
(上野修「スピノザ」NHK出版 シリーズ<哲学のエッセンス>2006年刊)
タイトルは、上野修さんの「スピノザ」のサブタイトルになっている一句、そこから引用させていただいた。
スピノザ(1632~1677年)というのは、佐藤優さんの宗教論を読んでいたとき、おめにかかった(-_-)
デカルトについてなら、あるいはモンテーニュについてなら、多くの本がすでに書かれ、わたしのような無知蒙昧のヤカラにとっても、とっつきやすい哲学者であるが、スピノザは、どうもそれより大分ハードルが高い・・・と思っていたら、BOOK OFFのワゴンセールの中にこの一書があったので迷わず買ってきた。
オランダの哲学者、しかも何と、あのフェルメールと同じ年の生れである。
そのことを念頭に置いておく必要がある。この時代、世界の海は「オランダの海」になりつつあり、そのあと、徐々に東インド会社にひっぱられながら、オランダの覇権が確立していく。
アムステルダム、デルフトはじめ、都市の繁栄はフェルメールの絵画にその面影をとどめている。
そういう時代のオランダである。

(フェルメール「デルフトの眺望」 ネット上の画像からお借りしています)
リサーチしてみたら、上野さんはすでに「スピノザの世界――神あるいは自然」(講談社現代新書2005年刊)を出しているのがわかったので、そちらは新刊本で手に入れた。わが国におけるスピノザ研究の第一人者なのかもしれない。

ヨーロッパの宗教、思想、哲学は、煎じつめればギリシャ哲学とキリスト教にすべて包括できる。この二者に対する理解がないと、その核心はわからない。しかし、ここからがむずかしく、長年わたしは頭(あまりできのよい頭ではないが)を悩ませてきた。
「エチカ」については講談社現代新書の方に書いてしまったので、本書はスピノザの「神学・政治論」をめぐる上野さんの考察である。
目次を掲げておこう。
まえがき
第一章 「神学・政治論」は何をめぐっているのか
第二章 敬虔の文法
第三章 文法とその外部
第四章 「神学・政治論」の孤独
デカルトを読んでいたころも切実に感じたことだが、ヨーロッパおよびヨーロッパ人にとって、キリスト教は絶対の規範でありつづけたということである。
ルネサンスでその縛りはいくらかゆるんだとはいえ、アンチ・クリストの烙印を押されることは、社会からの抹殺を意味したのだ。神を信じない、礼拝にはいかない・・・となると、教会と教会勢力から睨まれるだけでなく、一般民衆からも気味悪がられ、心身に危険がおよぶ。
そのことをわかっていないと、デカルトも、スピノザも十分理解できない。現代では想像もつかない、イスラム国家のような宗教国家であったのだ。いや、国家ばかりではなく、共同体そのものが、キリスト教神学の上にのっていた。この枠組みは近代にいたっても変わらない。
だから無神論者スピノザは、自分の本当の認識を、そのままストレートには開陳できない。
まわりくどい、迂遠な文法を駆使して、自分は無神論者だが、宗教を肯定し、尊重していますよ・・・といわざるをえないし、実際に、そういう生き方を貫いた。
だから上野さんは「『無神論者』は宗教を肯定できるか」と問うのである。
したがって、スピノザの苦悩は、ある観点からいえば、一神教そのものを受容しないわれわれ日本人とは、決して無縁ではない、とわたしはかんがえる。
ただし、われわれはスピノザのような孤独(社会的な孤独)を経験しないで済んでいるのだ。
哲学的な思考をつきつめていけば、「神は存在しない」ことが明らかになるが、人間には「神は存在しない」ことを証明することはできない。
上野さんによれば、スピノザの神はほぼ、現代のわれわれがかんがえる自然にひとしいものである。
人間も自然の一部なのだから、スピノザがあおぎみているのは、当時とすれば、途方もないこの自然なのである。そのことを上野さんはスピノザの著書から拾い上げ、読み解いていく。
「あとがき」をふくめ、100ページほどの本なので、すらすらとおもしろく読めた。
20世紀初頭、イギリスの数学者・哲学者のホワイトヘッドがつぎのようにいっている。
《西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注に過ぎない》と。
そういう意味では、スピノザはギリシャ哲学の徒であった・・・と思われる。プラトン、アリストテレスの後継者なのである。
ギリシャ哲学とキリスト教は、ヨーロッパの二つの源泉となっているが、この二者にうち、共同体としての西洋を支配し続けたのは、キリスト教であった。
《信仰を必要としない哲学者が、信仰を台無しにする一切の不毛な論争に対して断固、否という。ここには、どう言えばよいのだろうか、無関係であることによって聖書の信仰を信仰自身のために全面肯定するという、スピノザに独特のスタンスがある。彼は「普遍的信仰の教義」を受け入れる。言われている事柄が真だからではなく、その文法的正しさゆえに受け入れるのである。》(本書60ページ)
そういう意味では、哲学と宗教をめぐる究極のパラドックスを解いたのが、この時代におけるスピノザであったのかもしれない。
スピノザは、この難問に折り合いをつけたのである。
上野さんは「西洋近代が解けずにいるいわば『スピノザ問題』」にふれながら、この論考をとじている。
宗教あるいは信仰とはなにか!?
これこそ、現代人にとって、古くて新しい、究極の問題でなくて、なんであろうか・・・と考え込まされた。
スピノザはわが国でいえば、徳川家綱のほぼ同時代人である。
そういう時代的な限界はむろん存在する。しかし、そこから「現代にとって、スピノザとは何であったか」という論点を洗い出して、あらためて提示していくこと。
突飛な連想で恐縮だが、わたしは鴎外のいう「かのように」の哲学を思い出した。
神がいるかのようにふるまうこと。万人の万人に対する闘争を回避し、共同体を維持していくために、社会のいわば“無意識”が、神というしくみを発明したのである。
21世紀を生きるわれわれも、その観点に立てば、共同体を維持・運営していくため神(あるいはそれに類するもの)を必要としていることは明らかである。宗教的な儀式・儀礼のない民族は存在しない。
スピノザの考察は、意見や個性を異にする人びとが、社会集団を形成して生きていくほかない人間の条件に対する洞察であり、回答なのである。
本書は短い論考ながら、“スピノザ問題”とは何かという課題を解くことに成功している。
わたしはこの本によって、哲学的な知の興奮を、久しぶりにたっぷりと味わうことができた。
おすすめですぞ(^^)/
評価:☆☆☆☆

