨイリャ 大和から ササヤートコ セイノヨイヤナ コリャ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデモーセー」の1番歌に続いて2番、3番と舞う踊りはシナイを右手でもって左手で支え、振り回すように踊る。
そして、4番の囃子を終えたときに扇に持ち替える。
そのとき、シナイは背中に挿す。
両手が空いて二枚の扇で舞い踊る。
優雅な踊りに拍手喝采する。
踊り終えると唄い手が口上を述べられた。
それを受けて踊り子が語った口上は「誉めて貰ったら、そのお礼の向上もするのです」という。
その年ごとに異なる口上。
「なにを述べるのか4年ごとに考えた」と話す唄い手の一人。
「おまんは上手いこと言うな」と考えた口上には「花づくし」や「お茶づくし」、「松づくし」、「青ものづくし」などで目出度い言葉が散りばめられているそうだ。
その口上の一部が残っていると話す太鼓打ちのUさん。
菅生の記録を整理して残さねばと話す。
そのUさんが所属しているのが隣村の春日で奉納されている申祭りの能狂言者。
菅生の春楽社の一人である。
おかげ踊りの予行をされた集会センターで毎週火曜日に申祭りの練習をしているそうだ。
(H23.11.11 EOS40D撮影)
地元の神社仏閣を中心とする民俗風習の紹介を続けられ、その根気に敬服します。
私も今年は300件を超えるブログを書き続けました。継続する事の困難性がよく理解できます。
2012年も頑張ってください。
いつも見てくださりありがとうございます。
続けていくことのたいへんさは地元の人がおられるからこそ現在もあるのではと思っています。
後世に継承する労力に感服する。
伺って話を聞く度にそう思うのです。
還暦の齢になった今年、いずれは私自身が終焉を迎えることになるでしょう。
健康である限り記録採訪に努めてまいりたいと思います。