二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

白石太一郎「古墳とヤマト政権」(文春新書 1999年刊)ほか一冊

2019年09月24日 | 歴史・民俗・人類学
■近藤成一「鎌倉幕府と朝廷」シリーズ日本中世史②(岩波新書 2016年刊)

この時代の出来事を、いかにも網羅的に書いておられる。
WebにあるBOOKデータベースを参照すると、
《史上初めて、京都から百里以上を隔てる僻遠の地に創られ、以後百五十年にわたって存続することになった新たな政権、鎌倉幕府。朝廷と並立する統治のあり方はなぜ生まれたのか。そのことは日本社会をどう変えたのか。源平争乱から幕府誕生、執権政治の時代、そしてモンゴル戦争を経て崩壊に至るまで、鎌倉幕府の時代を描き切る。》

・・・ということになる。しかし、わたし的にはおもしろくなかった。
著者の近藤成一さんは気がすすまなかったのだろうか? 「たまたまこの巻の担当になったから、網羅的にいろいろ取り上げてみよう」とかんがえて書いていると勘ぐりたくなった。
ヒーローなき、凡俗の中世。
源頼朝が去ったあと、時代の牽引者は不在である。執権得宗家も、きわめて散文的、平凡な執政者ばかりなので、印象に残らない。
いわゆる“通史的”なシリーズの欠点・・・のようなものが、表に出てしまった。

いや承久の乱の北条義時がいるぞ、御成敗式目の泰時がいるぞというかもしれないが、では彼らに真のスポットがあてられているかというと、そうではない(=_=)
なぜ鎌倉幕府は150年生きながらえたかというと、公家朝廷と物理的に距離を置くことで朝廷公家の政治的な介入を受けにくくなったという、それだけのことである。
朝廷と幕府は対立し、虎視眈々と敵を殲滅させようと狙っていたわけではなく、もちつもたれつ、馴れ合いの政治がつついていたのだ。
お互いに利用価値は認め、都合の悪いことは先方に押しつけ、それでよしとしていた。

承久の乱も、元寇も取り上げてある。しかし、通り一遍の記述に終始しているとしか読めない。
蒙古襲来については、わたしが知らなかった経緯がいろいろ判明してきてはいるようだが、その書き方があっさりしていて、立ち止まって熟考してみようという気になりにくい。

通史としての役割は果たしている。特別出来が悪いわけではない。だが、ほかに書きようがあったろう。
残念な一冊。


評価:☆☆☆




■白石太一郎「古墳とヤマト政権」(文春新書 1999年刊)

こちらは論旨がすっきりとまとまっていて、中心軸にブレがなく、おもしろく読めた。
白石太一郎さんは奈良県立橿原考古学研究所の所員をしていらした考古学者。
タイトルにある通り、歴史学者というより、考古学者の立場から、古墳とヤマト政権に照準を合わせ、古墳の誕生~成長~変質~消滅の順を追って記述し、2世紀3世紀4世紀5世紀という文字史料のきわめて少ない時代をあぶり出そうとする試みである。

この時代は、いまだ多くの謎につつまれているので、意地悪くいえばこの本一冊、まるまる“推測記事”である。
にもかかわらず興味深いというのは、古墳の研究が、そのままヤマト政権(王権)の探求に直結しているから。
専門家だから、松本清張さんや梅原猛がおこなった仕事とは隔たりがあるが、推測記事の多さではどっこいどっこいかもしれない(^^;)

《わが国はいかに形作られたのか。それを知る最良の手掛かりは、全国に点在する巨大古墳である。あい次ぐ発掘、また年輪年代法など最新科学の応用により、古代日本は急速にその姿を顕わしつつある。
古墳の造営年代から巨大古墳の被葬者(大王)たちもより精緻に推定され、さらに古代権力の推移まで、見えて来たのである。
最新の発掘成果をふまえて古代日本の姿に迫る、古代史ミステリー。》(表紙カバー本書紹介コピー)

日本列島に統一的な王権は、いつごろ、どのように誕生したのか!?
その一番の指標となるのが、列島各地域に残された巨大古墳。
古代史のど真ん中に向かって投げ込まれた直球が本書なのだ。
歴史学者は文献資料(日本書紀や中国、朝鮮の古文書)を中心に記述するが、考古学者は、発掘された遺跡が語っていることに主に耳をすます。
あのような巨大古墳は、何のために、いつ、だれが作ったのか?
白石太一郎さんは「古墳は被葬者の本貫地に営まれる」というが、その前提に多少疑問がなくはない。
一番の巨大古墳が、本来のヤマトの地にではなく、河内にいとなまれているからである。
疑問はつぎつぎと湧いてくる。河内王朝って、ほんとうにあったの!?

古墳とは権力の在り所を語っている。その中心がヤマトにあるのは確実で、地方の前方後円墳は、その王との同盟関係にあった豪族が、王の影響下で作ったもの、単に政治的な影響だけでなく、文化的にも。その手がかりとなる最大のものが前方後円墳。

文献資料だけではわからない古墳の形態、規模が、さまざまなことを語りかけてくる。
近年における画期は、1978年に埼玉県行田市で発掘された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が発見されたことだろう。
獲加多支鹵大王(ワカタケルダイオウ)の文字をめぐって古代史、考古学がマスコミを巻き込んでかつてない活況を呈したのは記憶しておられる読者も多いだろう。
熊本の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀からも、ほぼ同様の銘文が発見されている。
これら銘文に対する解釈は、研究者によって多少の違いはあるものの、ワカタケルが「日本書紀」のいう雄略天皇であることはおおよそ定説となっている。

わたしのような素人の眼から眺めると、邪馬台国だとか巨大古墳だとかは諸説紛々というありさまに見えたが、本書が刊行されるころから、しだいに“統一的見解”が醸成されつつあるようだ。
「古墳とヤマト政権」は1999年の刊行。その後も、古墳をめぐる議論は、依然として活況を呈している。
とくに宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する「大山(だいせん)古墳」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)が世界文化遺産に登録されてからは、膨大な量の書籍・ガイドブックがあいついで刊行されている。
わたしも何冊か買って、拾い読み( ・・) 古代史への興味が再燃しているわけだ。

郷土の上州=群馬県にも、じつにたくさんの古墳が残されている。
上毛野(かみけぬ)氏が地方政権として蟠踞したとされる群馬県=上野にも、多くの古墳が存在し、保存されている。
ヤマトの地を発信基地とする政治・文化が、この東国にまで及んでいたのである。
本書はわたしにはそういった興味の一里塚だが、信頼性の高い、充実の一書に巡り合ったと思える。

このところ中世史へと関心が移ってきてはいるが、古代史のおもしろさは別格だなあ♪
何千ものピースがしだいしだいに明らかにされ、日本と日本人のスタートラインがより鮮明にあぶり出されてくる。
さて、つぎは・・・と、一読者としてのわたしが、若々しい気分にいわば先祖返りし、胸をときめかせているのだ。


評価:☆☆☆☆☆



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