二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

鮫屋の親爺 ~永井荷風のかたわらで(7)

2019年07月07日 | 小説(国内)
   (木村伊兵衛撮影の荷風。浅草・仲見世あたりであろうか)


戦後になって発表された短編小説に「浮沈(うきしずみ)」「踊子」「勲章」がある。じつは「浮沈」はまだ読んではいないので、このうち、ここでは「勲章」について贅言をついやしておきたくなった♪

《(昭和27年4月30日の朝)、市川市八幡町の自宅で死んでいる荷風を通いのお手伝いさんが見つけた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。
傍らに置かれたボストンバッグには全財産を常に持ち歩くという習癖の通り、総額2334万円を越える銀行預金の通帳と現金31万円余が入れられていた。》
(半藤一利「荷風さんの戦後」筑摩書房刊)

当時の2300万円といえば、現在なら1億円を軽く超える額になるだろう。独居老人の遺体の発見者は福田とよさん75歳である。この女性が身のまわりの世話をしていたのだ(川本三郎「荷風家のお手伝い 福田とよ」参照)。

家族を持つことがなく、親戚づきあいをも嫌った彼は、老いて健康をそこねたとき、自分の最期を予想しなかっただろうか? 
「踊子」は浅草のレビューを舞台にしたメロドラマ仕立ての風俗小説だが、「勲章」の方は、エッセイふうのドキュメンタリー小説となっている。
この作が書かれたのは 昭和17年、戦時下のため発表する場がなく、戦後の昭和21年になって雑誌「新生」に掲載された。

「鮫やのおじさん」「鮫屋の親爺」とは、荷風の「勲章」に登場する、60歳くらいの出前持ちのこと。
当時は60歳といえば、もう立派な“老人”であった。
この短編を最初読んだときは、あっさりした水彩画のような味をただよわす好短編だな・・・という程度の感想しか浮かばなかった。
ところが、荷風の死にざまについてあれこれと思いめぐらすうち、妙に気にかかってきたため、昨日ふたたび読み返した。
「そうか、こういう短編であったのか」
読み返すことによって、この短編が切り取ってみせた、いわば人生の機微といったものにあらためて目を瞠った。

《寄席、芝居。何に限らず興業物の楽屋には舞台へ出る芸人や、舞台の裏で働いている人たちを目あてにそれよりもまた果敢(はかな)い渡世をしているものが大勢出入りしている。
わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立って彼のオペラ館の楽屋で、名も知らなければ、何処から来るともわからない丼飯屋の爺さんが、その達者であった時の最後の面影を写真にうつしてやった事があった。
爺さんはその時、写真なんてエものは一度もとって見たことがねえんだヨと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがとうを繰返したのであったが、それがその人の一生涯の恐らく最終の感激であった。写真の焼付ができ上がった時には、爺さんは人知れず何処かで死んでいたらしかった。
楽屋の人たちはその事すら、わたくしに質問されて初めて気がついたらしく思われたくらいであった。》(岩波文庫「雨瀟瀟・雪解」303ページ。なお読みやすくするため一部改行した)

この冒頭が、そのまま「勲章」の梗概となっている。

荷風は女ばかり書いていたように思われがちだが、よく読んでいくと、その周辺にいる男たちにも、深い関心を寄せていたことがわかる。その男たちとは、中年、あるいは老年にさしかかろうという年齢の者たちばかりである。

わたしが「荷風の文学は、そもそも老年の文学である」というのも、そこに理由がある。
「あめりか物語」や「ふらんす物語」など、ごく初期の作をのぞけば、小説の大半は若い女と、年寄った男の物語なのである。
「踊子」と違って、こちらは随筆風味。したがって語り手の“わたくし”は、ほぼ荷風その人である・・・と考えてまちがいあるまい。
文庫本でわずか14ページ。

零落しだれにも顧みられなくなった男の哀れさが、しみじみとした情感につつまれ、読者の心をとらえる。
わたし自身も、不動産業をしながら、老いてなお狭い賃貸物件に住まうこういう零落した老人を何人も見てきた。だから彼らがたたえている“肌じめり”というようなものが、実感として想像できるのだ。彼らの転落のストーリーは、それぞれ違っている。
しかし、・・・だれにも顧みられなくなった男の哀れさという一点において共通するものがある。

