
心配されていたのは雨降りである。
前日から降り出した雨は夜中になっても降りやまない。
朝方になっても小雨。
家を出る午前7時半過ぎはやんでいたが、西名阪国道の天理の山越え地帯は、べったり降っていた。
霧雨である。
この地はだいたいが霧の出やすい地帯。
抜けた旧都祁村であればマシになるだろう。
そう思って車を走らせる。
雨降り雲は東に東へ流れていく。
午前9時に着いた宇陀市大宇陀の栗野は雨もやんでいた。
朝の5時から始めたという垣内のゴクツキ。
この日の午後に行われる栗野の夏祭りに奉納される餅を搗いていた。
祭り当番は針ケ谷垣内。
かつては20軒も住まいしていたという垣内であるが、現在は6軒。
人数的に難しい祭りの営みに要する作業に人手が不足。
他の垣内であれば午前9時からでも間に合うが、針ケ谷垣内は難しいと判断され、作業は4時間も早めていた。
今月の3日も訪れていた栗野。
岩神社に三十三度も参る田休みのお垢離取りがあった。
参拝者の姿は確認できなかったが、垢離の回数を示す榊の葉とか御供のあり方を記録していた。
お会いした宮役員のNさんは、この日に行われる岩神社の夏祭りのことを教えてくださった。
取材にあたって、当日に来てもろたら栗野の区長さんを紹介すると云われていた。
早朝でなくとも御供搗きが終わるころを目途に来てくれたら、と云われて自宅を出た。
大和郡山から栗野まではおよそ1時間半だった。
御供搗きをしている場は、栗野の集会所。
ときわ老人憩いの家でもある集会所におられたFさんにご挨拶。
本日の祭りは午前中いっぱいが当番垣内の御供搗き。
午後2時より岩神社に向かってお渡りをするそうだ。
岩神社の大祭は、この日の夏祭りに10月の秋祭り。
そして11月の亥の子の祭りがある。
いずれも朝から午前中いっぱいが御供搗き。
午後にお渡りがある。
三つの大祭に違いはなく同じ形態。
来年からは、これを統合し、秋祭りに一本化する予定である。
垣内の負担を軽減する目的で一本化するから、今日の夏祭りは今年で終える。
岩神社の行事だけでなく仏事もある。
今年の9月9日に予定している十二薬師さん。
本来は9月12日が十二薬師さんの日。
現在は、集まりやすい12日直前の日曜日に移した。
昔は青年団があった。
団子を作って臼型のようなものに詰めて型取りをしていた。
臼型というのは竹で作った道具。
伐った竹を輪切りにする。
大量に搗いた団子を供えて、法要が終わればモチマキ(団子撒き)をする。
今は自治会が伝承している十二薬師さんに“ハナ”を作って薬師さんに供えた。
かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。
現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。
天頂に丸団子を挿す。
その下は三段の”ハナ”飾りがある。
上から順に大きさが小、中、大のハナ飾りは色紙で作る色紙を折ってまるで傘のようなギザギザ感に広げた円形状。
かつては金、銀、赤、青、緑の五色だったが、今は赤、青、緑の三段。
是非とも拝見したい“ハナ”飾りである。
区長引継ぎに鰐口が見つかった、という。
その鰐口に「金石寺」の刻印があった。
岩神社境内に建っていた金石寺(こんせきじ)。
明治時代の廃仏毀釈の際に廃寺。
本尊の薬師座像は栗野にある大蔵寺が預かったが、鰐口だけが遺されたそうだ。
9月に行われる村行事の十二薬師さんは龍門真言宗大蔵寺(おおくらじ)で法要をしてきたが、10年ほど前に元あった場に戻すことになった。
元の場は、岩神社境内であるが、十二薬師堂はなく、小屋に収め、榛原の融通念仏宗派宗佑寺(そうゆうじ)の僧侶に来てもらって法要をしている、という。
今はしていないが、と先に断って話してくださるFさんの子どものころの思い出映像である。
菖蒲に蓬があった。
両方とも揃えて束にして、屋根の上に放り投げていた記憶である。
菖蒲、蓬から思い出された花はツツジだった。
これも束ねて竹の竿に括り付けた。
それはなんと呼んでいたのか気になる。
もしや、と思って云いかけた「オツキ・・・」まで声を出したら「オツキヨウカ」だった。
竿を立てる場は家のカド庭。
母親が立てていたようだ。
栗野辺りの村々は旧暦でしていた。
ツツジの花が咲く5月。
まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあった証言である。
「オツキヨウカ」に天高く竿を揚げる。
そのてっぺんに十字に括って取り付けたツツジ花を「テントバナ」と呼んでいた。
「テントバナ」を充てる漢字は「天道花」。
まさにお天とさんに捧げる「テントバナ」である。
場所は異なるがツツジの他にヤマブキやフジの花も結わえて立てている地域がある。
私の知る範囲であるが、現在もなおされている方は山添村の住民。
その人以外の隣近所もしていたが、今は見ることもない。
記憶伝承を話してくださった奈良市別所町の住民の他、吉野町小名に川上村高原にもあったやに聞く。
山間地だけでなく平たん地の田原本町にもあった。近年にイベント復活された天理市福住の事例もある。
また、大阪北部地域にも見られた「オツキヨウカ」。
現存する事例は極端に少ない。
続けて話してくださる植物の話題。
地域探訪に歩いて歴史や文化を知る歩こう会(※上龍門地域まちづくり協議会)に参加した際に知った「ヘラノキ」である。
ヘラの木で作ったモノに馬の鼻に取り付けるハナワ(※鼻環・鼻木)がある。
そのハナワに繋いで手繰る紐があった。
その紐はヘラノキの皮で作っていた。
ヘラノキの木肌は柔らかいからそれを利用していたという。
ヘラノキは九州や四国に自生する植物。
上龍門地域に見られるのはとても珍しい、という。
また、上出垣内に姫目(ひるめ)神社があり、12月半ばに姫目の祭りをしている、という。
姫目の神さんは姫神さん。
昔、子どもが出来なかった人がいた。
垣内に小川が流れていた。
そこで小石を拾って奉ったら、子どもは死産することなく、生まれた。
そのおかげをもって祭るようになったという。
栗野に関するさまざまな地域文化を話してくださるFさん。
そうこうしているうちに御供搗きも終わりかけ。
もち粉を塗した搗きたての餅は板に並べていた。
昔しは、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマであった。
今はゴクダマだけにしたが、数多く作るのはコモチ。
ゴクダマにゴクモチは別名にオゴク、コゴクと呼ぶ。
2段重ねのオカガミ餅もある。

