(「オリジナル版「智恵子抄」「智恵子抄その後」龍星閣。驚くべきことに、前者には「全国学校図書館協議会選定 必読図書」のキラキラシールが貼ってある」)
せんじつふらりと市内の古書店に立ち寄ったら、龍星閣の「智恵子抄」「智恵子抄その後」が置いてあった。価格が税込み500円だったから、二冊とも買ってかえり、あらかた読みおえた。
萩原朔太郎、宮沢賢治については、これまで断片的に感想を書いたことがあったが、高村光太郎については、一度もふれたことがなかったので、少し書く気になった(^_^)/~
わたしには「これぞ」と思った小説・詩その他の本を、何度も読み返すクセがある。
新しい本には、めったに飛びつかない。10代で読み、20代で読む。30代で読み、40代で読む。
読者たるこちらの年齢や精神的な成熟の度合い、世の中の変化、人間関係の変遷等によって、作品のたたずまいはひどく違った印象をあたえるものである。
それがおもしろくて仕方ない。
「あのときはああおもったけれど、いまよむと、こうだ」と、読み返しながら、その本とわたしの関係性をさかのぼる。
最近、後ろばかり振り返ることが多くなったわたしは、本の内容とともに、本との「関係性の変化」を同時に愉しんでいる。
わたしは高村光太郎の「よき読者」ではないから、彼の全体像を対象に論じることはできない。手に余る。
近代詩の巨星といってもいい、すぐれた詩人であってみれば、なおさらであるし、彫刻についても、ふれないわけにはいかなくなる。したがって、二点に焦点を合わせて論じることにする。
さて、はじめは「智恵子抄」について。
《一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやっています、病人の狂騒状態は六七時間立つづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかけること二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません(以下略)》
《チエ子は今日は又荒れています、アトリエのまん中に屹立して独語と放吟の法悦状態に没入しています、さういふ時は食物も何もまったくうけつけません、私はただ静かに同席して書物などを読んでゐます、仕事はまったく出来ません(以下略)》(光太郎が中原綾子に宛てた私信の一部)
この引用は、吉本隆明の「高村光太郎」から、いわば孫引きさせていただいた一節。
「智恵子抄」の生活の背景に、これほどの修羅場が横たわっていたことなど、まったく考えてもみなかった。
わたしは若いころ、5~6年間精神病院に事務のスタッフとしてだが、勤めたことがあるので、ここに書かれたような精神症状の激発については、実感的に理解できる。
新潮文庫に収録された作品でいえば、冒頭に収められた「人に」が書かれたのが明治45(1912)年、最後の「報告」が、昭和27(1952)年となり、光太郎はおよそ40年に渡って、智恵子の詩を書いてきた。
出会いから、入院したあとの看病から、死まで。いや、智恵子の死後、光太郎は17年の歳月をすごすことになるが、最後の作品は自らの死の4年前。そんなにも長いあいだ、妻智恵子が、ただ彼女だけが彼の胸の真ん中に居座りつつけた。これは尋常ならざる心の摂理である。
「もしかしたら、世界的にも他に例がない恋愛の究極の姿ではあるまいか!?」と考えたことすらあった。
しかし、吉本さんの「高村光太郎」「高村光太郎小論集」を読むことによって、そういった表向きの顔の裏に、恐ろしい般若が潜んでいたことを知り、驚愕!!
よきにつけ、悪しきにつけ、吉本さんが解剖してみせてくれた光太郎像以外の角度からは、作品が読めなくなった。
彼はなぜ、これほどまで徹底して、妻智恵子を聖化し美化したのか? 吉本さんがいうように、この詩集の中に封じ込められた智恵子は、光太郎が一方的につくりあげたある種の虚像である。
智恵子その人の考えや、ことばや、息づかいといったものは、まったく表現されていない。
《「道程」一巻も恐るべき詩集である。「智恵子抄」も恐るべき詩集である。前者は、その背後に父光雲の芸術と人間に対するぞっとするような憎悪と排反を秘しているからであり、後者は、夫人の自殺未遂、狂死という生活史の陰惨な破滅を支払って、高村があがない得たものだからだ。》(「『出さずにしまった手紙の一束』のこと」より)
数日前のことだが、光太郎のアンソロジーを読み返していたとき、つぎのような前書きをもつ「独居自炊」という詩が眼に映った。そこに、こうある。
《母は大正十四年父は昭和九年妻は同十三年に死んだ。鰥(かん)にして独。昼日彫刻燈下作詩。門弟婢僕皆無。仕事場一居室三。身体頑健。》
近代の詩人の中で、光太郎ほど倫理的な詩人はほかに存在しない。質実剛健だし、古武士のように剛直。反時代的といわれようが、孤立していようが、彼はさして苦にするふうもなく、智恵子はむろん、肉親らしき者のいない荒涼たる原野を、終戦(敗戦)に向かって歩いていく。
