
大宇陀栗野の岩神社にて夏祭り神事を終えた垣内の人たち。
神事を終えた斎主が帰り支度をしていた社務所。
これより当屋渡しの儀式が行われる。
神事を終えたら社務所に張っていた幕を下す。
神紋は菱に「岩」を象った紋章。
社務所が建っている石垣に座っているご婦人たち。
賑やかかどうかわからないが談笑している。
境内は親とともにやってきた子供たちも大勢。

老若男女問わず、栗野の氏子たちがやってきた。
地域の氏神さんに手を合わせて健康家族を願っているのだろう。

先に済ませておくお賽銭。
祈願成就のお礼を神さんに奉る。
元々の賽銭はお米。
古くは散米だったそうだ。
いわゆるとか幣物(へいもつ)。
神さんから福をいただいたお礼に感謝して奉るのが賽銭であるとウキペディアに書いてあった。
背を屈めて腰を落としながら投入する感謝の賽銭。
今日は、栗野の夏祭りだけに五色旗は引き揚げずに立てたまま。
右に鏡と勾玉、左は刀の五色の御旗に感謝の形であろう。
境内の賑やかさと違って厳粛な儀式がこれより始まる。
上座に就いた2人の当屋。
白ネクタイを結んだワイシャツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿のアニトーヤ(兄当屋)と受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)に区長。
列席者はアニトーヤが属する針ケ谷垣内氏子にオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。
これより区長立会の下出垣内総代の進行で当屋引継ぎの儀式を行う。
お神酒とスルメに昆布を盛った皿を持つ2人。
まずはカワラケを手にしたアニトーヤから。

お神酒を注いで飲み干す一杯。
スルメと昆布を手受けして口にする。
続けてオトウトトーヤも口にする。

お神酒にスルメ昆布を差し出す2人も同じように口にする。
そして参席する氏子たちにも同様にする献(※こん)の作法にカワラケは一枚。
いわゆるお神酒の飲みまわしである。
一口いただくお酒は一献。
これを三杯すれば三献(※さんこん)の儀であるが、栗野は一献の儀のようだ。

ひと通り、献の儀を終えたら区長の挨拶。
前年秋、11月の亥の子祭りのときに祭り当屋を受けたアニトーヤにご苦労さまと慰労の言葉を、受けるオトウトトーヤには、これからの祭りによろしくお願いしたいと紹介された。

そして、アニトーヤは8カ月間を務めさせてもらった感謝を述べ、続いてオトウトトーヤは、恙なく務めさせていただきますから、どうぞよろしくお願いします、と参席する両垣内の氏子たちに向かって挨拶された。
儀式を終えた祭りの人たちは、午後3時より始めるゴクマキの場に動いた。
今日まで務めたアニトーヤも新しく任に就いたオトウトトーヤも烏帽子被りの裃姿でゴクマキ。

区長も垣内総代たちも元気よく今朝に搗いた御供餅を撒く。
境内に集まった老若男女の氏子たち。
笑顔で放り投げるゴクマキ。

ジャスト手にするゴクマキ。
笑顔溢れる顔でゲットする。
手にしたビニール袋は餅でいっぱい。
木桶に盛った御供餅は2種類。
数多く作ったコモチが空中に飛ぶ。

そして平べったい餅の大判ゴクダマも飛ぶ。
歓声が飛び交うゴクマキの情景はどことも同じであるが、カメラでとらえるのは難しい。
すべてを撒き終えるまで10分もかからない短時間で行われた栗野のゴクマキ。

戦利品を手にした氏子たちはお家に戻っていった。
写真ばかり撮っていたら御供餅も拾えんかったやろ、と声をかけてくれたFさん。
旦那さんとともに餅集めをしていたからぎょうさんあるから、持って帰り、とお土産にくださった。
餅を手にした氏子たちは戻っていったが、当屋引継ぎに立ち会った人たちは、大事な役目がある。
この日に受けた当屋の家に、神さん棚の御簾屋(おすや)を送る、いわば神送りの儀式に就く。
朝に結った御簾屋の注連縄に神饌、御供も、本日の祭り日にずっと集会所に坐していた。

