古書店で見繕って手に入れた本の中で、詩人・エッセイストの荒川洋治さんが、詩とポエムの違いについて書いている。
《詩》
1 難解、自己満足
2 署名が意味を持つ
3 どこででも書く
4 縦書き原稿用紙
5 普通の文字
6 朗読では無伴奏
7 自己否定
8 一部の読者は忘れない
9 誰もあまり読まない
10 現代詩・戦後詩
11 オールシーズン
12 売れない
《ポエム》
1 簡単な言葉、わかりやすいだけ
2 特に作者名がなくてもいい
3 夜の窓辺で、一人、ロマンチックに
4 横書き・流し書き
5 思春期書体
6 ピアノが付く
7 自己陶酔
8 自分で忘れることあり
9 恋人か、近くの猫に見せたらポイ
10 ポエムロード・今月のポエム
11 思春期限定
12 商品化すれば脈あり
これらは、荒川さんの独断と偏見に基づく。
むろんわたしも、日本人がいう詩とポエムの違いには、気が付いている。谷川俊太郎さんが書いているのは詩だけど、銀色夏生さんが書いているのはポエムだ・・・という程度には。
しかし、詩、ポエムについて、厳密に定義しようとしたら、かなり厄介な問題が生じる。
わたしが書いている「夜への階段」その続編にあたる「光集める人」は、こういう漠然たる定義によると、詩ということになる。
ところがgooのブログにおいて、詩というカテゴリーは存在しない。存在しているのは、ポエムのみ。それでやむをえずポエムというカテゴリーを選択し、あとから編集しやすいように、1-22とか、2-36だとかという通しナンバーをタイトルのあとに据えることにしたのであった。
ということは、わたしは詩とポエムを、区別しないことに決めたということになる。
パソコンの画面は、日本語の場合であっても、横書きがスタンダード。
アプリの助けをかりて、わざわざ縦書きにする必要を認めない。むろんはじめは抵抗があったが、いまではほとんど違和感を感じないまでになった。
要するに習慣、慣れの問題だろうと、いまでは考えている。
荒川さんの表では、詩の1がポエムの1に対応している。読んでみるとポエムをややくさしている。まあ、荒川洋治といえば、現代日本を代表する詩人のお一人だから、その矜持がことばの背後に存在している。
詩が自己否定的、ポエムが自己陶酔的というのは、その通りだと思う。
だけど、「夜の窓辺で、一人、ロマンチックに」とか、「恋人か、近くの猫に見せたらポイ」「ポエムロード・今月のポエム」などは、問題発言であり、意味不明といわざるをえない。
ポエムpoemは、英語で詩、詩編のことを指している。詩人は英語でポエットpoet。
それでいっこうかまわないし、縦書き、横書きはどっちだってOKというのが、わたしの立場である。
これを区別したがる人は、昔の大衆文学、あるいは昨今のライトノベルを指して「そんなの文学じゃない」というのに等しい。区別したくなるのは、わたしもよく理解できるが、「おれの方が高級なんだぞ」といっても、目指すものが違うのだから仕方ない。
本物の天然シルクと、大量生産される化学繊維を、同じ繊維だと考える人はいないだろう。赤川次郎、西村京太郎のような小説と、カフカや中島敦を同列に論じようとすることがいかにバカバカしいことか、わたしのような文学好きは百も承知。
荒川洋治さんは、1949年生まれ。わたしより、少し年上で、本書は1996年4月に刊行。「言葉のラジオ」とは、TBSラジオで放送された原稿がもとになっているから(その放送を、数回聴いた覚えがある。)
それが原因かどうかつまびらかではないが、短いエッセイがずらっとならべられ、文学的なトリビアリズムに満たされている。そこがおもしろい。読者の意表を衝く発想がかくれている。
ネタ帳というか、おもちゃ箱というか、そういうものをひっくり返したというような読み味もある。往年の文学全集の名が出てくると、おや~、わたし以外にも生き残っている人物がいたぞ・・・と、いささか頼もしい思いをする(^^)/
なにしろ、文学が前世紀、つまり20世紀の遺物となりつつある時代に生きているのだから。