コモチの個数はとにかく多い。
大なり小なりのコモチの大きさ。
一定量でなくそれぞれが餅取りをされるから多少のバラツキである。
これらコモチは午後からのお渡りに運ばなくてはならない。
そこで登場する木桶。
コモチを載せたままの板を抱えて木桶に寄せる。
手でごそっと移した木桶にいっぱい。

その上に大きく平べったい餅も入れる。
場合によってはゴクマキのように投げるそのモチはオゴクの呼び名もあるゴクダマである。
木桶は新しく作ったものもあれば古い形の桶もある。
古い方の木桶の底裏に寄進した日付けがあった。

区長さんとともに拝見した木桶の裏底面の墨書は「昭和三十四年度 三個新調の三号 岩神社氏子」だった。
古くなった木桶はタガが外れかけ。
そういうことからまた新たに作られた木桶も合わせて17個もある。
木桶に収めている間に他の人たちは餅板の後片づけ。
作業をしていた広間は掃除機で清掃するなど忙しく動き回る。
長机も片付けする。
その机に置いてあった大皿に盛ったこれは何であるのか。
初めて見る栗野の祝宴であるのか。
それとも・。

大皿に盛った魚は開きの焼き鯖。
よく見れば液体がある。
区長に氏子たちが話してくれたコレは「サカシオ(酒塩)」と呼ぶ食べ物。
酒をたっぷり落として焼き鯖を口にする。
御供搗きをしている最中に一服する。
その際に口にする「サカシオ(酒塩)」。
大皿は満々とたたえた酒びたし。
一口食べては酒を飲む習慣がある。
一人、二人・・・何人もの人たちが一服する度にいただく「サカシオ(酒塩)」。
いわば廻し飲みのあり方である。
御供搗きは終わったから、その作法は見られない。
実は、この「サカシオ(酒塩)」の習慣は一年に三度登場する。
前述したように、本日の夏祭りに10月の秋祭りと11月の亥の子祭りのすべてに御供搗きがあるから、また栗野に来てくれたら、見られるから、と云ってくれた。
積極的に拝見したい「サカシオ(酒塩)」。
秋祭りか亥の子祭りのいずれかに訪問、取材をお願いした。
ちなみに「サカシオ(酒塩)」はデジタル大辞泉に載っていた。
「魚や野菜の煮物に調味料として酒を入れること。または、その酒」とあったからあながち間違いではなさそうだが、それは料理法のこと。
「さかしおとは、日本酒を料理に使うこと、またはその酒のことをいう」と書いてあったNPO法人ブログもある。
また、食の総合出版の柴田商店ブログでは「酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。昆布の風味をつけることもある」とあった。
酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。
昆布の風味をつけることもある
栗野に見る「サカシオ(酒塩)」は、民俗観点から考えて、その料理をいただくことに意味がありそうにも思えるが・・・。

作業に遅れもなく、悠々と終わった針ケ谷垣内の氏子たちはゆったり寛いでいた。
正午より始まる直会である。
大広間に設営した神さん棚がある。

以前はお家でしていた祭り前の直会。
その場に祭る御簾屋(おすや)がある。
御簾(みす)で見えないようにしている神棚は、この日までは当屋のお家にあった。
当屋宅に祭る神さんである。
かつては当屋の家で御供搗きもしていたであろう。
岩神社へのお渡りも当屋から出発していたが、現在は場を移した集会所にも利用するときわ老人憩いの家。
この日だけは当屋家代わりの神住まいの場である。
榊を立て、お神酒に洗米、塩を供える。
下に祭壇を設けて鯛、キノコ、果物に生たまご、ソーメン、昆布、コーヤドーフ、野菜も供えていた。
