CX4
写真も人生も、明と暗のつづれ織り。
友人、知人の禍福のありようを見聞きするにつけ、年齢相応の感慨をもよおす。
「そういえば、あいつの墓参りには、いっぺんも出かけていないぞ」
夢に登場したことで、ふと思い出し、呵責の念に駆られる(=_=)
夢の中で、彼は少しも年をとってはおらず、幸せそうな微笑をうかべて、たばこ屋の角を曲がり、その向こうへと消えていく。
「あ、ちょっと待って。――待てよ」
あのときのあの姿が、彼を見た最後になった・・・なんてことが、当然ありうるし、あったのである。
明があれば、それに寄り添うがごとく、暗がある。
『人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)』
ともいうし、
『人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)』
というのもある。
これも、いわんとしているところは微妙に違うけれど、まあ、似たり寄ったりのことわざだろう。
『禍福は糾える縄のごとし(かふくはあざなえるなわのごとし)』
・・・なんてのもある。
このあいだ「夜への階段」を見返していて、明暗差の大きなその画面から、明と暗が、その落差が、なんとなく気になって、この日記を書くことになった(^^;)
トップにあげたのは、つい昨日、「アサヒカメラ」を買うためにいった書店の駐車場で撮影した一枚。小雨が降っていて、フロントガラス越しのショットであるが、ハイライトは完全にぶっ飛んでしまい、人物もディテールがにじんで、たしかな像をむすんではいない。
しか~し、「これは久々の会心作だぞ!」とばかり、三毛ネコさんはある手応えを感じている。
人間とはかくも孤独な姿をさらして生きているものか!
そんな思いにこころ撲たれるのである。
もう一枚を対比させてみよう。
D7000
こちらは信号待ちで撮影。
フットサルの競技場で見かけた光景で、ほんとうに淡あわとした微光の中に、母と息子のうしろ姿が浮かび上がっている。その奥に、三人の点景人物。
信号が変わり、せきたてられるように、ほとんどノーファインダーでシャッターを押す。
「おお、写っているぞ」
一瞬だけ視界の端をかすめ過ぎたこの光景に、なぜかこころ撲たれる。
上の写真が「明」とすれば、闇の底にうっすらとにじんでいる下の写真は「暗」ということになる。
人間とはかくも孤独な姿をさらして生きているものか!
いまは、こんな表現しか、おもいつかないけれど、さっきから見返していたら、フラグメント・シリーズの中に、つぎの一枚があったのを思い出した。
CX4(トイフォト)
これらは、本来はイメージによる思考とでもいうべきものだから、この光景自体が、ことばによる説明を拒絶している。
撮影地は、近隣にある大きな寺の山門付近。
同行者がさっさと山門をくぐっていってしまったあと、この老婆が、置き忘れられた荷物のように佇んでいたのである。
表現とはおもしろいもので、2000字、3000字、あるいはその何倍かのことばを費やしても、たった一枚のスチール写真においつかないことがある。写真にとりつかれるってのは、これなんだろうなあ・・・などと考えてみるが、見返すたびに、わたしのこころにわき上がる感想は、少しずつ違うようでもある。
こころにつき刺さるような鮮烈なイメージをもとめて、今日もカメラに手をのばす。
写真も人生も、明と暗のつづれ織り。
友人、知人の禍福のありようを見聞きするにつけ、年齢相応の感慨をもよおす。
「そういえば、あいつの墓参りには、いっぺんも出かけていないぞ」
夢に登場したことで、ふと思い出し、呵責の念に駆られる(=_=)
夢の中で、彼は少しも年をとってはおらず、幸せそうな微笑をうかべて、たばこ屋の角を曲がり、その向こうへと消えていく。
「あ、ちょっと待って。――待てよ」
あのときのあの姿が、彼を見た最後になった・・・なんてことが、当然ありうるし、あったのである。
明があれば、それに寄り添うがごとく、暗がある。
『人間到処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)』
ともいうし、
『人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)』
というのもある。
これも、いわんとしているところは微妙に違うけれど、まあ、似たり寄ったりのことわざだろう。
『禍福は糾える縄のごとし(かふくはあざなえるなわのごとし)』
・・・なんてのもある。
このあいだ「夜への階段」を見返していて、明暗差の大きなその画面から、明と暗が、その落差が、なんとなく気になって、この日記を書くことになった(^^;)
トップにあげたのは、つい昨日、「アサヒカメラ」を買うためにいった書店の駐車場で撮影した一枚。小雨が降っていて、フロントガラス越しのショットであるが、ハイライトは完全にぶっ飛んでしまい、人物もディテールがにじんで、たしかな像をむすんではいない。
しか~し、「これは久々の会心作だぞ!」とばかり、三毛ネコさんはある手応えを感じている。
人間とはかくも孤独な姿をさらして生きているものか!
そんな思いにこころ撲たれるのである。
もう一枚を対比させてみよう。
D7000
こちらは信号待ちで撮影。
フットサルの競技場で見かけた光景で、ほんとうに淡あわとした微光の中に、母と息子のうしろ姿が浮かび上がっている。その奥に、三人の点景人物。
信号が変わり、せきたてられるように、ほとんどノーファインダーでシャッターを押す。
「おお、写っているぞ」
一瞬だけ視界の端をかすめ過ぎたこの光景に、なぜかこころ撲たれる。
上の写真が「明」とすれば、闇の底にうっすらとにじんでいる下の写真は「暗」ということになる。
人間とはかくも孤独な姿をさらして生きているものか!
いまは、こんな表現しか、おもいつかないけれど、さっきから見返していたら、フラグメント・シリーズの中に、つぎの一枚があったのを思い出した。
CX4(トイフォト)
これらは、本来はイメージによる思考とでもいうべきものだから、この光景自体が、ことばによる説明を拒絶している。
撮影地は、近隣にある大きな寺の山門付近。
同行者がさっさと山門をくぐっていってしまったあと、この老婆が、置き忘れられた荷物のように佇んでいたのである。
表現とはおもしろいもので、2000字、3000字、あるいはその何倍かのことばを費やしても、たった一枚のスチール写真においつかないことがある。写真にとりつかれるってのは、これなんだろうなあ・・・などと考えてみるが、見返すたびに、わたしのこころにわき上がる感想は、少しずつ違うようでもある。
こころにつき刺さるような鮮烈なイメージをもとめて、今日もカメラに手をのばす。