
9月15日に立ち寄った高取町。
ダイジングサンを祭る講中を調べていた。
小島神社の近くにあると教えてくださった写友人。
電話口からの連絡であったので街道をくまなく探したが見つからなかった。
写友人の話しによれば2軒の講中で16日の朝に大神宮の石塔にお供えをするらしい。
場所が判らなければ講中の存在も掴めるどおりではない。
小島神社から南に抜ける街道がある。
旧家と思われる建物が建ち並ぶ佇まいだ。
二人の婦人が立ち話をしていた。
思い立って尋ねてみるものの大神宮はあるが講中ではないので判らないと云うが、大神宮の石塔は八王子社の前にもあるという。
探してみれば確かに建っていた大神宮の石塔にある年代刻印は「寛政十一年(1799)己未歳 世話人 惣兵衛 當村 奥市良 五月吉日」と書いてあったらしい。
古宮講でもある婦人が案内してくださった。
そこへ現れたのは明神講でもある婦人が聞きつけてやってきた。
二人は八王子社で般若心経を唱えている清水谷の八王子講でもある。
ちなみに清水谷には古宮講、明神講の他に元宮講、中宮講を入れて四つの宮講があるようだ。
清水谷に鎮座する高生(たかお)神社の宮講のようである。
八王子講の営みは、9月28日と7月14日に行われていると聞いてやってきたこの日。
二週間前に建っていた大神宮の石塔は消えていた。
二人の婦人が云うには、時期は未定だが氏神さんが鎮座する場に移すことになったと云っていたのであるが、この日までに移していたのであった。
八王子社の前庭はすっきりとしたのである。
八王子社のご神木は藤と樫の木。台風によって倒れてしまった。
当時の藤は前の道まで覆いかぶさるように繁っていた。
数多くの花をつけて花見に最適な様相だったそうだ。
落ちた花弁はまるで絨毯のようになっていたと話す講中。
今では7軒になったが、最近になって数軒が辞退されたという講中は10軒だった。
少なくなったが、今でも年に2度は八王子社に向かって般若心経を唱えている。
清水谷の八王子講が云うには八王子社を「清水谷のはっちょさん」と呼んでいる。
「ハツオウジサン」が訛って「はっちょさん」である。
親しみを込めてそういうのであろう。
平成4年2月に“ふるさとを学ぶ”会が編纂した史料にはそう書いていた。
その史料によれば大神宮が元々建っていたのは札の辻だったようだ。
八王子社の年代を示す刻印は燈籠にある。
北の燈籠には「村中 講中安全 慶応丙寅(四年:1868)三月日」。
南の燈籠は「文化四卯(1807)八月 願主 橋本宗次 小西長兵□(衛であろう)」であったと史料にあったが、私の眼では南の燈籠は「宝暦二年(1752)三月日」のようだった。
不確かな眼であるゆえ見誤りかも知れない。
夕暮れ時間ともなれば講中が集まってきた。
巻き寿司と高取町の和菓子屋から買ったオヤキを供える。
灯明箱に入れたローソクに火を灯す。

二つの燈籠にも火を灯すころは真っ暗である。
この時期の夕暮れはつるべ落としである。
講中が揃えば般若心経を唱えるが一人は遅れている。
しばらくは待ってみるものの火が消える。
講中は提灯を掲げた拝殿と呼ぶ八王子社向かいの建物にあがっていた。
建物の寄進者は費用を捻出されて昭和50年7月14日に建てた。
そのころであるのか定かでないが、かつては燈籠脇に建てていたそうだ。
揃ったところで、ローソクの火を灯した拝殿前の灯明立て。
僅かな風で消えてしまうが、導師が拍子木を打って般若心経が始まった。

始めに2礼、2拍手、1礼。
「おがまさしてもらいます」と声をかけて唱えた。
以前は15編も唱えていたが、高齢者は声が出なくなったと云って、
今では半分にした7編(数取りはマッチ棒)である。
付近には灯りはなく暗闇。
建物の灯りとローソクの火だけでは前庭までは届かない。
拍子木と婦人たちが唱える心経が聞こえるだけだ。