榊で見え難いが、御簾屋の前に太い注連縄もある。
尾の方がピンと反った注連縄は真新しい。
区長や氏子たちが話してくれた御簾屋に納めた小石のこと。
この日でなく一週間か、10日前。
当屋の都合のいい日を選んで出かけた吉野川。
河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石。
旧暦閏年の場合の小石は13個になる小石納めの神さん棚は、御供搗きを始める前に設営した。
なお、小石拾いは現当屋と受け当屋の両人が揃って行くようだ。
拾った小石は半紙に包んで水行をする。
新しく拾ってきた小石に対して一年間を守った小石は岩神社の社殿周りに据えるあり方。
小石拾いに出かける地は通称が「大汝宮」と呼ぶ大名持(おおなもち)神社。
鎮座地は吉野町の河原屋。
その前を流れる清流に足を浸けて小石を拾う禊の場である。
これを「大汝宮(おなんじ)」参りと称する対象地域は数多いが、ここ栗野では、神さんの棚に納めるまでのそれを「コオリカキ」と呼んでいた。
この月の6月3日は、田植え終わりの垢離取りだった。
禊は榊の葉を小川に浸けることであるが、吉野川での小石拾いもまた禊をともなう垢離取り。
「コオリカキ」を充てる漢字は「垢離掻き」ではないだろうか。
このことは、神社境内に掲げる由緒書に「・・例祭前に、当屋と弟当屋(※次期当屋)が、吉野町河原湯大名持神社前の聖域である潮生渕(※しおぶち)に“垢離かき”と称して禊に行くことである。六根清浄の水浴をして12個の石を持ち帰り、当屋に設けられた須屋(※すや)に入れて例祭当日まで祀るのである」と書いてあった。
ちなみに現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に対して受け当屋はオトウトトーヤ(弟当屋)とも呼ぶ。
垣内で選ばれるそれぞれの当屋。
現当屋が住まいする垣内は針ケ谷。
今回の受け当屋が属する垣内は下垣内。
祭りの当番にあたる垣内の順は決まっている。
栗野は全戸で71戸であるが、実際に住む戸数はもっと少ないようだ。
栗野の村は、上出垣内から針ケ谷垣内、下出垣内、中出垣内から再び上出垣内に戻る四つの垣内に送る順送り。
夏祭りから秋祭り、亥の子祭りの当番垣内は順送り。
当番の祭りにあたった垣内の中から決めている当屋が務める。
但し、下出垣内は他の垣内より戸数が多いことから下出垣内にとっての廻りは2回続きになる。
時間ともなれば現当屋も受け当屋も着替える。
白のネクタイを締めたワイシャツ。
黒のスーツ姿に身構えた両人が迎える人は2人。
栗野区長のFさんと菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏のお二人。
親父さんの三家一彦宮司は以前にお会いしたことがある。
平成17年2月7日に行われた祈年祭。
拝殿に奉った牛面に天狗の面、お多福の面を置き、唐鋤と馬鍬も並べて行う神事はおんだ祭。
氏子の姿はなく、宮司お一人で斎行されていたことを思い出す。
会食を伴う祭り垣内の直会場は、かつて大宇陀町立田原小学校の栗野分校だった。
昭和38年、栗野分校は本校の田原小学校に統合され廃校になった。
その跡地に建築したときわ老人憩いの家は、村の集会所にも利用している。
上座に座った区長と三家禰宜に今回の夏祭りまでの期間を務めた兄当屋と次の秋祭りまでの当屋を受けた下出垣内に属する弟当屋が並んだ。
手前に並べた食卓テーブルに座った人たちは、兄当屋が属する針ケ谷垣内人たち。
中でも兄当屋家の両隣が主に手伝いをするが、針ケ谷垣内は6戸。
手伝いは垣内住民総出のようだ。