ところで、先日つぶやきで取り上げた木田元さんの「反哲学史」について、この板で数言付け加えておくことにする。
前半、とくに第二章「アイロニーとしての哲学」、第三章「ソクラテス裁判」、第四章「ソクラテス以前の思想家たちの自然観」あたりは、読者をして衿を正さしめるような卓見に満ちてはいるが、後半になると、しだいに説得力を失っていくのはどうしたわけだろう?
ご本人が認めている通り、第十章「形而上学克服の試み」となると、足どりがますますあやしくなってしまう。
残念ながら、これではぶち壊しといわざるをえない。締め切りに追われ、時間がなかったのだろうか。
木田先生ほどの人が、ほかに書きようはいくらでもあったろうに。
前半、後半でこうハッキリ評価が分かれてしまう本はめずらしい。
木田元「反哲学史」(講談社学術文庫)
評価(前半):☆☆☆☆
評価(後半):☆☆
※関連書を何冊か買ってきたので、以下写真のみ掲載させていただく。



タイトルは、上野修さんの「スピノザ」のサブタイトルになっている一句、そこから引用させていただいた。
スピノザ(1632~1677年)というのは、佐藤優さんの宗教論を読んでいたとき、おめにかかった(-_-)
デカルトについてなら、あるいはモンテーニュについてなら、多くの本がすでに書かれ、わたしのような無知蒙昧のヤカラにとっても、とっつきやすい哲学者であるが、スピノザは、どうもそれより大分ハードルが高い・・・と思っていたら、BOOK OFFのワゴンセールの中にこの一書があったので迷わず買ってきた。
オランダの哲学者、しかも何と、あのフェルメールと同じ年の生れである。
そのことを念頭に置いておく必要がある。この時代、世界の海は「オランダの海」になりつつあり、そのあと、徐々に東インド会社にひっぱられながら、オランダの覇権が確立していく。
アムステルダム、デルフトはじめ、都市の繁栄はフェルメールの絵画にその面影をとどめている。
そういう時代のオランダである。

(フェルメール「デルフトの眺望」 ネット上の画像からお借りしています)
リサーチしてみたら、上野さんはすでに「スピノザの世界――神あるいは自然」(講談社現代新書2005年刊)を出しているのがわかったので、そちらは新刊本で手に入れた。わが国におけるスピノザ研究の第一人者なのかもしれない。

