心待ちにしていた特別展示会がはじまる。
展示会場は、奈良県立民俗博物館。
秋季特別展は、「絵と道具でたどる昔の奈良のくらし。明治末期から昭和初期の暮らしを数多く描いた、天理市福住町が出身の永井清繁さん(1905~1999)の作品を一挙公開する-永井清繁氏のスケッチ帖から-。
永井清繁さんが、生前に描き残した天理・福住の暮らしの民俗のスケッチ絵。
これまでも天理市文化センターや福住公民館、県立図書情報館で展示されてきたが、全作品が一堂に会するのは今回が初めてである。
今回は、さらに県立民俗博物館が、所蔵する多種多用途の民俗資料の中から、作品に登場する天理・福住の生活、生産用具をピックアップした作品と、所蔵民俗用具をコラボした展示。
所蔵民俗用具は、人とともに暮らしてきた実物資料の生活用具であるが、実際は、どのように使われてきたのか、そのあり方が、写実的に、また温もりをあるタッチの絵によって、福住に住んでいた人たちが、当時の暮らしや息づかいを、間近に生き生きと感じることができる展示である。
実は、私も県立民俗博物館の所蔵民俗用具の展示に協力をしたことがある。
私の場合は、絵でなく、現在を記録した写真映像である。
展示物品に、丁度見合う写真提供をお願いされて協力すること度々である。
尤も、私が撮る映像は、祭りや行事。
場合によったら習俗・風習にかかわる映像も・・。
また、農村に暮らす人々の映像もまた協力することはあるが、永井清繁氏が描き残したスケッチ帖には、到底及ばない現在進行形の民俗。
永井清繁氏が、描かれた年代とは比べようもない貴重なかつての暮らしの史料。
しかも、である。
生前に描いたスケッチ帖のすべてが、永井清繁氏が暮らしたころの記憶を辿って描かれた精巧、精緻な絵筆によるもの。
タッチに温かみがあるのは、永井清繁氏が、当時に暮らした生の映像であるからだろう。
秋季特別展の「絵と道具でたどる昔の奈良のくらし-永井清繁氏のスケッチ帖から-」展示期間は、令和元年の9月21日(土)から12月1日(日)までの3カ月間。・・・・・現在は終了しています
開催初日の21日は、開会式がある。
県立民俗博物館・企画展担当者にお願いして参列させてもらった開会式。
文部科学省平成29年度私立大学ブランディング事業に採択された「『帝塚山プラットフォーム』の構築による学際的『奈良学』研究の推進」の一環として、帝塚山大学と県立民俗博物館の共同実施。
スケッチ帖特別公開、体験イベントなどは、帝塚山大学が県立民俗博物館とコラボした特別展示イベントである。
館内入口にはいったすぐそこはエントランスホール。
併設する大和民俗公園内に設置した復元古民家10棟の解説パネルを立てていた。
開会式は、最奥になる特別企画展会場である。
帝塚山大学・文学部日本文化学科の高田照世教授が推進された天理市福住地区の民俗調査の研究成果に基づき、県立民俗博物館が所蔵されている昔の生活用具や民具に、福住町に生まれ育った永井清繁さんが、繊細なタッチで描いた往時の暮らし・行事などをパネル展示する企画展を楽しみに待っていた。
それというのも、前述したように発端は、福住公民館で行われた「福住の民俗画帖展示会」で拝見した画帖の一部に感動どころか、感銘を受けた作品群がきっかけ。
奈良県図書情報館で開催された「奈良学とのであい・山里に行き交う職人たち~永井清繁画帳から」も観覧し、これは、もう出版をお願いするしかない、とアンケートに、その気持ちを訴えた。
決してアンケートが矢を放ったわけではなく、高田照世教授の思い、そして永井清繁氏のご家族の気持ちがあってのこと。
展示パネルのもととなった永井清繁氏の描いた生活図を収録した『奈良山里の生活図誌 永井清繁画・解説(高田照世 編集)』は、帝塚山大学出版会から発刊されたのだ。
その情報を知って、直ちに購入に走ったのは、言うまでもない。
購入先は書店でなく、アマゾン・ドット・コム。
わくわくする読後感は、勢いがついて、レビュー文に仕立てて、アップした。
「これほど待ち望んでいた本はかつてない。期待とかいうレベルではない。なぜなら原画ではないが、それに近い絵を拝見していた展示会で願望していた『奈良山里の生活図誌』。暮らしていたその土地の民俗、習俗を画帳に記録した永井清繁氏。解説もあるからそれがなんであるのか、とても分かりやすい。
