秋の女神は、色彩がお好き。
赤や黄色だけでなく、形容を絶するような変化に富んだ微妙な色を、あちらこちらにまき散らす。
ここに日本の伝統色というウェブサイトがある。
http://www.rakuten.ne.jp/gold/marutomo/value/color/
http://miyazu.rdy.jp/annex/color2.htm
蒸栗色、木賊色、水浅黄、利休茶、朽葉色、老竹色、鉄紺、茄子紺、渋柿色・・・。
数えあげていけばきりがない。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」といったのは、松尾芭蕉センセー。
日本人の自然観照は、昔から(おそらくは平安時代くらいから)、じつに繊細で、ある意味で執念深いものがあった。
こういう色の名称と色見本から、わが日本人の風土愛がじんわりつたわってくる。
染色では草木染というのがあって、女性にはいまでも根強いファンが大勢いる。その基本は「自然から色をもらう」である。
自然から色をもらう。
なんというすばらしい発想だろう。
わたしは草木染をやろうというほどの熱心なファンではないが、日本の伝統色や、草木模様には関心があって、博物館や美術館にそういう展示物があると、しばし見入ってしまうという経験をこれまでたびたびしている。
マイミクさんの中にも「ええ、大好きですよ」という方がきっとおられるだろう。
昨日の日記=blogには盛り込めなかった秋色たちの、なんという美しさ。
感じてはいても、それを巧みに表現するすべがないのがもどかしい。
「さあ、これをご覧下さい。どうでしょう?」
写真家としてのわたしのこころをざわめかせ、隣にいる人に、ちょっと小声でささやきたくなる。
日本の秋の女神は、色がお好きなのだ。
そう簡単には人工的に作り出せないような、色の競演、あるいは饗宴。
秋のひととき、田舎暮らしばかりしているわたしの、いってみれば贅沢な時間の過ごしかた。
気が付かない忙しい人はスルーしてしまっても、まったくかまわない。
スローライフの愉しみは、いくらだって見つけ出すことができるだろう。
「秋色さがし」もそんな愉しみの一つ。
雑誌の表紙や巻頭を飾るような絶景にはほど遠い、小さな秋。気が付く人にだけ見えてくる小さな秋。
じっと眺めていると、なんとなく頬がゆるんでくるのは、わたしだけかしら?
赤や黄色だけでなく、形容を絶するような変化に富んだ微妙な色を、あちらこちらにまき散らす。
ここに日本の伝統色というウェブサイトがある。
http://www.rakuten.ne.jp/gold/marutomo/value/color/
http://miyazu.rdy.jp/annex/color2.htm
蒸栗色、木賊色、水浅黄、利休茶、朽葉色、老竹色、鉄紺、茄子紺、渋柿色・・・。
数えあげていけばきりがない。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」といったのは、松尾芭蕉センセー。
日本人の自然観照は、昔から(おそらくは平安時代くらいから)、じつに繊細で、ある意味で執念深いものがあった。
こういう色の名称と色見本から、わが日本人の風土愛がじんわりつたわってくる。
染色では草木染というのがあって、女性にはいまでも根強いファンが大勢いる。その基本は「自然から色をもらう」である。
自然から色をもらう。
なんというすばらしい発想だろう。
わたしは草木染をやろうというほどの熱心なファンではないが、日本の伝統色や、草木模様には関心があって、博物館や美術館にそういう展示物があると、しばし見入ってしまうという経験をこれまでたびたびしている。
マイミクさんの中にも「ええ、大好きですよ」という方がきっとおられるだろう。
昨日の日記=blogには盛り込めなかった秋色たちの、なんという美しさ。
感じてはいても、それを巧みに表現するすべがないのがもどかしい。
「さあ、これをご覧下さい。どうでしょう?」
写真家としてのわたしのこころをざわめかせ、隣にいる人に、ちょっと小声でささやきたくなる。
日本の秋の女神は、色がお好きなのだ。
そう簡単には人工的に作り出せないような、色の競演、あるいは饗宴。
秋のひととき、田舎暮らしばかりしているわたしの、いってみれば贅沢な時間の過ごしかた。
気が付かない忙しい人はスルーしてしまっても、まったくかまわない。
スローライフの愉しみは、いくらだって見つけ出すことができるだろう。
「秋色さがし」もそんな愉しみの一つ。
雑誌の表紙や巻頭を飾るような絶景にはほど遠い、小さな秋。気が付く人にだけ見えてくる小さな秋。
じっと眺めていると、なんとなく頬がゆるんでくるのは、わたしだけかしら?