昭和62年に発刊された大和郡山市文化財審議会編の『ふるさと大和郡山市歴史辞典』によれば、小泉町北之町にある不動院は京都の真言宗醍醐寺派三宝院の末寺。
寛文十二年(1672)僧光順の創立といわれる。
本尊は木造愛染明王坐像。
境内にある地蔵堂は、明治七年、富雄川に架かる橋の西詰にあったものを移したとある。
不動院で「アイゼンサン」が行われていることを知ったのは送迎患者のYさんが云った言葉である。
「7月1日の10時から祭りがあって、参拝する子供たちにお菓子が配られる」と話していた。
大和郡山から西の斑鳩町へ抜ける国道9号線。
富雄川に架かる橋を渡って信号右側に建つ不動院。
境内にある石造の十三重塔が目に入る。
普段から通る道ではあるが、気にもとめていなかった。
地蔵堂もあるので、地蔵盆も行われていることは知っている。
たしかテントを立てていたかと思うが、在所にはいつも人の姿が見られないために、前もって確認することもできなかった。
聞いていた日付けが間違っていなければ、この日だろうと思って出かけた。
車を付近に停めさしてもらって立ち寄った不動院からはお念仏のような声が聞こえてきた。
お堂には住職がおられるのであろうと思って近寄った。
参拝者はお堂におられるのであろう。
声が聞こえてくるが人の姿が見当たらない。
不動院のご本尊は木造愛染明王坐像。
思わず手を合わせたお姿である。
立って拝見していたらお堂から女性が出てこられた。
訪問した理由を伝えたところ、法要であると云う。
婦人は住職の奥さんであった。
数年前から身体をいわした住職は入院加療中の身であった。
法要はそんな身体であっても病院を一時的に退院させてもらって行っていると云う。
ご真言を唱えて般若心経。
「おんまからぎゃばそう」と聞こえてくる。
一時的退院のお勤めは1時間余りの法要。
数年前にご自身が収録されたカセットテープの音源に合わせるお勤めは痛々しくも感じる。
不動院は檀家をもたない寺院である。
かつては信者さんが参りに来られていた。
護摩木を焚いて護摩供をしていた。
信者さんは子供も連れてやってきた。
そういえば聞こえてきたカセットテープには子供の声や賽銭を投入する音もあった。
法要を終えてお菓子を配っていたと云うのは、Yさんが話したその様相であったのだ。
法要を終えた住職は病める身体であるにも拘わらず不動院に纏わるお話しをしてくださった。
ありがたいことである。
不動院は寛文年間の建立であると判ったのは西南にあった鬼瓦である。
幕末時代に屋根が落ちてお堂を改修する際に見つかった年代記銘の鬼瓦は西南だけであったそうだ。
たしか棟木もあったと指をさされたが、拝見するには至らなかった。
小泉町には諸寺があるが、いずれも寛文年間に建てられたと話されたが調べてみれば、小泉城の城主(小泉四郎)時代にもあった。
戦争が終わって寺を維持するのが精いっぱいだったというご高齢の住職。
不動院の本来は祈祷寺。
行者さんや修験者の寺であった。
不動院には祈祷師が居て、祈祷の鑑札を発行していた元締めであった。
いつしかそれもできなくなって寂れていったと云う。
不動院の北側に池がある。
その西側の高台に建っているのが臨済宗大徳寺派の慈光院である。
石州流茶道の祖である小泉藩主片桐石州が父親の片桐貞隆(賤ヶ岳の七本槍の一人に挙げられる片桐且元の弟)の菩提寺として寛文三年(1663)に創建した。
住職の話しによれば、元和九年(1623)、小泉藩初代藩主に就いた片桐の殿さんの家来たちが待機する地が不動院であったと云う。
小泉町は片桐の殿さんの支配下城下町。
今でも古き佇まいをみせる内堀がある。
さて、不動院のご本尊は厨子に納められた木造愛染明王坐像と前述したが、住職の話しによれば、西大寺の愛染明王坐像と同じ作者が製作したと伝え聞いていると云う。
ご本尊の胎内に製作仏師の名や年代記銘があったそうだ。
西大寺の愛染明王坐像は宝治元年(1247)に仏師善円が造ったとされる重要文化財。
真相はいかにである。
本尊の脇侍には数々の仏像が安置されている。
右に不動明王像、大日如来金銅仏、弘法大師像。
左には赤鬼・青鬼を配置した行者像、馬に乗る馬頭観音だ。
いずれも愛染明王と同様にふっくらと優しいお顔だちである。
一年に一度のご開帳であるアイゼンサンの日。
普段は扉を閉めている。
拝見したいと願われても一切応じることのできない身であることを記しておく。