昭和どころか大正、いや場合によったら明治時代まで遡る可能性も秘めている「奈良山里の民俗」は大切な記録でもある。不要な部分も映っている写真よりも記憶に残りやすいシンプルな民俗画が素晴らしい。
記録照合にも活用できる優れものは、著者が昔に記憶した情報を思い出されて描いたという民俗誌。その記憶力もまたすごい」。
今、読み直しても、我ながら・・のレビュー文に、またまた頁をくりたくなる。
本体価格は、高価であるが、それ以上の値打ち、いや価値のある『奈良山里の生活図誌』である。
著者永井清繁氏のご家族、親族、孫さんも列席された開会式典。
企画展を主催する同博物館の東秀行館長に帝塚山大学学長の蓮花一己氏、2人の挨拶からはじまった。
「奈良は古都文化。1200年の歴史に人々の暮らしがある。身近にある葬送、建物、町並みは昔の暮らしを知る手がかり」、「一堂に会して展示するスケッチ画と収蔵の品々。暮らしを描いた絵から学ぶ収蔵民具から学ぶ特別展示・・・・」。
続いて、帝塚山大学出版会より刊行された『奈良山里の生活図誌』の贈呈式が行われた。
永井清繁氏の描いた生活図を収録した同書籍を、特別展示の見学に授業で訪れる小学校などの団体見学に、郷土教育、歴史教育の学習教材として活用されることを目的に寄贈。
なお、この時点で、社会見学を予約されているおよそ40校の県内小学校だけでなく、これから見学を決められる小学校にも対象を広げて寄贈されたそうだ。
地域文化の教育に、教えるのは、『奈良山里の生活図誌』に描かれた世界など、知る由もない現代教育で育った教師たち。
先に、学ばなければならないのは、教師では、と思うのだが・・。
ましてや、子どもたちの親も、見たことのない昭和のはじめから、それ以前の大正時代の暮らし。
想像できない親たちも、先に学ばないと・・・。
できることなら、『奈良山里の生活図誌』の頁を開いて、おじいちゃん、おばあちゃんたちが暮らしてきた実体験をもって、聞くことも大切ではないだろうか。
福住の暮らしは、大都会では味わえない、山間地の旧村文化。
伝承されてきた福住の祭り、行事、習俗、暮らしのすべてが詰まっている『奈良山里の生活図誌』。
福住も、それ以外の村々を取材し、記録、公開してきた数々の祭り、行事、習俗、暮らしなど、多方面に亘って話を伺った取材先の人たちから教わることすごくある。
地域が替わるだけで、民俗文化は違った文化があるし、また同等な民俗事例も採録してきたが、まだまだ・・・。
私も、学びたい事項は、盛りだくさんの同書。
例えば、福住にかつてあった祭りの様相に見る男性の装束。
和装の羽織袴姿に被った山高帽・・。
現在の氷室神社の神幸祭・渡御行列にその姿は見られないが、福住より東方にある旧都祁村白石・国津神社のお渡りに、見ることができる。
永井清繁氏の画帖を見るまでは、白石国津神社お渡り装束の山高帽は唯一だ、と思っていたが、そうではなかったことに気づいた。
地域を広げて俯瞰したとき。
過去の史料によって、情報が復元される。
そういう点からも永井清繁氏の画帖は、とても貴重な史料である。
残された私の人生期間では到底吸収できないほどの貴重な史料がわんさか。
どうか、棚に眠らせることなく、生きた史料として活用願うばかりである。
式典を終えたら、特別展示の解説がはじまった。
同博物館にインターンシップで派遣されている、人文科学研究科日本伝統文化専攻博士後期課程の清水智子さんが解説者。
式典に列席された方たちや見学者を前に、ご自身が担当した特別展示を解説される。
画帖に描かれた「とんび」や「ステッキ」などの展示品を丁寧に説明されていた。
解説のすべてを記録するには、荷が重い。
解説に私が興味をもった事項は、以下に列挙する。
・なぜに「とんび」の名称であるのか・・・。
回答は、「インターンシップの帝塚山大学生が調べました」パネルに書いてあった。
「“二重廻し(ふたえまわし)”や”インパネス“とも呼ぶ。元々スコットランド北部の都市” インパネス“が発祥とも・・。日本には幕末から明治始めにかけて注入された衣服(※)。特徴は、袖のないケープの背中の部分と一体化した防寒用外套(※がいとう/オーバーコート)。袖口が動きやすいから、和装コートとして流行った。(※言い回しなど若干補正)」。