直会を始めるにあたって挨拶、口上を述べる兄当屋。
当屋を受けた日は、前年11月の亥の子祭りの日。
祭りを終えて受けた当屋は、ご自宅に神さんを迎えて神祭り。
それから8カ月間はお家で毎日を神祭りしていた。
受けたときも、今日の夏祭りも終え、受け当屋家が神さんを迎える時点までを担う兄当屋。
逆に本日受けた弟当屋は、神さんを迎えたら兄当屋に立ち位置が替わる。
そして、本日は早朝からのゴクツキ作業に感謝である。
お礼を述べて乾杯は区長に。
しばらくの時間を垣内の人たちと過ごす慰労の時間帯でもある。

午後2時に出発するまでの時間に笑顔で振るまっていたそうだ。
地元の堂々久(どどく)で昼食を摂って戻ったから聞いた栗野の直会に垣内の暮らしぶりがわかるようだ。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)
前日から降り出した雨は夜中になっても降りやまない。
朝方になっても小雨。
家を出る午前7時半過ぎはやんでいたが、西名阪国道の天理の山越え地帯は、べったり降っていた。
霧雨である。
この地はだいたいが霧の出やすい地帯。
抜けた旧都祁村であればマシになるだろう。
そう思って車を走らせる。
雨降り雲は東に東へ流れていく。
午前9時に着いた宇陀市大宇陀の栗野は雨もやんでいた。
朝の5時から始めたという垣内のゴクツキ。
この日の午後に行われる栗野の夏祭りに奉納される餅を搗いていた。
祭り当番は針ケ谷垣内。
かつては20軒も住まいしていたという垣内であるが、現在は6軒。
人数的に難しい祭りの営みに要する作業に人手が不足。
他の垣内であれば午前9時からでも間に合うが、針ケ谷垣内は難しいと判断され、作業は4時間も早めていた。
今月の3日も訪れていた栗野。
岩神社に三十三度も参る田休みのお垢離取りがあった。
参拝者の姿は確認できなかったが、垢離の回数を示す榊の葉とか御供のあり方を記録していた。
お会いした宮役員のNさんは、この日に行われる岩神社の夏祭りのことを教えてくださった。
取材にあたって、当日に来てもろたら栗野の区長さんを紹介すると云われていた。
早朝でなくとも御供搗きが終わるころを目途に来てくれたら、と云われて自宅を出た。
大和郡山から栗野まではおよそ1時間半だった。
御供搗きをしている場は、栗野の集会所。
ときわ老人憩いの家でもある集会所におられたFさんにご挨拶。
本日の祭りは午前中いっぱいが当番垣内の御供搗き。
午後2時より岩神社に向かってお渡りをするそうだ。
岩神社の大祭は、この日の夏祭りに10月の秋祭り。
そして11月の亥の子の祭りがある。
いずれも朝から午前中いっぱいが御供搗き。
午後にお渡りがある。
三つの大祭に違いはなく同じ形態。
来年からは、これを統合し、秋祭りに一本化する予定である。
垣内の負担を軽減する目的で一本化するから、今日の夏祭りは今年で終える。
岩神社の行事だけでなく仏事もある。
今年の9月9日に予定している十二薬師さん。
本来は9月12日が十二薬師さんの日。
現在は、集まりやすい12日直前の日曜日に移した。
昔は青年団があった。
団子を作って臼型のようなものに詰めて型取りをしていた。
臼型というのは竹で作った道具。
伐った竹を輪切りにする。
大量に搗いた団子を供えて、法要が終わればモチマキ(団子撒き)をする。
今は自治会が伝承している十二薬師さんに“ハナ”を作って薬師さんに供えた。
かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。
現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。
天頂に丸団子を挿す。