8カ月間も前当屋家で過ごしてきただけに、名残惜しそうに御簾屋(おすや)に触れる前当屋。
これより始める御簾屋の解体作業。
実は、組立式構造だった。
神饌、御供を下げる。
神具に御供皿、三方などは箱に収める。
御簾屋に架けていた注連縄も外すが、神さんを祭っている御簾(※みす)を外すことはない。
解体したのは御供台だけだった。
箱詰めしたそれぞれの祭具とともに御簾屋は、軽トラに載せて運ぶ。
御簾屋は、倒れないように支える人足も就くし、運転手も一層の注意を払って移動した。
作業を手伝う両垣内の人たち。

受け当屋の家に着いたら、早速動きだす。
慎重に運ばれた御簾屋(おすや)は、奥の座敷に設営。
先に設えた受け当屋家の玄関にかける注連縄かけ。

当主自らかける注連縄は、神さんを迎えた証しであろう。
前当屋とともに調える新しき祭りの神さん。

吉野町の河原屋に鎮座地する大名持(おおなもち)神社に詣で。
神社前から河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石は、受け当屋の御簾屋内に据えた。

禊の場に浸かって拾い集めたコオリカキ(※垢離掻き)によって授かった受けた神さんである。
神さんの棚ができたら、次は神饌御供を並べる御供台の調整。
先ほど解体したばかりの御供台を元の通りに垣内の手伝いさんたちが組み立てた。
そして神饌御供もまた前当屋とともに調える御供並べ。

生鯛の配置に野菜、果物も並べていた後方に床の間がある。
その床の間に掲げた掛図である。
中央は天照皇大神。
右に八幡大神、左に春日大神を配した三社託宣の掛け軸。
名号と三神の姿を現した託宣図である。
聞き取りは失念したので明白ではないが、たぶんに日待ち講の存在が考えられる。
その床の間に見たことのない一つの祭具を立てていた。

御供餅搗きのときに区長が話してくれた紙で作った“ハナ”である。
栗野の自治会が伝承してきた十二薬師さん行事に供えた“ハナ”。
まさかの1本が受け当屋の床の間に飾っていたとは・・。
かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。
現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。
かつては金、銀、赤、青、緑の五色だった”ハナ“。
今は、少なくなった三段の”ハナ”飾りに円形状の赤、青、緑の折り紙飾り。
その姿は、まるで傘のように見える。
十二薬師さん行事は9月初めにしていると聞いている。
是非とも伺いたい栗野の仏事行事である。
前列に座る両当屋に垣内の手伝いが脇を。
後方に座した手伝いも座して拝礼する神迎えの神事。
この場の祭礼に神職が関わることのない垣内の祭りごと。
神さんの棚に置いたローソクに火を灯し。

神式に則り、一同揃って2礼2拍、1礼の神拝で終える。
こうして祭りの神さんをご自宅に招き入れた受け当屋のM家。
これより手伝ってくださった垣内の人たちを慰労にもてなす座敷に場を移す。
送り手の針ケ谷垣内からは2人。
受け手の下出垣内も2人。
下出垣内のお一人は、この日の昼食に伺った食事処の堂々久(どどく)の店主のTさん。
F区長お薦めの和食店の食事はとても美味しかった。
その堂々久店主が用意してくれたお店の舟盛りとオードブル盛りでもてなす当屋の摂待。
店主と息子さんが料理した堂々久料理。
舟盛りのお造りは、鯛一尾からブリ、マグロ、サーモンに鮑。オードブル盛りは、でっかいエビフライに鶏の唐揚げ、ソーセージ、ハム、さつま揚げ、烏賊のマリネ、中華クラゲに雲丹盛りに鰹のタタキなどなど。
食べていきやと云われて、同行取材していた写真家Kさんとともに、席につく。

