「Love Camera」第三弾はヤシカマット124G。
いまだかつて、わたしの周囲の人物で、二眼レフを使っていた人はひとりもいなかった。
だから「はぐれ雲」のAさんがある日、ヤシカマット124Gをぶらさげてきたときはびっくりし、興味津々。「へええ、これが二眼レフか!」
40代を目前にしたわたしが、少年のように眼を輝かせる・・・という光景を想像してほしい(笑)。
キヤノン最新の快速AF一眼レフとズームレンズを愛用していたわたしには、Aさんという人の立ち位置が、どうもいまひとつハッキリしなかった。
撮影旅行に出かけると、わたしが36枚1本を撮り了えるまでに、Aさんは、3枚か4枚。あきれるようなスローペースで、まるでウサギとカメだったことを思い出す。
そのAさんと横浜美術館へロバート・フランク回顧展を観にいって、講演をおえて会場からいきなり出てきたフランクを撮影する千載一遇のチャンスを得た。そのことは、過去に二度ばかり書いているので、ここではくり返さない。
二眼レフの撮影スタイルはまったくのところ、鈍行列車の旅である。鈍行列車に乗って、すべての駅でガタンと停車して、人びとが乗り降りする。乗客がだれも乗り降りしなくても、急行列車をさきにいかせるため、7分、8分停車していたりする。
二眼レフの撮影スタイルは、まったくのところ、そういったスローライフな旅なのである。
左右が逆像なので、もたもたフレーミングしたり、ピントを合わせたりしていると、被写体に逃げられる。
わたしが使っているローライフレックスやヤシカマットは、旧時代の内蔵露出計があるから、単体露出計を持ち歩くよりは、いくらか速写性はあるかな(笑)。しかも、目測・置きピンという技だって、慣れてくれば使えるようになる。
645も2台もっているけれど、この数年はもっぱら6×6の二眼レフ。
Aさんのスタイルに、20年もかかってようやく追いついたのだ。キヤノンEOS10や5はとっくの昔に毀れたり、父にくれてしまったりしたが、プラスチック製のカメラにはなんの未練もない。レンズも7~8本処分した。
ヤシカマットは低価格のカメラなので、ローライフレックスに比較すると、いかにも安っぽい。しかし、必要とおもわれるところはダイキャスト製。オートマットではないし、ファインダーもやや暗い。
とはいえ、なんとはなしに愛着がもてるカメラで、マミヤC220、C330に比べ、ずいぶん小型軽量にできている。
人物ポートレイトもそうだが、こういう場合、背景がものをいう。
カメラは「どこに、どんなふうに置かれているのか」ということである。
置かれた場所によって、“そのもの”が変化する。
いまそこにどんな光があるのか、そして、どんな背景の中にたたずんでいるのか?
貧相に見えたり、立派に見えたり、可憐に見えたり、うれしげに見えたり・・・いろいろな条件の違いが、カメラの存在感を際立たせる。
背景がものをいっている。
主役と脇役。それを見定めて撮る。それがこういう写真のおもしろさだろう。
古い金属製のマニュアルカメラは、どんなシチュエーションに置かれても、大抵絵になる。絵になりすぎるからむしろ気をつけなければならない。
クラシカルなカメラを置くことによって、とりとめのない空間にある緊張感が生まれる。
そこを、素早くすくいとる楽しさ。わたしはそのことを、まだ十分語りつくしてはいないとおもう。だから、この作業はまだ、しばらくつづく。
いまだかつて、わたしの周囲の人物で、二眼レフを使っていた人はひとりもいなかった。
だから「はぐれ雲」のAさんがある日、ヤシカマット124Gをぶらさげてきたときはびっくりし、興味津々。「へええ、これが二眼レフか!」
40代を目前にしたわたしが、少年のように眼を輝かせる・・・という光景を想像してほしい(笑)。
キヤノン最新の快速AF一眼レフとズームレンズを愛用していたわたしには、Aさんという人の立ち位置が、どうもいまひとつハッキリしなかった。
撮影旅行に出かけると、わたしが36枚1本を撮り了えるまでに、Aさんは、3枚か4枚。あきれるようなスローペースで、まるでウサギとカメだったことを思い出す。
そのAさんと横浜美術館へロバート・フランク回顧展を観にいって、講演をおえて会場からいきなり出てきたフランクを撮影する千載一遇のチャンスを得た。そのことは、過去に二度ばかり書いているので、ここではくり返さない。
二眼レフの撮影スタイルはまったくのところ、鈍行列車の旅である。鈍行列車に乗って、すべての駅でガタンと停車して、人びとが乗り降りする。乗客がだれも乗り降りしなくても、急行列車をさきにいかせるため、7分、8分停車していたりする。
二眼レフの撮影スタイルは、まったくのところ、そういったスローライフな旅なのである。
左右が逆像なので、もたもたフレーミングしたり、ピントを合わせたりしていると、被写体に逃げられる。
わたしが使っているローライフレックスやヤシカマットは、旧時代の内蔵露出計があるから、単体露出計を持ち歩くよりは、いくらか速写性はあるかな(笑)。しかも、目測・置きピンという技だって、慣れてくれば使えるようになる。
645も2台もっているけれど、この数年はもっぱら6×6の二眼レフ。
Aさんのスタイルに、20年もかかってようやく追いついたのだ。キヤノンEOS10や5はとっくの昔に毀れたり、父にくれてしまったりしたが、プラスチック製のカメラにはなんの未練もない。レンズも7~8本処分した。
ヤシカマットは低価格のカメラなので、ローライフレックスに比較すると、いかにも安っぽい。しかし、必要とおもわれるところはダイキャスト製。オートマットではないし、ファインダーもやや暗い。
とはいえ、なんとはなしに愛着がもてるカメラで、マミヤC220、C330に比べ、ずいぶん小型軽量にできている。
人物ポートレイトもそうだが、こういう場合、背景がものをいう。
カメラは「どこに、どんなふうに置かれているのか」ということである。
置かれた場所によって、“そのもの”が変化する。
いまそこにどんな光があるのか、そして、どんな背景の中にたたずんでいるのか?
貧相に見えたり、立派に見えたり、可憐に見えたり、うれしげに見えたり・・・いろいろな条件の違いが、カメラの存在感を際立たせる。
背景がものをいっている。
主役と脇役。それを見定めて撮る。それがこういう写真のおもしろさだろう。
古い金属製のマニュアルカメラは、どんなシチュエーションに置かれても、大抵絵になる。絵になりすぎるからむしろ気をつけなければならない。
クラシカルなカメラを置くことによって、とりとめのない空間にある緊張感が生まれる。
そこを、素早くすくいとる楽しさ。わたしはそのことを、まだ十分語りつくしてはいないとおもう。だから、この作業はまだ、しばらくつづく。