
1
焼きたてのトーストにバターを塗り
ついでにマーマレードも少々。
風邪で微熱があるぼくは その朝そんな朝食を摂った。
久しぶりに。
朝食を摂らないぼくにとっては例外的な出来事。
ああ 今日は大事をとって家でごろごろして過ごそう。
おっ トーストってこんなにうまかったっけ?
話す相手がいないので 自分につぶやく。
夕べは寝苦しく 寝ては覚め 覚めては寝てをくり返していた。
荷風老人の後姿が 夢うつつの中にあらわれたりもした。
遠くで犬が吠えている。
少年の日 熱が出て眠れぬ夜。
よくそんな犬の遠吠えを聞いていたことを思い出す。
父も母も まだ若かったあのころ。
犬の声が耳朶の奥で反響し
ありありと ありありとなにかが甦る。
記憶の底辺にある水たまりで 種々雑多な魚が跳ねている。
2
昭和三十四年 市川市の陋屋で一人の老人が孤独死する。
文化勲章受章者 永井荷風七十九歳。
気になってぼくはさっき調べた。
四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。
四月廿四日。陰。
四月廿五日。晴。
四月廿六日。日曜日。晴。
四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
四月廿八日。晴。小林来る。
四月廿九日。祭日。陰。
「断腸亭日乗」最後の一週間は小林というこの人物しか登場しない。
編集者か出版関係者かとかんがえたけれど、どうも違うらしい。
小林は小林修なる人だというが 調べても
ほとんど手がかりがないことがわかっただけ。
「断腸亭日乗」にその名を刻んで 小林なる人物は歳月の彼方に没し去っている。
3
寝たままでも手をのばせばとどく範囲に
いろんな本がころがっている。
ぼくがそれを好んでいるせいだ。
この数日「断腸亭日乗」もその中の一冊に入った。
“戦後の荷風”はぼくのオブセッションになりつつある。
自分がいつか 孤独死するのではないか
いつのころからか・・・そんな恐れがこころのどこかに巣食っている。
熱があるせいだろう
頭の中の世界と 外の世界
その境界がいくらかあいまいになってしまった。
だから というべきかどうか
荷風が隣りのおやじに思えてくる。
夕べがそうだった。
十月二十六日(日) 曇りのち晴れ。
風寒し・・・とぼくは荷風になったつもりで書いてみる。
「日和下駄」を書いたころ荷風は三十六歳。
ずっと歩きつづけ 歩きつづけて生きてきたのだ。
生きるとは歩くこと。
そして歩けなくなった荷風は落日をむかえる。
荷風落日。
しかし 陋巷に窮死したわけではない。
4
まだまだぼくは歩ける。
だけどそれはいつか歩けなくなる日がやってくるということ。
トーストを二切れ食べ
うすいブラックコーヒーを飲む。
二杯目にはミルクをたっぷりと注いで。
そうしてふたたび荷風の幻像をもとめ
本のページへともどっていく。
近代日記文学の極北とみられている「断腸亭日乗」。
彼の足音は聞こえるけれどうめき声は聞こえない。
そこから荷風のうめきを聞き取ることが いずれできるようになるだろう。
好む 好まないにかかわらず。
年齢とはそうして 人の体や精神を衰亡させるもの。
最後のひと口を飲み込んでぼくは立ち上がる。
「さて 今日も歩こう 歩かねば」
カメラを手にして玄関ドアを開け
ぼくは裏の畑へと出ていく。
注1.参考文献
<The Quiet Days of Nishi-Azabu>より引用
この「小林」というのは小林修という青年で、市川の闇市で衣服を商っていた人物だという。
荷風は彼の店から何点か衣服を買っていただけの関係だったのだが、間借りしていた小西茂也氏の家を追われた時、途方に暮れていた荷風を見かねて転居先を探すのに助力した。以来、荷風はこの青年をたいそう信頼し、人嫌いの彼が小林青年だけは家に入るのを許すようになる。
小林青年は老母とともに何くれとなく荷風の面倒を見ていたことが日記から分かる。それは金銭づくとか荷風の名声を利用しようとか、そういうことではないようだ。この青年、頼りなさそうな爺さんが何となく好きになった――としか思えない。であるから、金銭的な報酬はほとんど得ていないのではないだろうか。
なんとなく池波正太郎の描く時代劇に出てきそうな人間ではないか。
最晩年、体力の衰え、気力の衰えをふり絞りつつ余命を生き抜いていた荷風に、なにか慰めがあるとしたら、それは浅草を逍遥することと、頻繁に訪れる小林青年との交情であったと思われる。
しかし、荷風の死と共に小林青年は姿を消し、以後、その消息を知るものはいない。
彼について一枚の写真も残っていないのだ。
展覧会会場には主宰者側から、小林修氏についての消息を求める掲示があった。地元の市川市でも氏についての記録は無いらしい。
死の直前の荷風は、いったい何を思ってどのように住み暮らしていたのか、それを最もよく知る小林氏は荷風研究家、荷風ファンの大いなる調査・捜索の対象であるが、いまだかって氏について何の手がかりもない。
注2.参考文献
最晩年の荷風
http://yokato41.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1251.html
焼きたてのトーストにバターを塗り
ついでにマーマレードも少々。
風邪で微熱があるぼくは その朝そんな朝食を摂った。
久しぶりに。
朝食を摂らないぼくにとっては例外的な出来事。
ああ 今日は大事をとって家でごろごろして過ごそう。
おっ トーストってこんなにうまかったっけ?