美味しい料理を囲んで和やかに歓談される。
話題は、栗野の祭り、行事につきる。
大字栗野の垣内は針ケ谷垣内に下垣内。
中出垣内に上垣内の4垣内による務める当番垣内の廻り。
今回の受け当屋に神送りした垣内は針ケ谷垣内。
他の垣内よりも、軒数がいちばん少ない垣内。
受けた当屋は下垣内。軒数が多いことから、二つに分けて受けている。
受ける垣内の中から当屋を選んで岩神社の三大祭に従事する。
この日の午後に終えた大祭は田植え終いの夏祭り。
次の大祭は、10月に行われる秋祭り。
その次が、11月の亥の子祭り。
そして翌年の夏祭りへ送る三大祭。
毎年、毎年に当番垣内を交替し、大祭を繋いできた栗野の年中行事。
来年は、祭りごとのあり方を大幅に見直す大改正の年。
神事ごとは継続するが、労力など負荷が大きい御供搗き、ゴクマキは秋祭りだけに絞って一本化。
現在はまだ決まっていないが、当屋受け、神送りのあり方も見直し。
翌年の総会をもって決定するようだ。
神さんを迎えた下出垣内。
平成30年は、秋祭りと亥の子祭りが2回連続する当たり年。
その次の祭りを受ける垣内は、下出垣内とほぼ同様の軒数は多い中出垣内。
夏祭りを受けるのか、それとも一本化する秋祭りに受けるのか、現在は明確になっていない。
その秋祭りのヨイミヤの御供に特徴がある。
一つは、ムシゴク(蒸し御供)。
二つ目はとコウジブタに詰めた餅。
この餅は、細かく切ってキリモチにするヨイミヤの御供に対して、翌日のマツリの御供は甘酒が主になる、という。
岩神社の年中行事は三大祭だけでなく、他にも行事はある。
2月の節分の日。
当屋が朝いちばんに供える節分の豆。
その後にやってくる参拝者は豆を供えて、先にあった当屋の豆をもらって帰る。
次の参拝者もまた豆を供えて、先に参っていた人が奉った豆をもらって帰る、いわゆる豆交換。
時間は特に決まっていない節分の日のあり方である。
また、宮参りに岩神社に参拝する家族さんはお菓子をもってくる。
宮参りがあると知らされた子供たちは、家族さんが配るお菓子目当てにやってくる。
宮参りのあり方を聞いて思い出した大和郡山市額田部の推古神社の初宮参り。
平成24年1月14日に参拝されたご家族さんの承諾を得て撮らせてもらった初宮参り。
お参りを済ませた家族さんに近寄ってきた地元の小さな子に差し上げた匂い袋。
初宮参りの赤ちゃんが、村の子どもたちに仲間入りをするために配った匂い袋である。
お菓子と匂い袋の違いはあるが、お菓子もまた仲間入りの手土産ではないだろうか。
今もこうした習俗のある栗野の民俗に当屋のM家は今もなお十五夜の中秋の名月に芋名月をしている、という。
自家栽培のズイキ芋の子を芋洗い。
その洗いに、一枚板をもって芋洗い。
芋の子を入れたバケツに水入れ。
板を縦位置に置いて、ゴシゴシ洗う芋洗い。
主に、母親がしている芋洗いに興味が湧くM家の民俗は、豆名月もしているそうだ。
かつては「オツキヨウカ」の習俗もしていたそうだ。
「オツキヨウカ」に竿を立てる場は家のカド庭。
栗野辺りの村々は旧暦でしていた。
ツツジの花が咲く5月。
まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあったが、今はどの家もしていない。
芋名月に豆名月はお家の行事。
縁繋がりに、どうぞ、と伝えられた。
秋祭りは、他地域の民俗行事取材が先約にあり、栗野へは行けないが、11月の亥の子祭りは是非とも寄せてもらうつもりだ。
そのときに拝見したい、御供餅搗きの間に行なわれるサカシオ(酒塩)作法。
これまで一年に3度もしていたサカシオ(酒塩)作法が、来年になれば秋祭りしか拝見できない特別な作法だけに亥の子祭りの日は是非とも抑えておきたい。
あれこれ栗野の民俗話題を話してくださる間も、みなさんお酒を飲んで盛り上がった会食。
突然の来訪客の私もよばれた堂々久の料理。
特に、お造りは新鮮でとても美味しかった。
慰労の時間帯に長居はない。