その下は三段の”ハナ”飾りがある。
上から順に大きさが小、中、大のハナ飾りは色紙で作る色紙を折ってまるで傘のようなギザギザ感に広げた円形状。
かつては金、銀、赤、青、緑の五色だったが、今は赤、青、緑の三段。
是非とも拝見したい“ハナ”飾りである。
区長引継ぎに鰐口が見つかった、という。
その鰐口に「金石寺」の刻印があった。
岩神社境内に建っていた金石寺(こんせきじ)。
明治時代の廃仏毀釈の際に廃寺。
本尊の薬師座像は栗野にある大蔵寺が預かったが、鰐口だけが遺されたそうだ。
9月に行われる村行事の十二薬師さんは龍門真言宗大蔵寺(おおくらじ)で法要をしてきたが、10年ほど前に元あった場に戻すことになった。
元の場は、岩神社境内であるが、十二薬師堂はなく、小屋に収め、榛原の融通念仏宗派宗佑寺(そうゆうじ)の僧侶に来てもらって法要をしている、という。
今はしていないが、と先に断って話してくださるFさんの子どものころの思い出映像である。
菖蒲に蓬があった。
両方とも揃えて束にして、屋根の上に放り投げていた記憶である。
菖蒲、蓬から思い出された花はツツジだった。
これも束ねて竹の竿に括り付けた。
それはなんと呼んでいたのか気になる。
もしや、と思って云いかけた「オツキ・・・」まで声を出したら「オツキヨウカ」だった。
竿を立てる場は家のカド庭。
母親が立てていたようだ。
栗野辺りの村々は旧暦でしていた。
ツツジの花が咲く5月。
まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあった証言である。
「オツキヨウカ」に天高く竿を揚げる。
そのてっぺんに十字に括って取り付けたツツジ花を「テントバナ」と呼んでいた。
「テントバナ」を充てる漢字は「天道花」。
まさにお天とさんに捧げる「テントバナ」である。
場所は異なるがツツジの他にヤマブキやフジの花も結わえて立てている地域がある。
私の知る範囲であるが、現在もなおされている方は山添村の住民。
その人以外の隣近所もしていたが、今は見ることもない。
記憶伝承を話してくださった奈良市別所町の住民の他、吉野町小名に川上村高原にもあったやに聞く。
山間地だけでなく平たん地の田原本町にもあった。近年にイベント復活された天理市福住の事例もある。
また、大阪北部地域にも見られた「オツキヨウカ」。
現存する事例は極端に少ない。
続けて話してくださる植物の話題。
地域探訪に歩いて歴史や文化を知る歩こう会(※上龍門地域まちづくり協議会)に参加した際に知った「ヘラノキ」である。
ヘラの木で作ったモノに馬の鼻に取り付けるハナワ(※鼻環・鼻木)がある。
そのハナワに繋いで手繰る紐があった。
その紐はヘラノキの皮で作っていた。
ヘラノキの木肌は柔らかいからそれを利用していたという。
ヘラノキは九州や四国に自生する植物。
上龍門地域に見られるのはとても珍しい、という。
また、上出垣内に姫目(ひるめ)神社があり、12月半ばに姫目の祭りをしている、という。
姫目の神さんは姫神さん。
昔、子どもが出来なかった人がいた。
垣内に小川が流れていた。
そこで小石を拾って奉ったら、子どもは死産することなく、生まれた。
そのおかげをもって祭るようになったという。
栗野に関するさまざまな地域文化を話してくださるFさん。
そうこうしているうちに御供搗きも終わりかけ。
もち粉を塗した搗きたての餅は板に並べていた。
昔しは、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマであった。
今はゴクダマだけにしたが、数多く作るのはコモチ。
ゴクダマにゴクモチは別名にオゴク、コゴクと呼ぶ。
2段重ねのオカガミ餅もある。

