宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(「真珠湾の日」前半、以下略)
この詩作品はたしか、半藤一利さんの「十二月八日と八月十五日」 (文春文庫)にも収録されていたはず。
半藤さんのこの一冊は、当時の知識人、文学者、各界の有名人、新聞、一般大衆が、真珠湾攻撃の大戦果と、対米英戦争をどうとらえたかをじつに過不足なく論証した有意なものになっている。
光太郎はほかに「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、戦争を賛美した。
そして彼は戦禍によりアトリエを全焼し、もてるもののほぼすべてを失った。
過酷であったはずのこの体験をどこにも書いていないようだから、詳細は不明。
身一つで、岩手へ向かう。
しかも、その彼に「おれは戦争協力者であった」という自責の念が、痛切に襲ってくる。
これこそ、最後の、そして徹底的な挫折体験であったのだ。身を寄せた宮沢賢治の弟清六方も戦災で焼け、郊外のぼろ家を借りて、一人暮らしをはじめる。
光太郎は食に対する関心が強かった人であり、智恵子亡き後、独居し、自炊生活をつづけていた。
そこで書かれた(まとめられた)のが「暗愚小伝」の連作であった。「智恵子抄」にはおよぶべくもないが、わたしのような年齢になってこの詩を読んでみると、おいそれとは読み捨てにできないことばが、ぎしぎし刻み込まれているのがわかる。
彼は戦争犯罪人であったわけではなく、手放しで戦争讃美の詩を書いたことを戦後になって反省する。それを「自己流謫」と彼は自ら称している。
この写真は独居する岩手県の山荘にいる光太郎。
並大抵の生活ではなかったことが、ここから想像できる。ここまで自分を追いつめなければ気が済まなかったということだろう。こういうところに、己に課した高潔な倫理性と、剛直な気性がうかがい知れる。彼の崇拝者は、このころからしだいにふえていったものと思われる。
わたしはかつて「荷風 ひとり暮らしの贅沢」というような本を何冊か、とても興味深く読んだ。類書が何冊も刊行されている。
荷風は引き継いだ家の資産で十分食べていけた文人である。同じく独居自炊とはいえ、しばしば浅草の歓楽街に出没し、踊り子、色町の女と遊興のひとときをすごした。
「断腸亭日乗」によると、そういう生活は最晩年までつづけられた。
その荷風の「独居自炊」との比較でいえば、光太郎のほうの独居自炊は、禅僧というか、苦行僧の生活に近いものが感じられる。
「智恵子抄その後」には、疎開先の生活にふれたエッセイが数編収められている。つましく、素朴な生活に、彼は満足している。
そこでも、光太郎は少しも孤独ではなかった。仏教的にいえば、智恵子は彼にとって“観音”だからである。観音はことばを発する必要はない。
光太郎はその人生のほんとうの終わりに、智恵子という観音を彫る機会に恵まれる。
人生最後の仕事は、彫刻家としての仕事であり、彼は日夜それに没頭し、心身をすり減らしていくことになる。
いうまでもなく、十和田湖畔に立つ「乙女像」(乙女の像)がそれである。千恵子をモデルにしたといわれる、二体の観音像。だから、あの像の前にたったら、黙って手を合わせ、礼拝するのが礼儀である。
高村光太郎という、明治、大正、昭和をしぶとく生き抜いた彫刻家=詩人がいたということを、心ある人は忘れることはないであろう。
「神仏人像彫刻師一東刀斎光雲」
これが、亡き父高村光雲の肩書であった。
光太郎の魂は、智恵子の像をつれて、父の膝もとへ帰ったのである。
※「暗愚小伝」を知らないという方は、こちらをご参照下さい。
http://bungeikan.jp/domestic/detail/440/#P22
※二代目コロンビア・ローズ「智恵子抄」
https://www.youtube.com/watch?v=nL5VN70Lmb8
※やや長くなったため、2回に分載とした。
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
