
(前橋文学館正面玄関わきにたたずむ朔太郎のブロンズ像。2012年撮影)
宮沢賢治と並行して、最近またぽつり、ぽつりと読みはじめたのが、郷土の詩人萩原朔太郎。
はじめて出会ったのは、中学生のころ、国語の教科書だったはず。
それ以来、途切れとぎれにつきあってきた。
朔太郎の小論を書こうと思い、書きかけてみたけれど、筆がすすまない。
彼は1942年(昭和17)に55歳(満)で亡くなっている。わたしはいつのまにか朔太郎の年齢をこえてしまったので、若いころに読んだ朔太郎と、いま読む朔太郎とで、ずいぶん違った印象をうけるのは当たり前である。
・・・ということで萩原朔太郎論はもう少し先送りし、昨日がいいお天気だったので、前橋文学散歩をやってきた。いたってミーハーな気分だけど、むろんこれも悪くはあるまい(^皿^)
トップの一枚は、2012年にヤシカマット124Gで撮影している。
フィルムはコダックのポートラ160だったかも知れないが、ハッキリとは記憶にない。
生前は故郷の大多数の人びとから白眼視され、侮蔑さえされて苦しんだ朔太郎がこれを見たらなんという感想をもらすだろう\(_ _*)m

生家跡に建つ記念碑。すぐ後ろは15階建ての無粋なマンションが聳えている。

その南のストリートが朔太郎通りと名付けられていることを、今回の散歩で発見!
いやはや、朔太郎はいまやすっかり地元前橋の観光資源あつかい。
目玉となるような観光資源はこの町にはほかにないから、彼も大目に見てくれるだろう。・・・かな?

白御影の薄板がそのストリートの歩道に埋め込まれている。
なにかと思ったら、前橋市が主催する「萩原朔太郎賞」(副賞100万円)の受賞者を顕彰する石碑だった。
「この通りにいくつもならんでいますよ」と、表具屋さんの奥様が教えて下さった。
平成26年(2014)で、22回目、今年23回を迎える。
前橋市内に、萩原さんの詩碑がいったい何本建てられているのだろう。
彼とほぼ同時代、上州は山村暮鳥や大手拓次やその他の詩人をつぎつぎと輩出したけれど、萩原さんのほかは一般には忘れさられてしまったといっていい。

わたしの仕事場からクルマで5~6分のところにある敷島公園の一隅に、朔太郎の生家の一部が移築、保存されている。

これは離れ座敷だろうか。朔太郎愛用のデスクと椅子が置かれている。

土蔵の中に、ガラスケースに入れられた資料が展示してある。

室生犀星とはじめた詩誌「感情」。

「青猫」「蝶を夢む」の初版本。


「猫町」初版と、彼のプロフィール。

気になる書物は、わたしはくり返ししつこく読み返すというクセがある。新しいものにはすぐには飛びつかない、飛びつけないが、これはわたしの“習性”みたいなもの。
これらの本によって、朔太郎とつきあう。
全集は全巻揃いではもっていないが、全巻揃えても、読まないことはわかっているから(笑)。
彼の最後の詩集「氷島」をどう評価したらいいか、まだ迷っていて書きかけの「萩原朔太郎小論」が、2~3個ある~~ヽ う~~む、む。
大正6年に刊行された日本初の口語自由詩「月に吠える」の影響力は比類ないものがあったろう。
それは大正13年に世に出た宮沢賢治「春と修羅」の中からもうかがい知ることができる。
西脇順三郎さんは朔太郎詩と出会って「詩が書ける」と考えたのだし、三好達治は生涯、彼朔太郎を師と仰いだ。
平成も二十数年がたってしまったいま、さすがに「朔太郎と出会って、詩を書きはじめました」という詩人はいないだろう。
しかし・・・もうそろそろわたし自身の朔太郎評価を、具体的にまとめるべき時期にはきている。
わたしは朔太郎の町前橋を長らく仕事場にしてきた。
まわりをキョロキョロ見回すと、いたるところに朔太郎の影が射しているように思われる。
そのことが逆にわたし自身を、意識過剰に陥れているといえるかも知れないが・・・。
宮沢賢治と並行して、最近またぽつり、ぽつりと読みはじめたのが、郷土の詩人萩原朔太郎。
はじめて出会ったのは、中学生のころ、国語の教科書だったはず。
それ以来、途切れとぎれにつきあってきた。
朔太郎の小論を書こうと思い、書きかけてみたけれど、筆がすすまない。
彼は1942年(昭和17)に55歳(満)で亡くなっている。わたしはいつのまにか朔太郎の年齢をこえてしまったので、若いころに読んだ朔太郎と、いま読む朔太郎とで、ずいぶん違った印象をうけるのは当たり前である。
・・・ということで萩原朔太郎論はもう少し先送りし、昨日がいいお天気だったので、前橋文学散歩をやってきた。いたってミーハーな気分だけど、むろんこれも悪くはあるまい(^皿^)
トップの一枚は、2012年にヤシカマット124Gで撮影している。
フィルムはコダックのポートラ160だったかも知れないが、ハッキリとは記憶にない。
生前は故郷の大多数の人びとから白眼視され、侮蔑さえされて苦しんだ朔太郎がこれを見たらなんという感想をもらすだろう\(_ _*)m