ヨーロッパの宗教、思想、哲学は、煎じつめればギリシャ哲学とキリスト教にすべて包括できる。この二者に対する理解がないと、その核心はわからない。しかし、ここからがむずかしく、長年わたしは頭(あまりできのよい頭ではないが)を悩ませてきた。
「エチカ」については講談社現代新書の方に書いてしまったので、本書はスピノザの「神学・政治論」をめぐる上野さんの考察である。
目次を掲げておこう。
まえがき
第一章 「神学・政治論」は何をめぐっているのか
第二章 敬虔の文法
第三章 文法とその外部
第四章 「神学・政治論」の孤独
デカルトを読んでいたころも切実に感じたことだが、ヨーロッパおよびヨーロッパ人にとって、キリスト教は絶対の規範でありつづけたということである。
ルネサンスでその縛りはいくらかゆるんだとはいえ、アンチ・クリストの烙印を押されることは、社会からの抹殺を意味したのだ。神を信じない、礼拝にはいかない・・・となると、教会と教会勢力から睨まれるだけでなく、一般民衆からも気味悪がられ、心身に危険がおよぶ。
そのことをわかっていないと、デカルトも、スピノザも十分理解できない。現代では想像もつかない、イスラム国家のような宗教国家であったのだ。いや、国家ばかりではなく、共同体そのものが、キリスト教神学の上にのっていた。この枠組みは近代にいたっても変わらない。
だから無神論者スピノザは、自分の本当の認識を、そのままストレートには開陳できない。
まわりくどい、迂遠な文法を駆使して、自分は無神論者だが、宗教を肯定し、尊重していますよ・・・といわざるをえないし、実際に、そういう生き方を貫いた。
だから上野さんは「『無神論者』は宗教を肯定できるか」と問うのである。
したがって、スピノザの苦悩は、ある観点からいえば、一神教そのものを受容しないわれわれ日本人とは、決して無縁ではない、とわたしはかんがえる。
ただし、われわれはスピノザのような孤独(社会的な孤独)を経験しないで済んでいるのだ。
哲学的な思考をつきつめていけば、「神は存在しない」ことが明らかになるが、人間には「神は存在しない」ことを証明することはできない。
上野さんによれば、スピノザの神はほぼ、現代のわれわれがかんがえる自然にひとしいものである。
人間も自然の一部なのだから、スピノザがあおぎみているのは、当時とすれば、途方もないこの自然なのである。そのことを上野さんはスピノザの著書から拾い上げ、読み解いていく。
「あとがき」をふくめ、100ページほどの本なので、すらすらとおもしろく読めた。
20世紀初頭、イギリスの数学者・哲学者のホワイトヘッドがつぎのようにいっている。
《西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注に過ぎない》と。
そういう意味では、スピノザはギリシャ哲学の徒であった・・・と思われる。プラトン、アリストテレスの後継者なのである。
ギリシャ哲学とキリスト教は、ヨーロッパの二つの源泉となっているが、この二者にうち、共同体としての西洋を支配し続けたのは、キリスト教であった。
《信仰を必要としない哲学者が、信仰を台無しにする一切の不毛な論争に対して断固、否という。ここには、どう言えばよいのだろうか、無関係であることによって聖書の信仰を信仰自身のために全面肯定するという、スピノザに独特のスタンスがある。彼は「普遍的信仰の教義」を受け入れる。言われている事柄が真だからではなく、その文法的正しさゆえに受け入れるのである。》(本書60ページ)
そういう意味では、哲学と宗教をめぐる究極のパラドックスを解いたのが、この時代におけるスピノザであったのかもしれない。
スピノザは、この難問に折り合いをつけたのである。
上野さんは「西洋近代が解けずにいるいわば『スピノザ問題』」にふれながら、この論考をとじている。
宗教あるいは信仰とはなにか!?
これこそ、現代人にとって、古くて新しい、究極の問題でなくて、なんであろうか・・・と考え込まされた。
スピノザはわが国でいえば、徳川家綱のほぼ同時代人である。
そういう時代的な限界はむろん存在する。しかし、そこから「現代にとって、スピノザとは何であったか」という論点を洗い出して、あらためて提示していくこと。
突飛な連想で恐縮だが、わたしは鴎外のいう「かのように」の哲学を思い出した。
神がいるかのようにふるまうこと。万人の万人に対する闘争を回避し、共同体を維持していくために、社会のいわば“無意識”が、神というしくみを発明したのである。
21世紀を生きるわれわれも、その観点に立てば、共同体を維持・運営していくため神(あるいはそれに類するもの)を必要としていることは明らかである。宗教的な儀式・儀礼のない民族は存在しない。
スピノザの考察は、意見や個性を異にする人びとが、社会集団を形成して生きていくほかない人間の条件に対する洞察であり、回答なのである。
本書は短い論考ながら、“スピノザ問題”とは何かという課題を解くことに成功している。
わたしはこの本によって、哲学的な知の興奮を、久しぶりにたっぷりと味わうことができた。
おすすめですぞ(^^)/
評価:☆☆☆☆

ところで、先日つぶやきで取り上げた木田元さんの「反哲学史」について、この板で数言付け加えておくことにする。
前半、とくに第二章「アイロニーとしての哲学」、第三章「ソクラテス裁判」、第四章「ソクラテス以前の思想家たちの自然観」あたりは、読者をして衿を正さしめるような卓見に満ちてはいるが、後半になると、しだいに説得力を失っていくのはどうしたわけだろう?
ご本人が認めている通り、第十章「形而上学克服の試み」となると、足どりがますますあやしくなってしまう。
残念ながら、これではぶち壊しといわざるをえない。締め切りに追われ、時間がなかったのだろうか。
木田先生ほどの人が、ほかに書きようはいくらでもあったろうに。
前半、後半でこうハッキリ評価が分かれてしまう本はめずらしい。
木田元「反哲学史」(講談社学術文庫)
評価(前半):☆☆☆☆
評価(後半):☆☆
※関連書を何冊か買ってきたので、以下写真のみ掲載させていただく。


