午前中いっぱいかけてオコナイの飾りつけを終えた一行は頭屋家で接待料理をいただく。
男の子が誕生した頭屋家の祝いのもてなしだと云う。
子供の誕生がなければ公民館で行われる区長の接待だそうだ。
会食を済ませた人たちは再び公民館に集まってくる。
午後も作業がある。
村人が到着するまでに作るのが「キョウ」である。
型押しして作るキョウのメシは四角。
四隅に僅かな尖がりが見られる蒸しメシである。
「キョウ」を充てる漢字は「饗」。
午前中に村の戸数分を作っておく。
そのうちの一つは風呂敷に包んで氏神さんに供える。
地主神とされる地の神さんこと八柱神社はかつて八王子社と呼ばれていた。
膳に乗せて本殿に供える。
寺行事であっても御供を地の神さんに食べてもらうのだ。
かつては蒸したキョウのメシを一旦は菰に広げていた。
冷ましてから型枠に詰め込んでいたが、現在は炊いた炊飯器からしゃもじでよそって型枠に詰め込む。
「キョウ」の膳には2本のゴボウと角切りのダイコンに水漬け大豆を添える。
やってきた村の人が公民館に上がって席に着けば汁椀とともに配膳する。
汁椀はトーフと乾燥した赤いサトイモの葉っぱを入れた味噌汁。
ダシジャコの香りが漂ってくる。
キョウ作りや接待役は区長と手伝いさん。
午後の時間帯も接待に忙しい。
キョウの膳は食べることなく汁椀をよばれて本堂に上がる。
かつては福龍寺本堂に上がってキョウの膳をいただいていたそうだ。
なお、汁椀については見学者にも振舞われるありがたい鵜山のもてなし。
この年は頭屋の子供も席に着いた。
生まれて間もない赤ちゃんは祖母が抱いて村人たちへのお披露目。
蘇民将来の子孫誕生をみなで喜び合う。
キョウの膳を公民館でよばれたあとは本堂でのオコナイに移る。
オコナイの法要をする僧侶は薦生(こもう)の妙応院住職。
鐘が撞かれて始まりの合図。
この日のオコナイに参集した村人は24人。
本堂がいっぱいになった。
導師の真言読経、般若心経に続くお経の途中で「ランジョー」が発せられると縁にある太鼓(奈良県無山で大正11年に製作 中川祭太郎張替)を打ち鳴らす。
太鼓は本堂廻りの回廊にある。
堂外で鳴らすのであるが扉は閉めたまま。
「ランジョー」の声が聞こえにくい。
ドンドコドンドンと太鼓を打ちながら心経を唱えるは6分間。
ぴたりと止んだ太鼓打ちの僧侶は斎壇に座り直す。
村の人の名を詠みあげる時が流れる。
耳を澄ませてじっと待つこと25分後のことだ。
「ランジョー」が発せられた。
「今だ」と気合を込めてドン、ドン、ドンと叩く太鼓打ちは組長の役目。
わずかに1回の作法で終えたランジョー(乱声)は村から悪霊を追い出す所作である。
2月11日には大般若経の転読法要があると案内される僧侶もほっとした顔つきになった。
福龍寺には六百巻の大般若経が現存しているが法要には使わない。
「奉施主入飯道寺 正和二年(1313)」に寄進された大般若経典。
飯道寺は近江の国。
甲賀郡の経典がなぜに鵜山にあるのか、記録も伝承もない。
昔は経典を納めた箱をオーコで担いで村中を巡ったものだと話す。
また、地主の神さんとされる八柱神社の棟札に「正和六年(1317)」の年代が書かれてあったそうだ。
時代的に一致する大般若経典と棟札が伝わることから福龍寺とともに社殿があったと思われる。
八柱神社は五男三女神を祀り、江戸期には八王子社と呼ばれていたというから牛頭天王社であろう。
こうして長丁場のオコナイを終えた村人たちは祈祷された「大地主神 八柱神社 大御歳神」のお札と「ソミノシソンナリ」の護符を授かる。
大正時代の末頃まではランジョーが発せられるとともにナリバナを奪いあった。
現在は争奪戦にならないようにコヨリクジを引いて当たりのナリバナを背負って持ち帰る。
祈祷札はT字型に切り込みを入れたハゼの木に挿して持ち帰る。
お堂の下ではそれらを受け取る人でいっぱいになるが名前を呼びだしてのことだから争奪戦にはならないのである。
「チバイ」はと言えば生まれたての子供を抱く頭屋と6歳以下の子供(男女)がいる家だけが受け取る印だ。
この年は生まれたての頭屋があったが、なければ区長が代役を勤めると云う「チバイ」はすくすくと育ってほしいという願いがあるようで、神棚に一年間奉って翌年のどんどで燃やすそうだ。