・じんべいは、じんべ・・・。
“じんべい”の元語は、甚兵衛羽織。
略して甚兵衛から甚平(じんべい)へと変化したが、私ら高齢者は、さらに略して呼んでいた“じんべさん”。
子どものころ、大おばあさんから、「じんべさんでも着ときや」と、よくいわれたものだ。
ちなみに甚平のような模様があることから名づけられたのが、ジンバイザメである。
・イノシシの皮はで作った靴は、雪道でも滑らない・・・。
・嫁入りは、夜だった・・・。
玄関先に弓張提灯。
玄関先で、足を洗ったと伝わるが、実際のは、空っぽの盥(※たらい)に足を入れて、洗う真似ごとをした・・・。
・「さんゆ(※産湯)」と書いて「うぶゆ(※産湯)」・・・。
ちなみに産土神は、「うぶすなかみ」と呼ぶ。
・いっしょうもち(※一升餅)の習俗。
風呂敷に包んだ重たい一升餅をよちよち歩きの赤ん坊に背負わせ赤ん坊に選ばせる。
その子の人生を決める仕事選び・・・。
ちなみに、昨今は、その儀式の場が日本料理屋とか食事処に移している。
・正月は、父親が中心になって行われるイタダキなどは、福住で今でもしている正月のお家行事。
恵方に向けてイタダキをする。
その際の詞章が「せんまい せんまい」。
イタダキの膳を、頭の上あたりにもちあげる・・・。
・ひな祭りの日に、各家を巡る獅子舞が来た・・・。
そのとき頭を獅子舞の口に噛まれた。
また、獅子舞の祈祷札もあった・・・。
・しょうぶ湯(※菖蒲湯)は、今でもしている広く伝わる民間信仰・・・。
・2本の竹を立て、むしろ(※筵)をかけて日除けの道具にした・・・。
解説が終ってから、現在活躍中の民俗調査関係の人たち(滋賀県教育委員会文化財保護課主査矢田直樹、帝塚山大学大学院人文科学研究科日本伝統文化専攻博士後期課程/
インターンシップ清水智子、生駒ふるさとミュージアム学芸員岡島颯斗、滋賀県愛荘町立歴史文化博物館学芸員西連寺匠)。
たくさんの調査・発表もされている若手の研究者たちと名刺交換させてもらった。
(R1. 9.21 SB805SH撮影)
展示会場は、奈良県立民俗博物館。
秋季特別展は、「絵と道具でたどる昔の奈良のくらし。明治末期から昭和初期の暮らしを数多く描いた、天理市福住町が出身の永井清繁さん(1905~1999)の作品を一挙公開する-永井清繁氏のスケッチ帖から-。
永井清繁さんが、生前に描き残した天理・福住の暮らしの民俗のスケッチ絵。
これまでも天理市文化センターや福住公民館、県立図書情報館で展示されてきたが、全作品が一堂に会するのは今回が初めてである。
今回は、さらに県立民俗博物館が、所蔵する多種多用途の民俗資料の中から、作品に登場する天理・福住の生活、生産用具をピックアップした作品と、所蔵民俗用具をコラボした展示。
所蔵民俗用具は、人とともに暮らしてきた実物資料の生活用具であるが、実際は、どのように使われてきたのか、そのあり方が、写実的に、また温もりをあるタッチの絵によって、福住に住んでいた人たちが、当時の暮らしや息づかいを、間近に生き生きと感じることができる展示である。
実は、私も県立民俗博物館の所蔵民俗用具の展示に協力をしたことがある。
私の場合は、絵でなく、現在を記録した写真映像である。
展示物品に、丁度見合う写真提供をお願いされて協力すること度々である。
尤も、私が撮る映像は、祭りや行事。
場合によったら習俗・風習にかかわる映像も・・。
また、農村に暮らす人々の映像もまた協力することはあるが、永井清繁氏が描き残したスケッチ帖には、到底及ばない現在進行形の民俗。
永井清繁氏が、描かれた年代とは比べようもない貴重なかつての暮らしの史料。
しかも、である。
生前に描いたスケッチ帖のすべてが、永井清繁氏が暮らしたころの記憶を辿って描かれた精巧、精緻な絵筆によるもの。
タッチに温かみがあるのは、永井清繁氏が、当時に暮らした生の映像であるからだろう。
秋季特別展の「絵と道具でたどる昔の奈良のくらし-永井清繁氏のスケッチ帖から-」展示期間は、令和元年の9月21日(土)から12月1日(日)までの3カ月間。・・・・・現在は終了しています
開催初日の21日は、開会式がある。