およそ1時間半のもてなし接待に、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)
神事を終えた斎主が帰り支度をしていた社務所。
これより当屋渡しの儀式が行われる。
神事を終えたら社務所に張っていた幕を下す。
神紋は菱に「岩」を象った紋章。
社務所が建っている石垣に座っているご婦人たち。
賑やかかどうかわからないが談笑している。
境内は親とともにやってきた子供たちも大勢。

老若男女問わず、栗野の氏子たちがやってきた。
地域の氏神さんに手を合わせて健康家族を願っているのだろう。

先に済ませておくお賽銭。
祈願成就のお礼を神さんに奉る。
元々の賽銭はお米。
古くは散米だったそうだ。
いわゆるとか幣物(へいもつ)。
神さんから福をいただいたお礼に感謝して奉るのが賽銭であるとウキペディアに書いてあった。
背を屈めて腰を落としながら投入する感謝の賽銭。
今日は、栗野の夏祭りだけに五色旗は引き揚げずに立てたまま。
右に鏡と勾玉、左は刀の五色の御旗に感謝の形であろう。
境内の賑やかさと違って厳粛な儀式がこれより始まる。
上座に就いた2人の当屋。
白ネクタイを結んだワイシャツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿のアニトーヤ(兄当屋)と受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)に区長。
列席者はアニトーヤが属する針ケ谷垣内氏子にオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。
これより区長立会の下出垣内総代の進行で当屋引継ぎの儀式を行う。
お神酒とスルメに昆布を盛った皿を持つ2人。
まずはカワラケを手にしたアニトーヤから。

お神酒を注いで飲み干す一杯。
スルメと昆布を手受けして口にする。
続けてオトウトトーヤも口にする。

お神酒にスルメ昆布を差し出す2人も同じように口にする。
そして参席する氏子たちにも同様にする献(※こん)の作法にカワラケは一枚。
いわゆるお神酒の飲みまわしである。
一口いただくお酒は一献。
これを三杯すれば三献(※さんこん)の儀であるが、栗野は一献の儀のようだ。

ひと通り、献の儀を終えたら区長の挨拶。
前年秋、11月の亥の子祭りのときに祭り当屋を受けたアニトーヤにご苦労さまと慰労の言葉を、受けるオトウトトーヤには、これからの祭りによろしくお願いしたいと紹介された。

そして、アニトーヤは8カ月間を務めさせてもらった感謝を述べ、続いてオトウトトーヤは、恙なく務めさせていただきますから、どうぞよろしくお願いします、と参席する両垣内の氏子たちに向かって挨拶された。
儀式を終えた祭りの人たちは、午後3時より始めるゴクマキの場に動いた。
今日まで務めたアニトーヤも新しく任に就いたオトウトトーヤも烏帽子被りの裃姿でゴクマキ。

区長も垣内総代たちも元気よく今朝に搗いた御供餅を撒く。
境内に集まった老若男女の氏子たち。
笑顔で放り投げるゴクマキ。

ジャスト手にするゴクマキ。
笑顔溢れる顔でゲットする。
手にしたビニール袋は餅でいっぱい。
木桶に盛った御供餅は2種類。
数多く作ったコモチが空中に飛ぶ。

そして平べったい餅の大判ゴクダマも飛ぶ。
歓声が飛び交うゴクマキの情景はどことも同じであるが、カメラでとらえるのは難しい。
すべてを撒き終えるまで10分もかからない短時間で行われた栗野のゴクマキ。

戦利品を手にした氏子たちはお家に戻っていった。
写真ばかり撮っていたら御供餅も拾えんかったやろ、と声をかけてくれたFさん。
旦那さんとともに餅集めをしていたからぎょうさんあるから、持って帰り、とお土産にくださった。
餅を手にした氏子たちは戻っていったが、当屋引継ぎに立ち会った人たちは、大事な役目がある。
この日に受けた当屋の家に、神さん棚の御簾屋(おすや)を送る、いわば神送りの儀式に就く。
朝に結った御簾屋の注連縄に神饌、御供も、本日の祭り日にずっと集会所に坐していた。

