二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

丸谷才一「文学のレッスン」(新潮文庫)をめぐって

2017年05月28日 | 座談会・対談集・マンガその他

丸谷才一さんは小説家なんだろうか、それともエッセイスト? いやきっと批評家、あるいは英文学者なのだ。
・・・わたしは戸惑うけれど、要するにそういったすべてを兼ね備えたエンサイクロベディストなのだと、本書を読みおえたいまは、いってみたい衝動にかられる。

はじめは小説家&翻訳家として出発した。しかし、博覧強記でユーモリストで、しかも反骨精神の持ち主。こうなっては、出版界が放っておかない。
売れたという側面だけみれば、まず第一にエッセイストである。和田誠さんの挿絵がすばらしく、わたしも7-8冊は持っている。読んだのはその半分だろうが´Д`|┛

どういうわけか、読む気になれないのが小説。代表作といわれる作品はほとんど揃えてあるけど、「年の残り」など、短編を2-3編しか読んでいない。
わたしが愛してやまないのは「文章読本」を筆頭に、この「文学のレッスン」と「思考のレッスン」。
いずれも読み返し、読み返すたびに、多大な啓示をいただき、影響をうけている。さっき著作一覧をamazonで見返していたら「ゴシップ的日本語論」も、たしか二度読みしている。
決して深刻にはならない、くだけた着流しめいた語り口は、この手の本としてはめずらしく、大勢のファンを持っていた。
モダニスト系文学者としての基本軸が、長年ゆるぐことなく、一貫していたからだろう。

さて本書。
インタヴュアはもと「文学界」編集長の湯川豊さん。「思考のレッスン」と姉妹編をなす。
ちなみに湯川さんは須賀敦子の大ファンで、「須賀敦子を読む」で読売文学賞を受賞している。
インタヴュイーも当代一流なら、インタヴュアも当代一流の文学者。
新潮社の「考える人」に連載されたのを、飛びとびに読んだ記憶がある。

エンタテインメントの売れっ子作家数人を除くと、文学はまことに低調で、「読まれない」ことがあたりまえのような現象が、近年ますます際立ってきている。欧米を中心とした先進国の国民で、日本人ほど本を読まない国民はほかにいないだろうと、わたしは少々心配である。
なにしろ日本人の2人に1人は、1年間、まったく本を読まない・・・というのだから。

昨今の小説や詩がつまらなければ、19世紀18世紀の、あるいは古代中世の古典を読めばそれでいいではないか?
わたしはそうしている。外国のもの、わが国ものを問わず、近代文学を読むのが、サイコーの娯楽になっている(^-^*)/

本書は前回手に取ったときは、おしまいまでは読まなかったかもしれない。
今回はあとがき(丸谷さん、湯川さん双方が書いている)をふくめ、かなりていねいに読ませていただいた。インタヴューによって成り立っている本を名著というのはおかしいが、それに準じた扱いをしてもいいだろう。
本書は文学全般にわたって、広闊な視野を提供している。
目次を並べてみよう。

1.短編小説・・・もしも雑誌がなかったら
2.長編小説・・・どこからきてどこへゆくのか
3.伝記・自伝・・・伝記はなぜイギリスで繁栄したか
4.歴史・・・物語を読むように歴史を読む
5.批評・・・学問とエッセイの重なるところ
6.エッセイ・・・定義に挑戦するもの
7.戯曲・・・芝居には色気が大事だ
8.詩・・・詩は酒の肴になる

湯川さんの解説によると、丸谷さんは毎回、周到な準備をかかさず、インタヴューにそなえて資料を用意し、メモを作っていたそうである。ご本人がきっと、このインタヴューを愉しんでいた証拠といっていいだろう。丸谷さんが入院しているときは、湯川さんはその病室にまで出かけていった。
話をする側、聞く側が、精妙な綱渡り師に見えることがある。
ことばの働きとしての知の冒険者。
文学は総称であって、個々には小説や詩や批評やエッセイが存在している。丸谷さんはほぼそのすべての分野を網羅している。インタヴュアは生半可な人物ではとてもつとまらなかったろう。

《ある重要な文学作品が出る。するとそのときまであった文学的世界の秩序が改まる。文学的パラダイムといっていいかもしれませんが、それが改まり、時間がたってまた重要な作品が出るとまた改まる。(文学史とは)その積み重ねの歴史であるということを、エリオットはあの文章(「伝統と個人の才能」1920年)でいっている。あれがあるから、ロラン・バルトの「作者の死」という考え方が出てきたし、ドイツのコンスタンツ学派の受容美学という理論が出てきた。文学は読者がつくるものだということの理論化ですね。》(本書198ページ)



丸谷さんの文学観の中心に居座っているのは、日本では「源氏物語」と「新古今集」、海外ではジョイスの「ユリシーズ」とエドガー・アラン・ポーの諸作になるだろう。先輩の文学者では、吉田健一、石川淳には、終始一貫敬意を表しているのが興味深い。
ひと捻り捻ったうえで、永井荷風を高く買っているのも見落とせない観点。

丸谷さんがいなくなったいま、その衣鉢をつぐのは、立ち位置としてはずいぶん違うけれど、三浦雅士さんや池澤夏樹さんということになるのだろう。文学はわが国では衰えてしまったが、まだまだ終わらない。
ただ、読者の日本語力の低下はますますすすんでいて、その長期低落傾向には歯止めがかかりそうにないと思われる。
では・・・それにかわって、国際語となった英語を十分使いこなせる人たちがふえているかというと、そういった兆候はあまり見られない。
丸谷さんはモダニストだが、ほぼそれと同じくらい、日本語に対しては保守的であった。そういうところに、精神のバランスをとろうとする、真にすぐれた知の営為がある。それはもちろん、本書のいたるところから聞こえてくる通奏低音といっていいだろう。

また、巻末に「文学のレッスン」読書案内(本書で取り上げた本の一覧)が付せられているのは、読者へのステキなサービスである。
よい本を、よいタイミングで読ませていただいたことに感謝したくなった。

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