話す相手がいないので 自分につぶやく。
夕べは寝苦しく 寝ては覚め 覚めては寝てをくり返していた。
荷風老人の後姿が 夢うつつの中にあらわれたりもした。
遠くで犬が吠えている。
少年の日 熱が出て眠れぬ夜。
よくそんな犬の遠吠えを聞いていたことを思い出す。
父も母も まだ若かったあのころ。
犬の声が耳朶の奥で反響し
ありありと ありありとなにかが甦る。
記憶の底辺にある水たまりで 種々雑多な魚が跳ねている。
2
昭和三十四年 市川市の陋屋で一人の老人が孤独死する。
文化勲章受章者 永井荷風七十九歳。
気になってぼくはさっき調べた。
四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。
四月廿四日。陰。
四月廿五日。晴。
四月廿六日。日曜日。晴。
四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
四月廿八日。晴。小林来る。
四月廿九日。祭日。陰。
「断腸亭日乗」最後の一週間は小林というこの人物しか登場しない。
編集者か出版関係者かとかんがえたけれど、どうも違うらしい。
小林は小林修なる人だというが 調べても
ほとんど手がかりがないことがわかっただけ。
「断腸亭日乗」にその名を刻んで 小林なる人物は歳月の彼方に没し去っている。
3
寝たままでも手をのばせばとどく範囲に
いろんな本がころがっている。
ぼくがそれを好んでいるせいだ。
この数日「断腸亭日乗」もその中の一冊に入った。
“戦後の荷風”はぼくのオブセッションになりつつある。
自分がいつか 孤独死するのではないか
いつのころからか・・・そんな恐れがこころのどこかに巣食っている。
熱があるせいだろう
頭の中の世界と 外の世界
その境界がいくらかあいまいになってしまった。
だから というべきかどうか
荷風が隣りのおやじに思えてくる。
夕べがそうだった。
十月二十六日(日) 曇りのち晴れ。
風寒し・・・とぼくは荷風になったつもりで書いてみる。
「日和下駄」を書いたころ荷風は三十六歳。
ずっと歩きつづけ 歩きつづけて生きてきたのだ。
生きるとは歩くこと。
そして歩けなくなった荷風は落日をむかえる。
荷風落日。
しかし 陋巷に窮死したわけではない。
4
まだまだぼくは歩ける。
だけどそれはいつか歩けなくなる日がやってくるということ。
トーストを二切れ食べ
うすいブラックコーヒーを飲む。
二杯目にはミルクをたっぷりと注いで。
そうしてふたたび荷風の幻像をもとめ
本のページへともどっていく。
近代日記文学の極北とみられている「断腸亭日乗」。
彼の足音は聞こえるけれどうめき声は聞こえない。
そこから荷風のうめきを聞き取ることが いずれできるようになるだろう。
好む 好まないにかかわらず。
年齢とはそうして 人の体や精神を衰亡させるもの。
最後のひと口を飲み込んでぼくは立ち上がる。
「さて 今日も歩こう 歩かねば」
カメラを手にして玄関ドアを開け
ぼくは裏の畑へと出ていく。
注1.参考文献
<The Quiet Days of Nishi-Azabu>より引用
この「小林」というのは小林修という青年で、市川の闇市で衣服を商っていた人物だという。
荷風は彼の店から何点か衣服を買っていただけの関係だったのだが、間借りしていた小西茂也氏の家を追われた時、途方に暮れていた荷風を見かねて転居先を探すのに助力した。以来、荷風はこの青年をたいそう信頼し、人嫌いの彼が小林青年だけは家に入るのを許すようになる。
小林青年は老母とともに何くれとなく荷風の面倒を見ていたことが日記から分かる。それは金銭づくとか荷風の名声を利用しようとか、そういうことではないようだ。この青年、頼りなさそうな爺さんが何となく好きになった――としか思えない。であるから、金銭的な報酬はほとんど得ていないのではないだろうか。
なんとなく池波正太郎の描く時代劇に出てきそうな人間ではないか。
最晩年、体力の衰え、気力の衰えをふり絞りつつ余命を生き抜いていた荷風に、なにか慰めがあるとしたら、それは浅草を逍遥することと、頻繁に訪れる小林青年との交情であったと思われる。
しかし、荷風の死と共に小林青年は姿を消し、以後、その消息を知るものはいない。
彼について一枚の写真も残っていないのだ。
展覧会会場には主宰者側から、小林修氏についての消息を求める掲示があった。地元の市川市でも氏についての記録は無いらしい。
死の直前の荷風は、いったい何を思ってどのように住み暮らしていたのか、それを最もよく知る小林氏は荷風研究家、荷風ファンの大いなる調査・捜索の対象であるが、いまだかって氏について何の手がかりもない。
注2.参考文献
最晩年の荷風
http://yokato41.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1251.html