コモチの個数はとにかく多い。
大なり小なりのコモチの大きさ。
一定量でなくそれぞれが餅取りをされるから多少のバラツキである。
これらコモチは午後からのお渡りに運ばなくてはならない。
そこで登場する木桶。
コモチを載せたままの板を抱えて木桶に寄せる。
手でごそっと移した木桶にいっぱい。

その上に大きく平べったい餅も入れる。
場合によってはゴクマキのように投げるそのモチはオゴクの呼び名もあるゴクダマである。
木桶は新しく作ったものもあれば古い形の桶もある。
古い方の木桶の底裏に寄進した日付けがあった。

区長さんとともに拝見した木桶の裏底面の墨書は「昭和三十四年度 三個新調の三号 岩神社氏子」だった。
古くなった木桶はタガが外れかけ。
そういうことからまた新たに作られた木桶も合わせて17個もある。
木桶に収めている間に他の人たちは餅板の後片づけ。
作業をしていた広間は掃除機で清掃するなど忙しく動き回る。
長机も片付けする。
その机に置いてあった大皿に盛ったこれは何であるのか。
初めて見る栗野の祝宴であるのか。
それとも・。

大皿に盛った魚は開きの焼き鯖。
よく見れば液体がある。
区長に氏子たちが話してくれたコレは「サカシオ(酒塩)」と呼ぶ食べ物。
酒をたっぷり落として焼き鯖を口にする。
御供搗きをしている最中に一服する。
その際に口にする「サカシオ(酒塩)」。
大皿は満々とたたえた酒びたし。
一口食べては酒を飲む習慣がある。
一人、二人・・・何人もの人たちが一服する度にいただく「サカシオ(酒塩)」。
いわば廻し飲みのあり方である。
御供搗きは終わったから、その作法は見られない。
実は、この「サカシオ(酒塩)」の習慣は一年に三度登場する。
前述したように、本日の夏祭りに10月の秋祭りと11月の亥の子祭りのすべてに御供搗きがあるから、また栗野に来てくれたら、見られるから、と云ってくれた。
積極的に拝見したい「サカシオ(酒塩)」。
秋祭りか亥の子祭りのいずれかに訪問、取材をお願いした。
ちなみに「サカシオ(酒塩)」はデジタル大辞泉に載っていた。
「魚や野菜の煮物に調味料として酒を入れること。または、その酒」とあったからあながち間違いではなさそうだが、それは料理法のこと。
「さかしおとは、日本酒を料理に使うこと、またはその酒のことをいう」と書いてあったNPO法人ブログもある。
また、食の総合出版の柴田商店ブログでは「酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。昆布の風味をつけることもある」とあった。
酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。
昆布の風味をつけることもある
栗野に見る「サカシオ(酒塩)」は、民俗観点から考えて、その料理をいただくことに意味がありそうにも思えるが・・・。