ナリバナを貰って家路につく笑顔の婦人たちの顔は実に嬉しそうだ。
背負った婦人たち表情がなんとも言えない鵜山の風情を醸し出す。
重たいから細かく刻む人や軽トラに乗せる人もいる。
風呂敷に包んだキョウのメシは地主神こと八柱神社のお札をハゼの木に挟んで持ち帰る。
お札とハゼの木は苗代、或いは田植え時の田んぼの畦に挿して、今年も豊作になりますようにと立てる。
ちなみにケズリカケとサラエは今年の頭屋が記念に持ち帰るが、その他の飾りやナリバナの台、ケズリカケ、サラエなどすべてが燃やされる。
かつてはダンジョーの作法を終えると始まった争奪戦。
子供たちも大勢おってサラエやスズメを奪い取ったと云う縁起ものだそうだ。
なお、手伝いにあたった頭屋家親戚のⅠ氏は東大寺二月堂修二会における「香水講」で、12日は神官装束になる泊りだそうだ。
この辺りは鵜山を含める地域(山添村広代など)で香水講の集団があるようだ。
お水取りの際に閼伽井屋に提灯を掲げる東香水講だと思われるのである。
また、鵜山には般若心経を唱える観音講もあると云う。
昔は大勢おられた観音講は今では3人。
少なくなったが毎月のお勤め。
般若心経を100巻も唱える。
大勢おられたときは早めに終わった般若心経は3人で唱えるには多い。
一人あたりが33、34巻にもなると云う観音講の営みは毎月17日。
かつては僧侶も来ていたが今は婦人だけの営みは14時から始めるそうだ。
何巻唱えたか判るように小豆を数取りにしている。
一般的には婦人の観音講であるが鵜山では男性もいる。
男性は3人でオトナ講でもあるそうだ。
10月中旬(第三日曜)辺りの日曜日に行われるマツリの頭屋は4軒で勤める。
ダイコン、ゴボウ、コンニャクの「タイテン」に大きな生の丸イワシを膳に盛ると云う。
山添村の広瀬住民のひと言から拝見した名張市鵜山のオコナイ。
奈良県内のオコナイと比較研究する意味合いも見つかった鵜山のオコナイは周辺行事も含めてさらなる民俗行事を取材したくなった一日である。
(H25. 1.13 EOS40D撮影)
男の子が誕生した頭屋家の祝いのもてなしだと云う。
子供の誕生がなければ公民館で行われる区長の接待だそうだ。
会食を済ませた人たちは再び公民館に集まってくる。
午後も作業がある。
村人が到着するまでに作るのが「キョウ」である。
型押しして作るキョウのメシは四角。
四隅に僅かな尖がりが見られる蒸しメシである。
「キョウ」を充てる漢字は「饗」。
午前中に村の戸数分を作っておく。
そのうちの一つは風呂敷に包んで氏神さんに供える。
地主神とされる地の神さんこと八柱神社はかつて八王子社と呼ばれていた。
膳に乗せて本殿に供える。
寺行事であっても御供を地の神さんに食べてもらうのだ。
かつては蒸したキョウのメシを一旦は菰に広げていた。
冷ましてから型枠に詰め込んでいたが、現在は炊いた炊飯器からしゃもじでよそって型枠に詰め込む。
「キョウ」の膳には2本のゴボウと角切りのダイコンに水漬け大豆を添える。
やってきた村の人が公民館に上がって席に着けば汁椀とともに配膳する。
汁椀はトーフと乾燥した赤いサトイモの葉っぱを入れた味噌汁。
ダシジャコの香りが漂ってくる。
キョウ作りや接待役は区長と手伝いさん。
午後の時間帯も接待に忙しい。
キョウの膳は食べることなく汁椀をよばれて本堂に上がる。
かつては福龍寺本堂に上がってキョウの膳をいただいていたそうだ。
なお、汁椀については見学者にも振舞われるありがたい鵜山のもてなし。
この年は頭屋の子供も席に着いた。
生まれて間もない赤ちゃんは祖母が抱いて村人たちへのお披露目。
蘇民将来の子孫誕生をみなで喜び合う。
キョウの膳を公民館でよばれたあとは本堂でのオコナイに移る。
オコナイの法要をする僧侶は薦生(こもう)の妙応院住職。
鐘が撞かれて始まりの合図。
この日のオコナイに参集した村人は24人。
本堂がいっぱいになった。
導師の真言読経、般若心経に続くお経の途中で「ランジョー」が発せられると縁にある太鼓(奈良県無山で大正11年に製作 中川祭太郎張替)を打ち鳴らす。
太鼓は本堂廻りの回廊にある。