そして、そこに、つぎの悲劇が待っている。
せんじつふらりと市内の古書店に立ち寄ったら、龍星閣の「智恵子抄」「智恵子抄その後」が置いてあった。価格が税込み500円だったから、二冊とも買ってかえり、あらかた読みおえた。
萩原朔太郎、宮沢賢治については、これまで断片的に感想を書いたことがあったが、高村光太郎については、一度もふれたことがなかったので、少し書く気になった(^_^)/~
わたしには「これぞ」と思った小説・詩その他の本を、何度も読み返すクセがある。
新しい本には、めったに飛びつかない。10代で読み、20代で読む。30代で読み、40代で読む。
読者たるこちらの年齢や精神的な成熟の度合い、世の中の変化、人間関係の変遷等によって、作品のたたずまいはひどく違った印象をあたえるものである。
それがおもしろくて仕方ない。
「あのときはああおもったけれど、いまよむと、こうだ」と、読み返しながら、その本とわたしの関係性をさかのぼる。
最近、後ろばかり振り返ることが多くなったわたしは、本の内容とともに、本との「関係性の変化」を同時に愉しんでいる。
わたしは高村光太郎の「よき読者」ではないから、彼の全体像を対象に論じることはできない。手に余る。
近代詩の巨星といってもいい、すぐれた詩人であってみれば、なおさらであるし、彫刻についても、ふれないわけにはいかなくなる。したがって、二点に焦点を合わせて論じることにする。
さて、はじめは「智恵子抄」について。
《一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやっています、病人の狂騒状態は六七時間立つづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかけること二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません(以下略)》
《チエ子は今日は又荒れています、アトリエのまん中に屹立して独語と放吟の法悦状態に没入しています、さういふ時は食物も何もまったくうけつけません、私はただ静かに同席して書物などを読んでゐます、仕事はまったく出来ません(以下略)》(光太郎が中原綾子に宛てた私信の一部)
この引用は、吉本隆明の「高村光太郎」から、いわば孫引きさせていただいた一節。
「智恵子抄」の生活の背景に、これほどの修羅場が横たわっていたことなど、まったく考えてもみなかった。
わたしは若いころ、5~6年間精神病院に事務のスタッフとしてだが、勤めたことがあるので、ここに書かれたような精神症状の激発については、実感的に理解できる。
新潮文庫に収録された作品でいえば、冒頭に収められた「人に」が書かれたのが明治45(1912)年、最後の「報告」が、昭和27(1952)年となり、光太郎はおよそ40年に渡って、智恵子の詩を書いてきた。
出会いから、入院したあとの看病から、死まで。いや、智恵子の死後、光太郎は17年の歳月をすごすことになるが、最後の作品は自らの死の4年前。そんなにも長いあいだ、妻智恵子が、ただ彼女だけが彼の胸の真ん中に居座りつつけた。これは尋常ならざる心の摂理である。
「もしかしたら、世界的にも他に例がない恋愛の究極の姿ではあるまいか!?」と考えたことすらあった。
しかし、吉本さんの「高村光太郎」「高村光太郎小論集」を読むことによって、そういった表向きの顔の裏に、恐ろしい般若が潜んでいたことを知り、驚愕!!
よきにつけ、悪しきにつけ、吉本さんが解剖してみせてくれた光太郎像以外の角度からは、作品が読めなくなった。
彼はなぜ、これほどまで徹底して、妻智恵子を聖化し美化したのか? 吉本さんがいうように、この詩集の中に封じ込められた智恵子は、光太郎が一方的につくりあげたある種の虚像である。
智恵子その人の考えや、ことばや、息づかいといったものは、まったく表現されていない。
《「道程」一巻も恐るべき詩集である。「智恵子抄」も恐るべき詩集である。前者は、その背後に父光雲の芸術と人間に対するぞっとするような憎悪と排反を秘しているからであり、後者は、夫人の自殺未遂、狂死という生活史の陰惨な破滅を支払って、高村があがない得たものだからだ。》(「『出さずにしまった手紙の一束』のこと」より)
数日前のことだが、光太郎のアンソロジーを読み返していたとき、つぎのような前書きをもつ「独居自炊」という詩が眼に映った。そこに、こうある。
《母は大正十四年父は昭和九年妻は同十三年に死んだ。鰥(かん)にして独。昼日彫刻燈下作詩。門弟婢僕皆無。仕事場一居室三。身体頑健。》
近代の詩人の中で、光太郎ほど倫理的な詩人はほかに存在しない。質実剛健だし、古武士のように剛直。反時代的といわれようが、孤立していようが、彼はさして苦にするふうもなく、智恵子はむろん、肉親らしき者のいない荒涼たる原野を、終戦(敗戦)に向かって歩いていく。
そして、そこに、つぎの悲劇が待っている。