※「言葉のラジオ」荒川洋治著(竹村出版)1996年4月10日発行。
《詩》
1 難解、自己満足
2 署名が意味を持つ
3 どこででも書く
4 縦書き原稿用紙
5 普通の文字
6 朗読では無伴奏
7 自己否定
8 一部の読者は忘れない
9 誰もあまり読まない
10 現代詩・戦後詩
11 オールシーズン
12 売れない
《ポエム》
1 簡単な言葉、わかりやすいだけ
2 特に作者名がなくてもいい
3 夜の窓辺で、一人、ロマンチックに
4 横書き・流し書き
5 思春期書体
6 ピアノが付く
7 自己陶酔
8 自分で忘れることあり
9 恋人か、近くの猫に見せたらポイ
10 ポエムロード・今月のポエム
11 思春期限定
12 商品化すれば脈あり
これらは、荒川さんの独断と偏見に基づく。
むろんわたしも、日本人がいう詩とポエムの違いには、気が付いている。谷川俊太郎さんが書いているのは詩だけど、銀色夏生さんが書いているのはポエムだ・・・という程度には。
しかし、詩、ポエムについて、厳密に定義しようとしたら、かなり厄介な問題が生じる。
わたしが書いている「夜への階段」その続編にあたる「光集める人」は、こういう漠然たる定義によると、詩ということになる。
ところがgooのブログにおいて、詩というカテゴリーは存在しない。存在しているのは、ポエムのみ。それでやむをえずポエムというカテゴリーを選択し、あとから編集しやすいように、1-22とか、2-36だとかという通しナンバーをタイトルのあとに据えることにしたのであった。
ということは、わたしは詩とポエムを、区別しないことに決めたということになる。
パソコンの画面は、日本語の場合であっても、横書きがスタンダード。
アプリの助けをかりて、わざわざ縦書きにする必要を認めない。むろんはじめは抵抗があったが、いまではほとんど違和感を感じないまでになった。
要するに習慣、慣れの問題だろうと、いまでは考えている。
荒川さんの表では、詩の1がポエムの1に対応している。読んでみるとポエムをややくさしている。まあ、荒川洋治といえば、現代日本を代表する詩人のお一人だから、その矜持がことばの背後に存在している。
詩が自己否定的、ポエムが自己陶酔的というのは、その通りだと思う。
だけど、「夜の窓辺で、一人、ロマンチックに」とか、「恋人か、近くの猫に見せたらポイ」「ポエムロード・今月のポエム」などは、問題発言であり、意味不明といわざるをえない。
ポエムpoemは、英語で詩、詩編のことを指している。詩人は英語でポエットpoet。
それでいっこうかまわないし、縦書き、横書きはどっちだってOKというのが、わたしの立場である。
これを区別したがる人は、昔の大衆文学、あるいは昨今のライトノベルを指して「そんなの文学じゃない」というのに等しい。区別したくなるのは、わたしもよく理解できるが、「おれの方が高級なんだぞ」といっても、目指すものが違うのだから仕方ない。
本物の天然シルクと、大量生産される化学繊維を、同じ繊維だと考える人はいないだろう。赤川次郎、西村京太郎のような小説と、カフカや中島敦を同列に論じようとすることがいかにバカバカしいことか、わたしのような文学好きは百も承知。
荒川洋治さんは、1949年生まれ。わたしより、少し年上で、本書は1996年4月に刊行。「言葉のラジオ」とは、TBSラジオで放送された原稿がもとになっているから(その放送を、数回聴いた覚えがある。)
それが原因かどうかつまびらかではないが、短いエッセイがずらっとならべられ、文学的なトリビアリズムに満たされている。そこがおもしろい。読者の意表を衝く発想がかくれている。
ネタ帳というか、おもちゃ箱というか、そういうものをひっくり返したというような読み味もある。往年の文学全集の名が出てくると、おや~、わたし以外にも生き残っている人物がいたぞ・・・と、いささか頼もしい思いをする(^^)/
なにしろ、文学が前世紀、つまり20世紀の遺物となりつつある時代に生きているのだから。
※「言葉のラジオ」荒川洋治著(竹村出版)1996年4月10日発行。