
かつて川東村の一つである大字平田は村屋坐弥冨都比売神社の郷中。
同神社の郷中は田原本町の平田、蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、金澤、東井上(ひがしいね)、西井上(にしいね)、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の14ケ大字の他、現在は天理市に属している遠田(とおだ)もある。
9月30日にはお神楽があると村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司・禰宜が話していた。
お神楽を勤めるのは神社鎮座地の蔵堂在住の女児巫女である。
集落の辻に提灯を掲げる。
参る人は少ないようだと云っていた。
大字平田の存在を聞いて訪れたのは一年前の平成25年9月28日。
集落南に春日神社が鎮座する。
境内には地区の会所があった。
大和磯城ライオンズクラブが寄贈した立て看板があった。
それによれば大字平田はのちに橘街道と呼ばれた古代の中ツ道西側に位置し、南北朝時代より郷名が初出するという。
春日神社には拝殿が見られない。
お神楽は本殿前でされるのであろうか。
建つ平田会所は元々が浄土宗善興寺。
本尊の薬師如来座像を安置する薬師堂でもあった。
30日の夕刻にされると聞いて訪れた大字平田には御神燈と書かれた提灯が立ててあった。
春日神社へ入る曲がり路や境内にもあった提灯である。
会所にはどなたもおられないが、床の間に掛軸が掲げられていた。

中央に「天照皇大神」。
右が「八幡大神」で、左は「春日大神」の文字が見える。
三社託宣の掛軸であろう。
しばらく待っておれば村の人がやってきた。
当地では未だご挨拶ができていない。
名刺を手渡して取材の主旨を伝えれば総代家まで走ってくれた婦人の行動が嬉しい。
総代の奥さんが鍵を開ける。
そのころには数人の人たちもやってきて会所にあがる。
小学六年生の女児巫女を連れてき禰宜もやってきた。
これより始まるお神楽は会所が場である。
「どうぞ上がってください」と云われて会所にあがる。
三社託宣掛軸の前には大盛りの洗い米が供えられている。
お参りをされる村の人は座布団に座る。
そうして始まったお神楽は、はじめに神さんとされる掛軸に向かって深く拝礼する。
立ちあがって鈴をもつ。
シャンシャンシャンと鈴を鳴らしても一度拝礼。
袖をもって左手を挙げる。
右手の鈴をそえている。
時計回りにくるりと旋回する。

シャンシャンの鈴の音が心地いい。
右手を挙げてシャンシャンシャン。
今度は逆に反時計回りに旋回する。
掛軸正面に戻ってシャンシャンシャン。
再び時計回りに舞う神楽は平神楽。
美しい舞いである。
そうして拝礼をされた女児巫女は頭を下げた参拝者の前に立って鈴を振る。

いわゆる祓いの鈴である。
祓ってもらった参拝者は神楽料を巫女の手に納める。
やってきた参拝者のお神楽は家族単位。
複数人であろうが、お一人であってもお神楽は一度である。
大字平田は22戸。
お神楽は旧村の行事だけに新興住宅は含まれない17戸がやってくる。
年寄りばかりになった平田集落であると云うが、小さなお子さんも連れだってお祓いを受けていた。
「ようお参りくださいました」と御礼を述べる禰宜はずっと立ち会っていた。

参った子供にはマツリ総代から手渡されるお菓子を手にして下がる。
参拝の合間に拝見した三社託宣の掛軸には「守屋廣治 拝書 六十七歳筆」とあった。
守屋禰宜の話しによれば天保年間(1830~)に勤めていた七代前の宮司であると云う。
およそ30分で終えた平田のお神楽。
これより3時間前は役員が参拝する春日神社本殿の神事が行われていたそうだ。
集落辻に立てていた御神燈の提灯は提灯当番が設営する。
提灯立ては年に二度。
10月9日に行われる村屋坐弥冨都比売神社の宵宮の日である。
村の人が参拝するのは村屋坐弥冨都比売神社であるが、提灯は立てておくと云う。
その日は村屋坐弥冨都比売神社の「オオマツリ」と呼んでいる大字平田。
それに対してこの日の行事は「コマツリ」と呼んでいるのである。
この夜のお神楽の場は会所。
薬師堂でもある。
毎月8日は薬師講の営みがある。
村の婦人の営みは昼過ぎ。
本尊に向かって般若心経を三巻と薬師真言を7回唱えていると云う。
毎月一度の営みであるが、カラオケなどの催しもある。寄りあう日は会所を清掃する婦人たちの正式名称は「みのり会」。
実りある年齢だと笑顔で話すが、男性らは親しみを込めて「おばば会」と呼んでいた。
(H26. 9.30 EOS40D撮影)
同神社の郷中は田原本町の平田、蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、金澤、東井上(ひがしいね)、西井上(にしいね)、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の14ケ大字の他、現在は天理市に属している遠田(とおだ)もある。
9月30日にはお神楽があると村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司・禰宜が話していた。
お神楽を勤めるのは神社鎮座地の蔵堂在住の女児巫女である。
集落の辻に提灯を掲げる。
参る人は少ないようだと云っていた。
大字平田の存在を聞いて訪れたのは一年前の平成25年9月28日。
集落南に春日神社が鎮座する。
境内には地区の会所があった。
大和磯城ライオンズクラブが寄贈した立て看板があった。
それによれば大字平田はのちに橘街道と呼ばれた古代の中ツ道西側に位置し、南北朝時代より郷名が初出するという。
春日神社には拝殿が見られない。
お神楽は本殿前でされるのであろうか。
建つ平田会所は元々が浄土宗善興寺。
本尊の薬師如来座像を安置する薬師堂でもあった。
30日の夕刻にされると聞いて訪れた大字平田には御神燈と書かれた提灯が立ててあった。
春日神社へ入る曲がり路や境内にもあった提灯である。
会所にはどなたもおられないが、床の間に掛軸が掲げられていた。