生家跡に建つ記念碑。すぐ後ろは15階建ての無粋なマンションが聳えている。

その南のストリートが朔太郎通りと名付けられていることを、今回の散歩で発見!
いやはや、朔太郎はいまやすっかり地元前橋の観光資源あつかい。
目玉となるような観光資源はこの町にはほかにないから、彼も大目に見てくれるだろう。・・・かな?

白御影の薄板がそのストリートの歩道に埋め込まれている。
なにかと思ったら、前橋市が主催する「萩原朔太郎賞」(副賞100万円)の受賞者を顕彰する石碑だった。
「この通りにいくつもならんでいますよ」と、表具屋さんの奥様が教えて下さった。
平成26年(2014)で、22回目、今年23回を迎える。
前橋市内に、萩原さんの詩碑がいったい何本建てられているのだろう。
彼とほぼ同時代、上州は山村暮鳥や大手拓次やその他の詩人をつぎつぎと輩出したけれど、萩原さんのほかは一般には忘れさられてしまったといっていい。

わたしの仕事場からクルマで5~6分のところにある敷島公園の一隅に、朔太郎の生家の一部が移築、保存されている。

これは離れ座敷だろうか。朔太郎愛用のデスクと椅子が置かれている。

土蔵の中に、ガラスケースに入れられた資料が展示してある。

室生犀星とはじめた詩誌「感情」。

「青猫」「蝶を夢む」の初版本。


「猫町」初版と、彼のプロフィール。

気になる書物は、わたしはくり返ししつこく読み返すというクセがある。新しいものにはすぐには飛びつかない、飛びつけないが、これはわたしの“習性”みたいなもの。
これらの本によって、朔太郎とつきあう。
全集は全巻揃いではもっていないが、全巻揃えても、読まないことはわかっているから(笑)。
彼の最後の詩集「氷島」をどう評価したらいいか、まだ迷っていて書きかけの「萩原朔太郎小論」が、2~3個ある~~ヽ う~~む、む。
大正6年に刊行された日本初の口語自由詩「月に吠える」の影響力は比類ないものがあったろう。
それは大正13年に世に出た宮沢賢治「春と修羅」の中からもうかがい知ることができる。
西脇順三郎さんは朔太郎詩と出会って「詩が書ける」と考えたのだし、三好達治は生涯、彼朔太郎を師と仰いだ。
平成も二十数年がたってしまったいま、さすがに「朔太郎と出会って、詩を書きはじめました」という詩人はいないだろう。
しかし・・・もうそろそろわたし自身の朔太郎評価を、具体的にまとめるべき時期にはきている。
わたしは朔太郎の町前橋を長らく仕事場にしてきた。
まわりをキョロキョロ見回すと、いたるところに朔太郎の影が射しているように思われる。
そのことが逆にわたし自身を、意識過剰に陥れているといえるかも知れないが・・・。