8カ月間も前当屋家で過ごしてきただけに、名残惜しそうに御簾屋(おすや)に触れる前当屋。
これより始める御簾屋の解体作業。
実は、組立式構造だった。
神饌、御供を下げる。
神具に御供皿、三方などは箱に収める。
御簾屋に架けていた注連縄も外すが、神さんを祭っている御簾(※みす)を外すことはない。
解体したのは御供台だけだった。
箱詰めしたそれぞれの祭具とともに御簾屋は、軽トラに載せて運ぶ。
御簾屋は、倒れないように支える人足も就くし、運転手も一層の注意を払って移動した。
作業を手伝う両垣内の人たち。

受け当屋の家に着いたら、早速動きだす。
慎重に運ばれた御簾屋(おすや)は、奥の座敷に設営。
先に設えた受け当屋家の玄関にかける注連縄かけ。

当主自らかける注連縄は、神さんを迎えた証しであろう。
前当屋とともに調える新しき祭りの神さん。

吉野町の河原屋に鎮座地する大名持(おおなもち)神社に詣で。
神社前から河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石は、受け当屋の御簾屋内に据えた。

禊の場に浸かって拾い集めたコオリカキ(※垢離掻き)によって授かった受けた神さんである。
神さんの棚ができたら、次は神饌御供を並べる御供台の調整。
先ほど解体したばかりの御供台を元の通りに垣内の手伝いさんたちが組み立てた。
そして神饌御供もまた前当屋とともに調える御供並べ。

生鯛の配置に野菜、果物も並べていた後方に床の間がある。
その床の間に掲げた掛図である。
中央は天照皇大神。
右に八幡大神、左に春日大神を配した三社託宣の掛け軸。
名号と三神の姿を現した託宣図である。
聞き取りは失念したので明白ではないが、たぶんに日待ち講の存在が考えられる。
その床の間に見たことのない一つの祭具を立てていた。

御供餅搗きのときに区長が話してくれた紙で作った“ハナ”である。
栗野の自治会が伝承してきた十二薬師さん行事に供えた“ハナ”。
まさかの1本が受け当屋の床の間に飾っていたとは・・。
かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。
現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。
かつては金、銀、赤、青、緑の五色だった”ハナ“。
今は、少なくなった三段の”ハナ”飾りに円形状の赤、青、緑の折り紙飾り。
その姿は、まるで傘のように見える。
十二薬師さん行事は9月初めにしていると聞いている。
是非とも伺いたい栗野の仏事行事である。
前列に座る両当屋に垣内の手伝いが脇を。
後方に座した手伝いも座して拝礼する神迎えの神事。
この場の祭礼に神職が関わることのない垣内の祭りごと。
神さんの棚に置いたローソクに火を灯し。

神式に則り、一同揃って2礼2拍、1礼の神拝で終える。
こうして祭りの神さんをご自宅に招き入れた受け当屋のM家。
これより手伝ってくださった垣内の人たちを慰労にもてなす座敷に場を移す。
送り手の針ケ谷垣内からは2人。
受け手の下出垣内も2人。
下出垣内のお一人は、この日の昼食に伺った食事処の堂々久(どどく)の店主のTさん。
F区長お薦めの和食店の食事はとても美味しかった。
その堂々久店主が用意してくれたお店の舟盛りとオードブル盛りでもてなす当屋の摂待。
店主と息子さんが料理した堂々久料理。
舟盛りのお造りは、鯛一尾からブリ、マグロ、サーモンに鮑。オードブル盛りは、でっかいエビフライに鶏の唐揚げ、ソーセージ、ハム、さつま揚げ、烏賊のマリネ、中華クラゲに雲丹盛りに鰹のタタキなどなど。
食べていきやと云われて、同行取材していた写真家Kさんとともに、席につく。