(H26. 7. 1 EOS40D撮影)
寛文十二年(1672)僧光順の創立といわれる。
本尊は木造愛染明王坐像。
境内にある地蔵堂は、明治七年、富雄川に架かる橋の西詰にあったものを移したとある。
不動院で「アイゼンサン」が行われていることを知ったのは送迎患者のYさんが云った言葉である。
「7月1日の10時から祭りがあって、参拝する子供たちにお菓子が配られる」と話していた。
大和郡山から西の斑鳩町へ抜ける国道9号線。
富雄川に架かる橋を渡って信号右側に建つ不動院。
境内にある石造の十三重塔が目に入る。
普段から通る道ではあるが、気にもとめていなかった。
地蔵堂もあるので、地蔵盆も行われていることは知っている。
たしかテントを立てていたかと思うが、在所にはいつも人の姿が見られないために、前もって確認することもできなかった。
聞いていた日付けが間違っていなければ、この日だろうと思って出かけた。
車を付近に停めさしてもらって立ち寄った不動院からはお念仏のような声が聞こえてきた。
お堂には住職がおられるのであろうと思って近寄った。
参拝者はお堂におられるのであろう。
声が聞こえてくるが人の姿が見当たらない。
不動院のご本尊は木造愛染明王坐像。
思わず手を合わせたお姿である。
立って拝見していたらお堂から女性が出てこられた。
訪問した理由を伝えたところ、法要であると云う。
婦人は住職の奥さんであった。
数年前から身体をいわした住職は入院加療中の身であった。
法要はそんな身体であっても病院を一時的に退院させてもらって行っていると云う。
ご真言を唱えて般若心経。
「おんまからぎゃばそう」と聞こえてくる。
一時的退院のお勤めは1時間余りの法要。
数年前にご自身が収録されたカセットテープの音源に合わせるお勤めは痛々しくも感じる。
不動院は檀家をもたない寺院である。
かつては信者さんが参りに来られていた。
護摩木を焚いて護摩供をしていた。
信者さんは子供も連れてやってきた。
そういえば聞こえてきたカセットテープには子供の声や賽銭を投入する音もあった。
法要を終えてお菓子を配っていたと云うのは、Yさんが話したその様相であったのだ。
法要を終えた住職は病める身体であるにも拘わらず不動院に纏わるお話しをしてくださった。
ありがたいことである。
不動院は寛文年間の建立であると判ったのは西南にあった鬼瓦である。
幕末時代に屋根が落ちてお堂を改修する際に見つかった年代記銘の鬼瓦は西南だけであったそうだ。
たしか棟木もあったと指をさされたが、拝見するには至らなかった。
小泉町には諸寺があるが、いずれも寛文年間に建てられたと話されたが調べてみれば、小泉城の城主(小泉四郎)時代にもあった。
戦争が終わって寺を維持するのが精いっぱいだったというご高齢の住職。
不動院の本来は祈祷寺。
行者さんや修験者の寺であった。
不動院には祈祷師が居て、祈祷の鑑札を発行していた元締めであった。
いつしかそれもできなくなって寂れていったと云う。
不動院の北側に池がある。
その西側の高台に建っているのが臨済宗大徳寺派の慈光院である。
石州流茶道の祖である小泉藩主片桐石州が父親の片桐貞隆(賤ヶ岳の七本槍の一人に挙げられる片桐且元の弟)の菩提寺として寛文三年(1663)に創建した。
住職の話しによれば、元和九年(1623)、小泉藩初代藩主に就いた片桐の殿さんの家来たちが待機する地が不動院であったと云う。
小泉町は片桐の殿さんの支配下城下町。
今でも古き佇まいをみせる内堀がある。
さて、不動院のご本尊は厨子に納められた木造愛染明王坐像と前述したが、住職の話しによれば、西大寺の愛染明王坐像と同じ作者が製作したと伝え聞いていると云う。
ご本尊の胎内に製作仏師の名や年代記銘があったそうだ。
西大寺の愛染明王坐像は宝治元年(1247)に仏師善円が造ったとされる重要文化財。
真相はいかにである。
本尊の脇侍には数々の仏像が安置されている。
右に不動明王像、大日如来金銅仏、弘法大師像。
左には赤鬼・青鬼を配置した行者像、馬に乗る馬頭観音だ。
いずれも愛染明王と同様にふっくらと優しいお顔だちである。
一年に一度のご開帳であるアイゼンサンの日。
普段は扉を閉めている。
拝見したいと願われても一切応じることのできない身であることを記しておく。
(H26. 7. 1 EOS40D撮影)