花は生殖器であると、作品のなかではっきり書いているのは、戦後詩を代表する詩人、田村隆一さん。普通はそんなことをいえば、
「まあ、なんてはしたない」
「いや、まあ、そこまで露骨にいわなくても」
なんてリアクションが返ってくる。
田村さんは、金子光晴さんとならぶ「反骨詩人」の一面を、その詩魂の奥にやどしている。
しかし、同時に彼らは遊びの名人で、女性遍歴も華やかだったはず・・・。
田村さんが翻訳したポルノ小説を読んだことがあるが、男のわたしですらちょっと眉をひそめたくなるほど、いやらしさ全開だった(^^;) 一方の金子さんは、いわずと知れた「愛情69」の詩人で、孫ほど歳のはなれた愛人とのベッドシーンを巧みな歌にしている。
また「軽み」の新境地ともいえる、わたしの大好きな「花とあきビン」の詩人なのである。
生殖器ということばは、無機的で露骨だが、田村さんだから、まあ、印象にのこったのであろう。ほかの人が書いたことなら、読み飛ばしてしまい、とっくに忘却の淵に沈んでいる。
けさは肌寒く小雨が降っていた。10時を過ぎたころからお天気が回復しはじめ、
郵便局と銀行へいったついでに、ふたたび、ばら園をのぞいた。
キーワードは「もっと逸楽的に」である。
耽美的、退廃的・・・ということばもあるが、金子さんや田村さんがその涯の荒野まで味わいつくした、快楽の境地を、薔薇を使って表現できないだろうか・・・とおもってのこと。
薔薇にはトゲがあるからご用心、ご用心と、人はよくいう。
しかし、爛熟の涯にあらわれる、頽廃の美は、この花を使って表現するのが、いちばんふさわしいのではないか?
むろん、清楚&エレガント&シンプルに撮ることもできる。
それは撮る側の心の問題であり、見る側の心の問題である。
「ずいぶんとまあ、逸楽的な薔薇だなあ」とわたしが思っても、
同じ写真を見て、別な人は「セクシーとエレガンスはちゃんと共存するのね」というかも知れない。
そこからいわば、リアクションのモザイクがはじまる。
「まあ、なんてはしたない」
「いや、まあ、そこまで露骨にいわなくても」
なんてリアクションが返ってくる。
田村さんは、金子光晴さんとならぶ「反骨詩人」の一面を、その詩魂の奥にやどしている。
しかし、同時に彼らは遊びの名人で、女性遍歴も華やかだったはず・・・。
田村さんが翻訳したポルノ小説を読んだことがあるが、男のわたしですらちょっと眉をひそめたくなるほど、いやらしさ全開だった(^^;) 一方の金子さんは、いわずと知れた「愛情69」の詩人で、孫ほど歳のはなれた愛人とのベッドシーンを巧みな歌にしている。
また「軽み」の新境地ともいえる、わたしの大好きな「花とあきビン」の詩人なのである。
生殖器ということばは、無機的で露骨だが、田村さんだから、まあ、印象にのこったのであろう。ほかの人が書いたことなら、読み飛ばしてしまい、とっくに忘却の淵に沈んでいる。
けさは肌寒く小雨が降っていた。10時を過ぎたころからお天気が回復しはじめ、
郵便局と銀行へいったついでに、ふたたび、ばら園をのぞいた。
キーワードは「もっと逸楽的に」である。
耽美的、退廃的・・・ということばもあるが、金子さんや田村さんがその涯の荒野まで味わいつくした、快楽の境地を、薔薇を使って表現できないだろうか・・・とおもってのこと。
薔薇にはトゲがあるからご用心、ご用心と、人はよくいう。
しかし、爛熟の涯にあらわれる、頽廃の美は、この花を使って表現するのが、いちばんふさわしいのではないか?
むろん、清楚&エレガント&シンプルに撮ることもできる。
それは撮る側の心の問題であり、見る側の心の問題である。
「ずいぶんとまあ、逸楽的な薔薇だなあ」とわたしが思っても、
同じ写真を見て、別な人は「セクシーとエレガンスはちゃんと共存するのね」というかも知れない。
そこからいわば、リアクションのモザイクがはじまる。