中央に「天照皇大神」。
右が「八幡大神」で、左は「春日大神」の文字が見える。
三社託宣の掛軸であろう。
しばらく待っておれば村の人がやってきた。
当地では未だご挨拶ができていない。
名刺を手渡して取材の主旨を伝えれば総代家まで走ってくれた婦人の行動が嬉しい。
総代の奥さんが鍵を開ける。
そのころには数人の人たちもやってきて会所にあがる。
小学六年生の女児巫女を連れてき禰宜もやってきた。
これより始まるお神楽は会所が場である。
「どうぞ上がってください」と云われて会所にあがる。
三社託宣掛軸の前には大盛りの洗い米が供えられている。
お参りをされる村の人は座布団に座る。
そうして始まったお神楽は、はじめに神さんとされる掛軸に向かって深く拝礼する。
立ちあがって鈴をもつ。
シャンシャンシャンと鈴を鳴らしても一度拝礼。
袖をもって左手を挙げる。
右手の鈴をそえている。
時計回りにくるりと旋回する。

シャンシャンの鈴の音が心地いい。
右手を挙げてシャンシャンシャン。
今度は逆に反時計回りに旋回する。
掛軸正面に戻ってシャンシャンシャン。
再び時計回りに舞う神楽は平神楽。
美しい舞いである。
そうして拝礼をされた女児巫女は頭を下げた参拝者の前に立って鈴を振る。

いわゆる祓いの鈴である。
祓ってもらった参拝者は神楽料を巫女の手に納める。
やってきた参拝者のお神楽は家族単位。
複数人であろうが、お一人であってもお神楽は一度である。
大字平田は22戸。
お神楽は旧村の行事だけに新興住宅は含まれない17戸がやってくる。
年寄りばかりになった平田集落であると云うが、小さなお子さんも連れだってお祓いを受けていた。
「ようお参りくださいました」と御礼を述べる禰宜はずっと立ち会っていた。

参った子供にはマツリ総代から手渡されるお菓子を手にして下がる。
参拝の合間に拝見した三社託宣の掛軸には「守屋廣治 拝書 六十七歳筆」とあった。
守屋禰宜の話しによれば天保年間(1830~)に勤めていた七代前の宮司であると云う。
およそ30分で終えた平田のお神楽。
これより3時間前は役員が参拝する春日神社本殿の神事が行われていたそうだ。
集落辻に立てていた御神燈の提灯は提灯当番が設営する。
提灯立ては年に二度。
10月9日に行われる村屋坐弥冨都比売神社の宵宮の日である。
村の人が参拝するのは村屋坐弥冨都比売神社であるが、提灯は立てておくと云う。
その日は村屋坐弥冨都比売神社の「オオマツリ」と呼んでいる大字平田。
それに対してこの日の行事は「コマツリ」と呼んでいるのである。
この夜のお神楽の場は会所。
薬師堂でもある。
毎月8日は薬師講の営みがある。
村の婦人の営みは昼過ぎ。
本尊に向かって般若心経を三巻と薬師真言を7回唱えていると云う。
毎月一度の営みであるが、カラオケなどの催しもある。寄りあう日は会所を清掃する婦人たちの正式名称は「みのり会」。
実りある年齢だと笑顔で話すが、男性らは親しみを込めて「おばば会」と呼んでいた。
(H26. 9.30 EOS40D撮影)