美味しい料理を囲んで和やかに歓談される。
話題は、栗野の祭り、行事につきる。
大字栗野の垣内は針ケ谷垣内に下垣内。
中出垣内に上垣内の4垣内による務める当番垣内の廻り。
今回の受け当屋に神送りした垣内は針ケ谷垣内。
他の垣内よりも、軒数がいちばん少ない垣内。
受けた当屋は下垣内。軒数が多いことから、二つに分けて受けている。
受ける垣内の中から当屋を選んで岩神社の三大祭に従事する。
この日の午後に終えた大祭は田植え終いの夏祭り。
次の大祭は、10月に行われる秋祭り。
その次が、11月の亥の子祭り。
そして翌年の夏祭りへ送る三大祭。
毎年、毎年に当番垣内を交替し、大祭を繋いできた栗野の年中行事。
来年は、祭りごとのあり方を大幅に見直す大改正の年。
神事ごとは継続するが、労力など負荷が大きい御供搗き、ゴクマキは秋祭りだけに絞って一本化。
現在はまだ決まっていないが、当屋受け、神送りのあり方も見直し。
翌年の総会をもって決定するようだ。
神さんを迎えた下出垣内。
平成30年は、秋祭りと亥の子祭りが2回連続する当たり年。
その次の祭りを受ける垣内は、下出垣内とほぼ同様の軒数は多い中出垣内。
夏祭りを受けるのか、それとも一本化する秋祭りに受けるのか、現在は明確になっていない。
その秋祭りのヨイミヤの御供に特徴がある。
一つは、ムシゴク(蒸し御供)。
二つ目はとコウジブタに詰めた餅。
この餅は、細かく切ってキリモチにするヨイミヤの御供に対して、翌日のマツリの御供は甘酒が主になる、という。
岩神社の年中行事は三大祭だけでなく、他にも行事はある。
2月の節分の日。
当屋が朝いちばんに供える節分の豆。
その後にやってくる参拝者は豆を供えて、先にあった当屋の豆をもらって帰る。
次の参拝者もまた豆を供えて、先に参っていた人が奉った豆をもらって帰る、いわゆる豆交換。
時間は特に決まっていない節分の日のあり方である。
また、宮参りに岩神社に参拝する家族さんはお菓子をもってくる。
宮参りがあると知らされた子供たちは、家族さんが配るお菓子目当てにやってくる。
宮参りのあり方を聞いて思い出した大和郡山市額田部の推古神社の初宮参り。
平成24年1月14日に参拝されたご家族さんの承諾を得て撮らせてもらった初宮参り。
お参りを済ませた家族さんに近寄ってきた地元の小さな子に差し上げた匂い袋。
初宮参りの赤ちゃんが、村の子どもたちに仲間入りをするために配った匂い袋である。
お菓子と匂い袋の違いはあるが、お菓子もまた仲間入りの手土産ではないだろうか。
今もこうした習俗のある栗野の民俗に当屋のM家は今もなお十五夜の中秋の名月に芋名月をしている、という。
自家栽培のズイキ芋の子を芋洗い。
その洗いに、一枚板をもって芋洗い。
芋の子を入れたバケツに水入れ。
板を縦位置に置いて、ゴシゴシ洗う芋洗い。
主に、母親がしている芋洗いに興味が湧くM家の民俗は、豆名月もしているそうだ。
かつては「オツキヨウカ」の習俗もしていたそうだ。
「オツキヨウカ」に竿を立てる場は家のカド庭。
栗野辺りの村々は旧暦でしていた。
ツツジの花が咲く5月。
まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあったが、今はどの家もしていない。
芋名月に豆名月はお家の行事。
縁繋がりに、どうぞ、と伝えられた。
秋祭りは、他地域の民俗行事取材が先約にあり、栗野へは行けないが、11月の亥の子祭りは是非とも寄せてもらうつもりだ。
そのときに拝見したい、御供餅搗きの間に行なわれるサカシオ(酒塩)作法。
これまで一年に3度もしていたサカシオ(酒塩)作法が、来年になれば秋祭りしか拝見できない特別な作法だけに亥の子祭りの日は是非とも抑えておきたい。
あれこれ栗野の民俗話題を話してくださる間も、みなさんお酒を飲んで盛り上がった会食。
突然の来訪客の私もよばれた堂々久の料理。
特に、お造りは新鮮でとても美味しかった。
慰労の時間帯に長居はない。

およそ1時間半のもてなし接待に、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。
(H30. 6.24 EOS7D撮影)