ちなみに講中には講箱があるらしい。
史料によれば蓋に「慶応四年戊辰九月 求之 講中」とあり、13人の男性の名を墨書されているようだ。
いつの時代に男性から替って婦人になったのか判らないが、この日に参集された一人の婦人が云うには、嫁入りしたころの昭和36年の直会は講中の家であったそうだ。
夏はヒヤムギを食べていた。
「すっごい、ご馳走で振舞われる講家で一日中過ごしていた」と話す。
今では拝殿内の直会。
お茶を飲んで下げた御供をよばれる。
この日の営みは婦人たちだけであるが、7月14日は子供もやってくるそうだ。
柿の葉寿司やオゼン(御膳)は20軒の各戸が供える。
営みを終えて下げてよばれていると話していたというだけに、是非とも訪問したいものだ。
(H26. 9.28 EOS40D撮影)
ダイジングサンを祭る講中を調べていた。
小島神社の近くにあると教えてくださった写友人。
電話口からの連絡であったので街道をくまなく探したが見つからなかった。
写友人の話しによれば2軒の講中で16日の朝に大神宮の石塔にお供えをするらしい。
場所が判らなければ講中の存在も掴めるどおりではない。
小島神社から南に抜ける街道がある。
旧家と思われる建物が建ち並ぶ佇まいだ。
二人の婦人が立ち話をしていた。
思い立って尋ねてみるものの大神宮はあるが講中ではないので判らないと云うが、大神宮の石塔は八王子社の前にもあるという。
探してみれば確かに建っていた大神宮の石塔にある年代刻印は「寛政十一年(1799)己未歳 世話人 惣兵衛 當村 奥市良 五月吉日」と書いてあったらしい。
古宮講でもある婦人が案内してくださった。
そこへ現れたのは明神講でもある婦人が聞きつけてやってきた。
二人は八王子社で般若心経を唱えている清水谷の八王子講でもある。
ちなみに清水谷には古宮講、明神講の他に元宮講、中宮講を入れて四つの宮講があるようだ。
清水谷に鎮座する高生(たかお)神社の宮講のようである。
八王子講の営みは、9月28日と7月14日に行われていると聞いてやってきたこの日。
二週間前に建っていた大神宮の石塔は消えていた。
二人の婦人が云うには、時期は未定だが氏神さんが鎮座する場に移すことになったと云っていたのであるが、この日までに移していたのであった。
八王子社の前庭はすっきりとしたのである。
八王子社のご神木は藤と樫の木。台風によって倒れてしまった。
当時の藤は前の道まで覆いかぶさるように繁っていた。
数多くの花をつけて花見に最適な様相だったそうだ。
落ちた花弁はまるで絨毯のようになっていたと話す講中。
今では7軒になったが、最近になって数軒が辞退されたという講中は10軒だった。
少なくなったが、今でも年に2度は八王子社に向かって般若心経を唱えている。
清水谷の八王子講が云うには八王子社を「清水谷のはっちょさん」と呼んでいる。
「ハツオウジサン」が訛って「はっちょさん」である。
親しみを込めてそういうのであろう。
平成4年2月に“ふるさとを学ぶ”会が編纂した史料にはそう書いていた。
その史料によれば大神宮が元々建っていたのは札の辻だったようだ。
八王子社の年代を示す刻印は燈籠にある。
北の燈籠には「村中 講中安全 慶応丙寅(四年:1868)三月日」。
南の燈籠は「文化四卯(1807)八月 願主 橋本宗次 小西長兵□(衛であろう)」であったと史料にあったが、私の眼では南の燈籠は「宝暦二年(1752)三月日」のようだった。
不確かな眼であるゆえ見誤りかも知れない。
夕暮れ時間ともなれば講中が集まってきた。
巻き寿司と高取町の和菓子屋から買ったオヤキを供える。
灯明箱に入れたローソクに火を灯す。

二つの燈籠にも火を灯すころは真っ暗である。
この時期の夕暮れはつるべ落としである。
講中が揃えば般若心経を唱えるが一人は遅れている。
しばらくは待ってみるものの火が消える。
講中は提灯を掲げた拝殿と呼ぶ八王子社向かいの建物にあがっていた。
建物の寄進者は費用を捻出されて昭和50年7月14日に建てた。
そのころであるのか定かでないが、かつては燈籠脇に建てていたそうだ。
揃ったところで、ローソクの火を灯した拝殿前の灯明立て。
僅かな風で消えてしまうが、導師が拍子木を打って般若心経が始まった。

始めに2礼、2拍手、1礼。
「おがまさしてもらいます」と声をかけて唱えた。
以前は15編も唱えていたが、高齢者は声が出なくなったと云って、
今では半分にした7編(数取りはマッチ棒)である。
付近には灯りはなく暗闇。
建物の灯りとローソクの火だけでは前庭までは届かない。
拍子木と婦人たちが唱える心経が聞こえるだけだ。

ちなみに講中には講箱があるらしい。
史料によれば蓋に「慶応四年戊辰九月 求之 講中」とあり、13人の男性の名を墨書されているようだ。
いつの時代に男性から替って婦人になったのか判らないが、この日に参集された一人の婦人が云うには、嫁入りしたころの昭和36年の直会は講中の家であったそうだ。
夏はヒヤムギを食べていた。
「すっごい、ご馳走で振舞われる講家で一日中過ごしていた」と話す。
今では拝殿内の直会。
お茶を飲んで下げた御供をよばれる。
この日の営みは婦人たちだけであるが、7月14日は子供もやってくるそうだ。
柿の葉寿司やオゼン(御膳)は20軒の各戸が供える。
営みを終えて下げてよばれていると話していたというだけに、是非とも訪問したいものだ。
(H26. 9.28 EOS40D撮影)