県立民俗博物館・企画展担当者にお願いして参列させてもらった開会式。
文部科学省平成29年度私立大学ブランディング事業に採択された「『帝塚山プラットフォーム』の構築による学際的『奈良学』研究の推進」の一環として、帝塚山大学と県立民俗博物館の共同実施。
スケッチ帖特別公開、体験イベントなどは、帝塚山大学が県立民俗博物館とコラボした特別展示イベントである。
館内入口にはいったすぐそこはエントランスホール。
併設する大和民俗公園内に設置した復元古民家10棟の解説パネルを立てていた。
開会式は、最奥になる特別企画展会場である。
帝塚山大学・文学部日本文化学科の高田照世教授が推進された天理市福住地区の民俗調査の研究成果に基づき、県立民俗博物館が所蔵されている昔の生活用具や民具に、福住町に生まれ育った永井清繁さんが、繊細なタッチで描いた往時の暮らし・行事などをパネル展示する企画展を楽しみに待っていた。
それというのも、前述したように発端は、福住公民館で行われた「福住の民俗画帖展示会」で拝見した画帖の一部に感動どころか、感銘を受けた作品群がきっかけ。
奈良県図書情報館で開催された「奈良学とのであい・山里に行き交う職人たち~永井清繁画帳から」も観覧し、これは、もう出版をお願いするしかない、とアンケートに、その気持ちを訴えた。
決してアンケートが矢を放ったわけではなく、高田照世教授の思い、そして永井清繁氏のご家族の気持ちがあってのこと。
展示パネルのもととなった永井清繁氏の描いた生活図を収録した『奈良山里の生活図誌 永井清繁画・解説(高田照世 編集)』は、帝塚山大学出版会から発刊されたのだ。
その情報を知って、直ちに購入に走ったのは、言うまでもない。
購入先は書店でなく、アマゾン・ドット・コム。
わくわくする読後感は、勢いがついて、レビュー文に仕立てて、アップした。
「これほど待ち望んでいた本はかつてない。期待とかいうレベルではない。なぜなら原画ではないが、それに近い絵を拝見していた展示会で願望していた『奈良山里の生活図誌』。暮らしていたその土地の民俗、習俗を画帳に記録した永井清繁氏。解説もあるからそれがなんであるのか、とても分かりやすい。
昭和どころか大正、いや場合によったら明治時代まで遡る可能性も秘めている「奈良山里の民俗」は大切な記録でもある。不要な部分も映っている写真よりも記憶に残りやすいシンプルな民俗画が素晴らしい。
記録照合にも活用できる優れものは、著者が昔に記憶した情報を思い出されて描いたという民俗誌。その記憶力もまたすごい」。
今、読み直しても、我ながら・・のレビュー文に、またまた頁をくりたくなる。
本体価格は、高価であるが、それ以上の値打ち、いや価値のある『奈良山里の生活図誌』である。
著者永井清繁氏のご家族、親族、孫さんも列席された開会式典。
企画展を主催する同博物館の東秀行館長に帝塚山大学学長の蓮花一己氏、2人の挨拶からはじまった。
「奈良は古都文化。1200年の歴史に人々の暮らしがある。身近にある葬送、建物、町並みは昔の暮らしを知る手がかり」、「一堂に会して展示するスケッチ画と収蔵の品々。暮らしを描いた絵から学ぶ収蔵民具から学ぶ特別展示・・・・」。
続いて、帝塚山大学出版会より刊行された『奈良山里の生活図誌』の贈呈式が行われた。
永井清繁氏の描いた生活図を収録した同書籍を、特別展示の見学に授業で訪れる小学校などの団体見学に、郷土教育、歴史教育の学習教材として活用されることを目的に寄贈。
なお、この時点で、社会見学を予約されているおよそ40校の県内小学校だけでなく、これから見学を決められる小学校にも対象を広げて寄贈されたそうだ。
地域文化の教育に、教えるのは、『奈良山里の生活図誌』に描かれた世界など、知る由もない現代教育で育った教師たち。
先に、学ばなければならないのは、教師では、と思うのだが・・。
ましてや、子どもたちの親も、見たことのない昭和のはじめから、それ以前の大正時代の暮らし。
想像できない親たちも、先に学ばないと・・・。
できることなら、『奈良山里の生活図誌』の頁を開いて、おじいちゃん、おばあちゃんたちが暮らしてきた実体験をもって、聞くことも大切ではないだろうか。
福住の暮らしは、大都会では味わえない、山間地の旧村文化。