「鮫や」「鮫屋」というのはこの出前持ちが雇われている店の屋号であるが、どこにあるのか知らない。出前持ちの本名も知らないし、そもそも関心がない。
とはいえ、このおじさんにも輝いていた青年期・壮年期があったのである。日露戦争に従軍し、勲章をもらったのが“鮫屋の親爺”の一番の自慢なのだ。

荷風は書く。
《年は既に五十を越して、もう六十代になっているかも知れない。盲目縞(めくらじま)の股引をはき、じじむさいメリヤスのシャツの上に背中で十文字になった腹掛をしているのが、窮屈そうに見えるくらい、いかにも頑丈な身体つきである。
額と目尻に深い皺が刻み込まれた円顔(まるがお)には一杯油汗をかいていながら、禿頭へ鉢巻をした古手拭を取って拭こうともせず、人の好さそうな細い目を絶えずぱちくりさせている。
わたくしが写真をとって大喜びに喜ばせてやった爺さんというのは、丼を持ってきたこの出前持ちなのである。》(本書310ページ)

豊かなディテール。
年季の入った情景描写、人物描写が、この短編のリアリティーをしっかりささえている。見事な筆さばき、手練れの表現力といわざるをえない。
一人暮らしの荷風は、晩年はほぼ毎日のように浅草へ通い、踊り子たちのたむろする楽屋へ、フリーパスで出入りするようになる。
そこでの観察や経験がものをいっている。ただのどうしようもない「女好き」であったなら、「踊子」やこの「勲章」など書けるはずはなかろう。

長くなってしまうが、つぎの一場面も引用しておこう。
《踊子たちは爺さんが取り出して見せる勲八等の瑞宝章と従軍記章とを物珍しげに寄ってたかって見ていたが、する中(うち)、衣裳の軍服へ勲章を縫いつけてやるから、一枚写真を取ってもらおうと言出すものがあった。
鮫屋の親爺が遂に腹掛をぬぎ、衣裳の軍服に軍帽をかぶり、小道具の銃剣まで下げて、カメラの前に立つことになったのは、二十人近い踊子が一度に揃ってわいわい囃立(はやした)てるその場の興味に浮かされたためであろう。》(本書314ページ。適宜改行)

荷風は踊り子たちの写真を撮ってやるため、よくカメラをぶらさげて浅草を徘徊した。
そして「オペラ館」の楽屋で、このシーンを目撃する。
おそらくモーパッサンを読んで鍛えた構成力がこの短編を成功に導いた。
ところが、ある日を境に「鮫やのおじさん、爺さん」はぱったり姿を見せなくなってしまう。
しかし踊り子たちのだれ一人として、そのことを気にする者はいない。
そして別な店から出前を取る。

《「鮫屋は来ないなア、今日は。」
とわたしくしは暫く待っていた後、踊子の一人にきいてみた。
「あれツきり来ないのよ」
「じゃ丼は誰が持ってくるんだ。困るだろう。」
「外(ほか)の家のものを食べるから困らないわ。」
話はそれきりである。
また一週間ほどたって遊びに行って見たが、その時には楽屋中もう誰一人、鮫屋の事をきいても返事をするものもいない。そんな親爺がこの楽屋へ丼飯など持ってきたことがあったのかと、思返してみよううとする者すら、一人もないような有様であった。》(本書315ページ)

“わたし”はせっかく出来上がった写真を届けてやろうと思うのだが、住まいも連絡先もわからず、届けることができない。

苦味走ったすぐれた結末だが、これはフィクションではなく、荷風の実体験であったのではなかろうか。
ごくあっさりした仕上げながら、人生の機微に通じた、荷風の目が底光っている。しかも自分自身の老い先を、この主人公に見ていたフシがあるように思える。

昭和17年、――一人暮らしの荷風63歳。
このあと、戦災に遭って大量の書籍と偏奇館を焼かれ、原稿をかかえて命からがら逃げ延び、疎開先を転々するという過酷な運命が待ちかまえている。



   (芸者さんたちに囲まれご満悦の荷風。ネット上の画像をお借りしました。)


   (荷風と似ているがどうやら別人。撮影木村伊兵衛。)





※荷風の死去を報じる毎日新聞
http://showa.mainichi.jp/news/1959/04/79-836c.html

※「永井荷風の文化勲章を祝った踊り子たち」(浅草ロック座にて撮影)
https://books.bunshun.jp/articles/-/3256
わたしが生まれた1952年に、朝永振一郎、梅原龍三郎らとともに文化勲章を受章。

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