作業に遅れもなく、悠々と終わった針ケ谷垣内の氏子たちはゆったり寛いでいた。
正午より始まる直会である。
大広間に設営した神さん棚がある。

以前はお家でしていた祭り前の直会。
その場に祭る御簾屋(おすや)がある。
御簾(みす)で見えないようにしている神棚は、この日までは当屋のお家にあった。
当屋宅に祭る神さんである。
かつては当屋の家で御供搗きもしていたであろう。
岩神社へのお渡りも当屋から出発していたが、現在は場を移した集会所にも利用するときわ老人憩いの家。
この日だけは当屋家代わりの神住まいの場である。
榊を立て、お神酒に洗米、塩を供える。
下に祭壇を設けて鯛、キノコ、果物に生たまご、ソーメン、昆布、コーヤドーフ、野菜も供えていた。
榊で見え難いが、御簾屋の前に太い注連縄もある。
尾の方がピンと反った注連縄は真新しい。
区長や氏子たちが話してくれた御簾屋に納めた小石のこと。
この日でなく一週間か、10日前。
当屋の都合のいい日を選んで出かけた吉野川。
河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石。
旧暦閏年の場合の小石は13個になる小石納めの神さん棚は、御供搗きを始める前に設営した。
なお、小石拾いは現当屋と受け当屋の両人が揃って行くようだ。
拾った小石は半紙に包んで水行をする。
新しく拾ってきた小石に対して一年間を守った小石は岩神社の社殿周りに据えるあり方。
小石拾いに出かける地は通称が「大汝宮」と呼ぶ大名持(おおなもち)神社。
鎮座地は吉野町の河原屋。
その前を流れる清流に足を浸けて小石を拾う禊の場である。
これを「大汝宮(おなんじ)」参りと称する対象地域は数多いが、ここ栗野では、神さんの棚に納めるまでのそれを「コオリカキ」と呼んでいた。
この月の6月3日は、田植え終わりの垢離取りだった。
禊は榊の葉を小川に浸けることであるが、吉野川での小石拾いもまた禊をともなう垢離取り。
「コオリカキ」を充てる漢字は「垢離掻き」ではないだろうか。
このことは、神社境内に掲げる由緒書に「・・例祭前に、当屋と弟当屋(※次期当屋)が、吉野町河原湯大名持神社前の聖域である潮生渕(※しおぶち)に“垢離かき”と称して禊に行くことである。六根清浄の水浴をして12個の石を持ち帰り、当屋に設けられた須屋(※すや)に入れて例祭当日まで祀るのである」と書いてあった。
ちなみに現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に対して受け当屋はオトウトトーヤ(弟当屋)とも呼ぶ。
垣内で選ばれるそれぞれの当屋。
現当屋が住まいする垣内は針ケ谷。
今回の受け当屋が属する垣内は下垣内。
祭りの当番にあたる垣内の順は決まっている。
栗野は全戸で71戸であるが、実際に住む戸数はもっと少ないようだ。
栗野の村は、上出垣内から針ケ谷垣内、下出垣内、中出垣内から再び上出垣内に戻る四つの垣内に送る順送り。
夏祭りから秋祭り、亥の子祭りの当番垣内は順送り。
当番の祭りにあたった垣内の中から決めている当屋が務める。
但し、下出垣内は他の垣内より戸数が多いことから下出垣内にとっての廻りは2回続きになる。
時間ともなれば現当屋も受け当屋も着替える。
白のネクタイを締めたワイシャツ。
黒のスーツ姿に身構えた両人が迎える人は2人。
栗野区長のFさんと菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏のお二人。
親父さんの三家一彦宮司は以前にお会いしたことがある。
平成17年2月7日に行われた祈年祭。
拝殿に奉った牛面に天狗の面、お多福の面を置き、唐鋤と馬鍬も並べて行う神事はおんだ祭。
氏子の姿はなく、宮司お一人で斎行されていたことを思い出す。
会食を伴う祭り垣内の直会場は、かつて大宇陀町立田原小学校の栗野分校だった。
昭和38年、栗野分校は本校の田原小学校に統合され廃校になった。
その跡地に建築したときわ老人憩いの家は、村の集会所にも利用している。
上座に座った区長と三家禰宜に今回の夏祭りまでの期間を務めた兄当屋と次の秋祭りまでの当屋を受けた下出垣内に属する弟当屋が並んだ。
手前に並べた食卓テーブルに座った人たちは、兄当屋が属する針ケ谷垣内人たち。
中でも兄当屋家の両隣が主に手伝いをするが、針ケ谷垣内は6戸。
手伝いは垣内住民総出のようだ。

直会を始めるにあたって挨拶、口上を述べる兄当屋。
当屋を受けた日は、前年11月の亥の子祭りの日。
祭りを終えて受けた当屋は、ご自宅に神さんを迎えて神祭り。
それから8カ月間はお家で毎日を神祭りしていた。
受けたときも、今日の夏祭りも終え、受け当屋家が神さんを迎える時点までを担う兄当屋。
逆に本日受けた弟当屋は、神さんを迎えたら兄当屋に立ち位置が替わる。
そして、本日は早朝からのゴクツキ作業に感謝である。
お礼を述べて乾杯は区長に。
しばらくの時間を垣内の人たちと過ごす慰労の時間帯でもある。

午後2時に出発するまでの時間に笑顔で振るまっていたそうだ。
地元の堂々久(どどく)で昼食を摂って戻ったから聞いた栗野の直会に垣内の暮らしぶりがわかるようだ。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)