昭和天皇の玉音放送がどんな内容であったか、きちんと理解している日本人が、いったい何パーセントいるのだろう。
あのとき、日本はまさに、滅亡の淵に立たされていたのである。
かりに滅亡は免れたとしても、ドイツ、朝鮮の例に見るように、国家がアメリカ支配、ロシア支配に二分されかねなかった。
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm
多くの日本人は、かの有名な「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・」だけを知って、「ああ、あれね」と知ったかぶりをする。最初から最後までちゃんと読んでもいないし、読んでも意味が半分もわからなかったりする'`,、('∀`)
《朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス》というところである。
いまになってよく読んでみると、ここには裕仁という天皇の他人には明かすことを禁じられた衷心とでもいうべきものが、じつに率直に表出されていることに驚く。
日米安保をめぐる与野党の攻防戦をTV、新聞、ラジオ等で眺めているうち、昭和史が気になって、半藤一利さんの著書などを読んだり、YouTubeで閲覧できる動画を、一昨日あたりから見たりするようになった。
https://www.youtube.com/watch?v=26-SlpK3zBI
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
https://www.youtube.com/watch?v=b7RspaOlXbg
予想した通り、じつにたくさんの資料がアップされていて、とてもとても、二日や三日で見尽くせるような量ではない。
近・現代史は、それを受け止め、思考し、評価する人の立場によって、大きな揺れ幅をもつ。
「高校のころ、社会科の先生はこういっていた」
「左翼くずれの友人は、こうだった」
「軍事おたくの知り合いは、かつてこんなことをいった」
「あるいは、たまたま手にした本の中に、こういうことが書いてあった」
わたしという人間をとりまく身近な現実に、“わたし”が浸透される。
わたしは左翼でも右翼でもない。どちらかといえば、保守中道的な政治的無関心層に属する。
「おれひとりが何といおうと、関係ない。だったら、そんなに関心を寄せる必要もないじゃないか」
ざっくばらんにいってしまえば、そういうスタンスをとっている。
だから・・・というべきだろう・・・昭和の歴史に対して、関心がうすかったのだ。
ポツダム宣言は結局のところ、「御聖断」によって受諾が決まったのである。昭和天皇の決断がなければ、終戦はあのとき訪れはしなかったということを、わたしは再確認する。
もういっぺん、linkした「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎」をじっくりと見ておこう。
これらを見ていくと、裕仁=昭和天皇の存在がいかに巨きかったか、否応なしに迫ってくる。
また「一死大罪ヲ謝ス」の遺書を鮮血で染めて割腹自殺した、最後の陸軍大臣阿南惟幾と、鈴木貫太郎のなんという鮮やかで残酷な対比だろう。
鈴木貫太郎は昭和23年4月17日に80歳で天寿を全うする。
《荼毘に付されたのち、その灰の中には、2.26事件のとき撃ち込まれた銃弾が残っていた》
こういうことばを聞いて、胸がふるえない日本人がいるのだろうかと、わたしは怪しむ。
右へいくにせよ、左にいくにせよ、死を賭して、職務を遂行することの崇高さに、わたしは打たれる。
終戦。
それは滅亡を目前にした、わが国最大の“決断”であった。
戦後70年。
軍を解体することによってしか、国が存続しなかったあの日の記憶を、日本人は未来に向かってどう伝えていくのか、とても気になる。
むろん通俗的なヒロイズムに陥ることなく!
「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)
https://www.youtube.com/watch?v=LxEWiHiiCkk
リアリスティックにいってしまえば、人間とは戦争をする生き物である。
歴史とは、その読者ならだれでも知っているように、「戦争の歴史」なのである。
そこから眼をそむけてはならない。
あのとき、日本はまさに、滅亡の淵に立たされていたのである。
かりに滅亡は免れたとしても、ドイツ、朝鮮の例に見るように、国家がアメリカ支配、ロシア支配に二分されかねなかった。
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm
多くの日本人は、かの有名な「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・」だけを知って、「ああ、あれね」と知ったかぶりをする。最初から最後までちゃんと読んでもいないし、読んでも意味が半分もわからなかったりする'`,、('∀`)
《朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス》というところである。
いまになってよく読んでみると、ここには裕仁という天皇の他人には明かすことを禁じられた衷心とでもいうべきものが、じつに率直に表出されていることに驚く。
日米安保をめぐる与野党の攻防戦をTV、新聞、ラジオ等で眺めているうち、昭和史が気になって、半藤一利さんの著書などを読んだり、YouTubeで閲覧できる動画を、一昨日あたりから見たりするようになった。
https://www.youtube.com/watch?v=26-SlpK3zBI
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
https://www.youtube.com/watch?v=b7RspaOlXbg
予想した通り、じつにたくさんの資料がアップされていて、とてもとても、二日や三日で見尽くせるような量ではない。
近・現代史は、それを受け止め、思考し、評価する人の立場によって、大きな揺れ幅をもつ。
「高校のころ、社会科の先生はこういっていた」
「左翼くずれの友人は、こうだった」
「軍事おたくの知り合いは、かつてこんなことをいった」
「あるいは、たまたま手にした本の中に、こういうことが書いてあった」
わたしという人間をとりまく身近な現実に、“わたし”が浸透される。
わたしは左翼でも右翼でもない。どちらかといえば、保守中道的な政治的無関心層に属する。
「おれひとりが何といおうと、関係ない。だったら、そんなに関心を寄せる必要もないじゃないか」
ざっくばらんにいってしまえば、そういうスタンスをとっている。
だから・・・というべきだろう・・・昭和の歴史に対して、関心がうすかったのだ。
ポツダム宣言は結局のところ、「御聖断」によって受諾が決まったのである。昭和天皇の決断がなければ、終戦はあのとき訪れはしなかったということを、わたしは再確認する。
もういっぺん、linkした「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎」をじっくりと見ておこう。
これらを見ていくと、裕仁=昭和天皇の存在がいかに巨きかったか、否応なしに迫ってくる。
また「一死大罪ヲ謝ス」の遺書を鮮血で染めて割腹自殺した、最後の陸軍大臣阿南惟幾と、鈴木貫太郎のなんという鮮やかで残酷な対比だろう。
鈴木貫太郎は昭和23年4月17日に80歳で天寿を全うする。
《荼毘に付されたのち、その灰の中には、2.26事件のとき撃ち込まれた銃弾が残っていた》
こういうことばを聞いて、胸がふるえない日本人がいるのだろうかと、わたしは怪しむ。
右へいくにせよ、左にいくにせよ、死を賭して、職務を遂行することの崇高さに、わたしは打たれる。
終戦。
それは滅亡を目前にした、わが国最大の“決断”であった。
戦後70年。
軍を解体することによってしか、国が存続しなかったあの日の記憶を、日本人は未来に向かってどう伝えていくのか、とても気になる。
むろん通俗的なヒロイズムに陥ることなく!
「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)
https://www.youtube.com/watch?v=LxEWiHiiCkk
リアリスティックにいってしまえば、人間とは戦争をする生き物である。
歴史とは、その読者ならだれでも知っているように、「戦争の歴史」なのである。
そこから眼をそむけてはならない。