咋日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
(「真珠湾の日」前半、以下略)
この詩作品はたしか、半藤一利さんの「十二月八日と八月十五日」 (文春文庫)にも収録されていたはず。
半藤さんのこの一冊は、当時の知識人、文学者、各界の有名人、新聞、一般大衆が、真珠湾攻撃の大戦果と、対米英戦争をどうとらえたかをじつに過不足なく論証した有意なものになっている。
光太郎はほかに「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、戦争を賛美した。
そして彼は戦禍によりアトリエを全焼し、もてるもののほぼすべてを失った。
過酷であったはずのこの体験をどこにも書いていないようだから、詳細は不明。
身一つで、岩手へ向かう。
しかも、その彼に「おれは戦争協力者であった」という自責の念が、痛切に襲ってくる。
これこそ、最後の、そして徹底的な挫折体験であったのだ。身を寄せた宮沢賢治の弟清六方も戦災で焼け、郊外のぼろ家を借りて、一人暮らしをはじめる。
光太郎は食に対する関心が強かった人であり、智恵子亡き後、独居し、自炊生活をつづけていた。
そこで書かれた(まとめられた)のが「暗愚小伝」の連作であった。「智恵子抄」にはおよぶべくもないが、わたしのような年齢になってこの詩を読んでみると、おいそれとは読み捨てにできないことばが、ぎしぎし刻み込まれているのがわかる。
彼は戦争犯罪人であったわけではなく、手放しで戦争讃美の詩を書いたことを戦後になって反省する。それを「自己流謫」と彼は自ら称している。
この写真は独居する岩手県の山荘にいる光太郎。
並大抵の生活ではなかったことが、ここから想像できる。ここまで自分を追いつめなければ気が済まなかったということだろう。こういうところに、己に課した高潔な倫理性と、剛直な気性がうかがい知れる。彼の崇拝者は、このころからしだいにふえていったものと思われる。
わたしはかつて「荷風 ひとり暮らしの贅沢」というような本を何冊か、とても興味深く読んだ。類書が何冊も刊行されている。
荷風は引き継いだ家の資産で十分食べていけた文人である。同じく独居自炊とはいえ、しばしば浅草の歓楽街に出没し、踊り子、色町の女と遊興のひとときをすごした。
「断腸亭日乗」によると、そういう生活は最晩年までつづけられた。
その荷風の「独居自炊」との比較でいえば、光太郎のほうの独居自炊は、禅僧というか、苦行僧の生活に近いものが感じられる。
「智恵子抄その後」には、疎開先の生活にふれたエッセイが数編収められている。つましく、素朴な生活に、彼は満足している。
そこでも、光太郎は少しも孤独ではなかった。仏教的にいえば、智恵子は彼にとって“観音”だからである。観音はことばを発する必要はない。
光太郎はその人生のほんとうの終わりに、智恵子という観音を彫る機会に恵まれる。
人生最後の仕事は、彫刻家としての仕事であり、彼は日夜それに没頭し、心身をすり減らしていくことになる。
いうまでもなく、十和田湖畔に立つ「乙女像」(乙女の像)がそれである。千恵子をモデルにしたといわれる、二体の観音像。だから、あの像の前にたったら、黙って手を合わせ、礼拝するのが礼儀である。
高村光太郎という、明治、大正、昭和をしぶとく生き抜いた彫刻家=詩人がいたということを、心ある人は忘れることはないであろう。
「神仏人像彫刻師一東刀斎光雲」
これが、亡き父高村光雲の肩書であった。
光太郎の魂は、智恵子の像をつれて、父の膝もとへ帰ったのである。
※「暗愚小伝」を知らないという方は、こちらをご参照下さい。
http://bungeikan.jp/domestic/detail/440/#P22
※二代目コロンビア・ローズ「智恵子抄」
https://www.youtube.com/watch?v=nL5VN70Lmb8
※やや長くなったため、2回に分載とした。