二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「カラヤン帝国興亡史」中川右介著(幻冬舎新書)

2010年10月10日 | 音楽(クラシック関連)
岩波新書(黄版)の「フルトヴェングラー」とほぼ並行しながら、だらだらと読んでいて、ようやく読みおえた。
『巨匠フルトヴェングラー亡き後、音楽界の頂点、ベルリン・フィル首席指揮者四代目の座を掴んだ男、ヘルベルト・フォン・カラヤン。彼は類い稀なる才能と権謀術数を駆使し、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場他、名オーケストラの実権を次々掌握、前代未聞の世界制覇を成し遂げる。何が彼をかくも壮大な争覇の駆け引きに向かわせたのか? 盤石だったはずの帝国に迫る脅威とは? 二十世紀音楽界ですべてを手にした最高権力者の栄華と喪失の物語』(本書裏表紙)

本書はそういう内容の本である。
じつはこれにつけ加えるべきことばがなかなか見つからず、レビューを書くことをしばらくためらっていた。うーん、どう書いたらいいものだろうか。

地元群馬交響楽団の「移動音楽教室」によって、小学生のころクラシック音楽に眼を開かれたとき、カラヤンの名声がまさにその頂点に達していた。時代はLP全盛期とも重なっていたし、クラシック喫茶なるものが、地方都市には必ず、3、4カ所はあって、コンサートへはめったにいかないけれど、レコード鑑賞を趣味とする人たちが、周辺にずいぶんとたむろしていた。モーツァルトやベートーヴェンの定番(定盤)は、まだワルターやフルトヴェングラーだったと記憶しているけれど、1960年代の後半において、「いま聴くなら、カラヤン&ベルリンだよ」という雰囲気が、すでに濃厚であった。

まあ、そういった「個人史」はどうでもいいのだが、50年代、60年代生まれの音楽青年にとって、ウィーン・フィルの響きと、カラヤン&ベルリンの奏でる音楽は、仰ぎ見るべき最高の輝きを放って聞こえたはず。
ところが、中川さんは、カラヤンの芸術の本質論はいっさいやっていない。むしろ「指揮者という職業」について、検証を重ねている本なのである。

カラヤンに指揮者としての才能があったことはむろん疑いがない。
そうでなければ、あの名人ぞろいの楽隊が、三十数年にわたって、独裁者カラヤンについていくわけがなかろう。
しかし、カラヤンは、音楽家としての才能と同じくらい、ビジネスマンの能力にもめぐまれていたのだ。イベントを企画し、長年にわたって運営すること、CDを世界中に売りさばくことにおいて、比類のない手腕を発揮した。中川さんは、カラヤンのファンなのだろうが、「贔屓の引き倒し」にかたむくことなく、そういった二面性をかかえたひとりの天才を、矛盾は矛盾のまま、公平なポジションから描きだす。もとより、中川さんが手間ヒマかけて独自に取材し、証言者からじかに訊いた話をもとにしたものではなく、「ネタ本」を下敷きにしながら編集し直したものだけれど、歯切れのよい、明快な文章で、とても読みやすかった。

フルトヴェングラーは多くのファンや批評家から、神のようにたたえられている。悪口などめったにいう人はいないようだが、それに比べて、カラヤンは、死後20年をこえるのに、いまだ賛否両論の渦中の人物である。
この本で知っていちばん驚いたのは、彼が年間に平均10枚のCDを出しつづけていたということであった。それを、なんと51年間! やり通したのである。
こういう事実を知ると、はやり、こう思わざるをえない。
たしかに彼は、富や権力や女を欲しがった。しかし、それは、音楽への愛と執着の凄まじさのうえに築かれた、いわば余沢のようなものではないか、と。
ここに、カラヤンの墓のレポートがある。
http://www.nakash.jp/opera/2007salz/35friedhof.htm
「家と同様に、慎ましいお墓です」とこのレポーターは書いているが、その通り。
盛大な葬儀も望まず、家族と近親者だけの「密葬」だったらしいから、最後は権力闘争と老いに破れて、みずからの出自の地へとひっそりと帰っていったのである。
中川さんも書いているように、トラは死してその皮を残す・・・という。
カラヤンは皮のかわりに、およそ500枚のCD(LP)を残したが、これこそ、前人未踏の仕事であったはずだ。

カラヤンの死によって、クラシック音楽の業界は、あらたな危機に直面した。
CDはさっぱり売れなくなり、コンサート・チケットの売れ行きも落ちてしまったからである。ということは、カラヤンとは、西洋クラシック音楽の全盛期に、その頂点に立っていた、カリスマ指揮者だったことになる。彼こそ、音楽界の巨匠という表現がふさわしい、最後のひとりであった。

終身だったはずのベルリン・フィルを、円満とはいえない事情で退いたあと、ウィーン・フィルとの関係を復活させ、いくつかの名演を残してカラヤンは、永遠の彼方へ去った。
わたしはブルックナーの第8番を聴いたとき(おかしなたとえだが)、彼の背中が見えたと思って感動したものである。そこにあったのは、孤独な老人の淋しげな足取りのような音楽だった。しかし、それと同時に、これだけはゆずれないという男の誇りが、たしかに後光が射すように輝いていたのだ。
ベルリン・フィルとの破綻と、ウィーン・フィルとの最後の短い数年間。
いまのわたしの、カラヤンへの関心は、そのあたりに凝縮している。


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