伝承されてきた福住の祭り、行事、習俗、暮らしのすべてが詰まっている『奈良山里の生活図誌』。
福住も、それ以外の村々を取材し、記録、公開してきた数々の祭り、行事、習俗、暮らしなど、多方面に亘って話を伺った取材先の人たちから教わることすごくある。
地域が替わるだけで、民俗文化は違った文化があるし、また同等な民俗事例も採録してきたが、まだまだ・・・。
私も、学びたい事項は、盛りだくさんの同書。
例えば、福住にかつてあった祭りの様相に見る男性の装束。
和装の羽織袴姿に被った山高帽・・。
現在の氷室神社の神幸祭・渡御行列にその姿は見られないが、福住より東方にある旧都祁村白石・国津神社のお渡りに、見ることができる。
永井清繁氏の画帖を見るまでは、白石国津神社お渡り装束の山高帽は唯一だ、と思っていたが、そうではなかったことに気づいた。
地域を広げて俯瞰したとき。
過去の史料によって、情報が復元される。
そういう点からも永井清繁氏の画帖は、とても貴重な史料である。
残された私の人生期間では到底吸収できないほどの貴重な史料がわんさか。
どうか、棚に眠らせることなく、生きた史料として活用願うばかりである。
式典を終えたら、特別展示の解説がはじまった。
同博物館にインターンシップで派遣されている、人文科学研究科日本伝統文化専攻博士後期課程の清水智子さんが解説者。
式典に列席された方たちや見学者を前に、ご自身が担当した特別展示を解説される。
画帖に描かれた「とんび」や「ステッキ」などの展示品を丁寧に説明されていた。
解説のすべてを記録するには、荷が重い。
解説に私が興味をもった事項は、以下に列挙する。
・なぜに「とんび」の名称であるのか・・・。
回答は、「インターンシップの帝塚山大学生が調べました」パネルに書いてあった。
「“二重廻し(ふたえまわし)”や”インパネス“とも呼ぶ。元々スコットランド北部の都市” インパネス“が発祥とも・・。日本には幕末から明治始めにかけて注入された衣服(※)。特徴は、袖のないケープの背中の部分と一体化した防寒用外套(※がいとう/オーバーコート)。袖口が動きやすいから、和装コートとして流行った。(※言い回しなど若干補正)」。
・じんべいは、じんべ・・・。
“じんべい”の元語は、甚兵衛羽織。
略して甚兵衛から甚平(じんべい)へと変化したが、私ら高齢者は、さらに略して呼んでいた“じんべさん”。
子どものころ、大おばあさんから、「じんべさんでも着ときや」と、よくいわれたものだ。
ちなみに甚平のような模様があることから名づけられたのが、ジンバイザメである。
・イノシシの皮はで作った靴は、雪道でも滑らない・・・。
・嫁入りは、夜だった・・・。
玄関先に弓張提灯。
玄関先で、足を洗ったと伝わるが、実際のは、空っぽの盥(※たらい)に足を入れて、洗う真似ごとをした・・・。
・「さんゆ(※産湯)」と書いて「うぶゆ(※産湯)」・・・。
ちなみに産土神は、「うぶすなかみ」と呼ぶ。
・いっしょうもち(※一升餅)の習俗。
風呂敷に包んだ重たい一升餅をよちよち歩きの赤ん坊に背負わせ赤ん坊に選ばせる。
その子の人生を決める仕事選び・・・。
ちなみに、昨今は、その儀式の場が日本料理屋とか食事処に移している。
・正月は、父親が中心になって行われるイタダキなどは、福住で今でもしている正月のお家行事。
恵方に向けてイタダキをする。
その際の詞章が「せんまい せんまい」。
イタダキの膳を、頭の上あたりにもちあげる・・・。
・ひな祭りの日に、各家を巡る獅子舞が来た・・・。
そのとき頭を獅子舞の口に噛まれた。
また、獅子舞の祈祷札もあった・・・。
・しょうぶ湯(※菖蒲湯)は、今でもしている広く伝わる民間信仰・・・。
・2本の竹を立て、むしろ(※筵)をかけて日除けの道具にした・・・。
解説が終ってから、現在活躍中の民俗調査関係の人たち(滋賀県教育委員会文化財保護課主査矢田直樹、帝塚山大学大学院人文科学研究科日本伝統文化専攻博士後期課程/
インターンシップ清水智子、生駒ふるさとミュージアム学芸員岡島颯斗、滋賀県愛荘町立歴史文化博物館学芸員西連寺匠)。
たくさんの調査・発表もされている若手の研究者たちと名刺交換させてもらった。
(R1. 9.21 SB805SH撮影)