堂外で鳴らすのであるが扉は閉めたまま。
「ランジョー」の声が聞こえにくい。
ドンドコドンドンと太鼓を打ちながら心経を唱えるは6分間。
ぴたりと止んだ太鼓打ちの僧侶は斎壇に座り直す。
村の人の名を詠みあげる時が流れる。
耳を澄ませてじっと待つこと25分後のことだ。
「ランジョー」が発せられた。
「今だ」と気合を込めてドン、ドン、ドンと叩く太鼓打ちは組長の役目。
わずかに1回の作法で終えたランジョー(乱声)は村から悪霊を追い出す所作である。
2月11日には大般若経の転読法要があると案内される僧侶もほっとした顔つきになった。
福龍寺には六百巻の大般若経が現存しているが法要には使わない。
「奉施主入飯道寺 正和二年(1313)」に寄進された大般若経典。
飯道寺は近江の国。
甲賀郡の経典がなぜに鵜山にあるのか、記録も伝承もない。
昔は経典を納めた箱をオーコで担いで村中を巡ったものだと話す。
また、地主の神さんとされる八柱神社の棟札に「正和六年(1317)」の年代が書かれてあったそうだ。
時代的に一致する大般若経典と棟札が伝わることから福龍寺とともに社殿があったと思われる。
八柱神社は五男三女神を祀り、江戸期には八王子社と呼ばれていたというから牛頭天王社であろう。
こうして長丁場のオコナイを終えた村人たちは祈祷された「大地主神 八柱神社 大御歳神」のお札と「ソミノシソンナリ」の護符を授かる。
大正時代の末頃まではランジョーが発せられるとともにナリバナを奪いあった。
現在は争奪戦にならないようにコヨリクジを引いて当たりのナリバナを背負って持ち帰る。
祈祷札はT字型に切り込みを入れたハゼの木に挿して持ち帰る。
お堂の下ではそれらを受け取る人でいっぱいになるが名前を呼びだしてのことだから争奪戦にはならないのである。
「チバイ」はと言えば生まれたての子供を抱く頭屋と6歳以下の子供(男女)がいる家だけが受け取る印だ。
この年は生まれたての頭屋があったが、なければ区長が代役を勤めると云う「チバイ」はすくすくと育ってほしいという願いがあるようで、神棚に一年間奉って翌年のどんどで燃やすそうだ。
ナリバナを貰って家路につく笑顔の婦人たちの顔は実に嬉しそうだ。
背負った婦人たち表情がなんとも言えない鵜山の風情を醸し出す。
重たいから細かく刻む人や軽トラに乗せる人もいる。
風呂敷に包んだキョウのメシは地主神こと八柱神社のお札をハゼの木に挟んで持ち帰る。
お札とハゼの木は苗代、或いは田植え時の田んぼの畦に挿して、今年も豊作になりますようにと立てる。
ちなみにケズリカケとサラエは今年の頭屋が記念に持ち帰るが、その他の飾りやナリバナの台、ケズリカケ、サラエなどすべてが燃やされる。
かつてはダンジョーの作法を終えると始まった争奪戦。
子供たちも大勢おってサラエやスズメを奪い取ったと云う縁起ものだそうだ。
なお、手伝いにあたった頭屋家親戚のⅠ氏は東大寺二月堂修二会における「香水講」で、12日は神官装束になる泊りだそうだ。
この辺りは鵜山を含める地域(山添村広代など)で香水講の集団があるようだ。
お水取りの際に閼伽井屋に提灯を掲げる東香水講だと思われるのである。
また、鵜山には般若心経を唱える観音講もあると云う。
昔は大勢おられた観音講は今では3人。
少なくなったが毎月のお勤め。
般若心経を100巻も唱える。
大勢おられたときは早めに終わった般若心経は3人で唱えるには多い。
一人あたりが33、34巻にもなると云う観音講の営みは毎月17日。
かつては僧侶も来ていたが今は婦人だけの営みは14時から始めるそうだ。
何巻唱えたか判るように小豆を数取りにしている。
一般的には婦人の観音講であるが鵜山では男性もいる。
男性は3人でオトナ講でもあるそうだ。
10月中旬(第三日曜)辺りの日曜日に行われるマツリの頭屋は4軒で勤める。
ダイコン、ゴボウ、コンニャクの「タイテン」に大きな生の丸イワシを膳に盛ると云う。
山添村の広瀬住民のひと言から拝見した名張市鵜山のオコナイ。
奈良県内のオコナイと比較研究する意味合いも見つかった鵜山のオコナイは周辺行事も含めてさらなる民俗行事を取材したくなった一日である。
(H25. 1.13 EOS40D撮影)