著者の本業はギタリストだと奥付に書かれてあったので、あまり期待せずに読みはじめたが、どうしてどうして、評伝の逸品といっていいような見事な出来映え。
ブルックナーへの理解を深めるうえでは、わたしのようなタイプは、彼の生涯をあらまし知っておくことが必須である。むろん、作曲家の生涯とその音楽を直結し、だからこうなったのだ・・・といいたくて読むのではない。
しかし、背景がまずあって、そこにブルックナーが誕生し、その男が、こういった音楽を生み出したのであって、その逆ではないということ。それを忘れてはならないのである。
『ブルックナーはその晩年に至るまで、あくせくと目先のことに追いまくられ、立身出世をたくらみ、異性に執着し、ほとんど人間的成長を遂げなかったようにさえ見える。だがその作品は常に進化の途上にあり、とどめようもなく自らを深め、驚くべき高みに達していった。この矛盾を私たちは「天才」と呼ぶのである。』(本書279ページ)
ブルックナーは、1896年10月に、72歳で亡くなっている。彼の音楽は、第7番の成功という例外はあるにせよ、ヨーロッパはもとより、本国ドイツ・オーストリアにおいてもあまり理解されることはなかった。0番からはじまる交響曲の大半は、まれに演奏されることはあっても、他人による改変をこうむった上でなければ、聴くことができなかった。
これはブルックナーの大きな不幸だった。先駆者は時代に容れられないという通弊の典型的一例といっていい。日本ではブルックナー理解はさらに遅れ、1970年ころからはじまったようである。第一の功績者は、大阪フィルを長年率いた朝比奈隆。先日、朝比奈の「ブルックナー交響曲全集」を全曲聴いて、大きな感銘をうけた。
南ドイツの農民の血を色濃く引継ぎ、オルガニストとして成功をおさめたのをはじめ、音楽教師として、後進の指導にあたってきたブルックナー。しかし、その真価に人々がほんとうに気がつくまで、ずいぶんの歳月が必要だった。ベートーヴェンを尊敬し、バッハに私淑した、少々風変わりな、独身のじいさんは、本人はワグネリアンだと認識し、ブラームス派(の批評家)からさまざまな迫害をこうむった。
「すばらしいシンフォニーを作曲した」はずなのに、どこからも相手にされず、実演を耳にできない作曲家ほどあわれな存在はないだろう。彼は自信を失い、他人のアドバイスに耳をかたむけ、第二稿、第三稿と、自作を改変していく。
そこまでならまだいいが、弟子や取り巻きが、作曲家本人の同意なしに楽譜を改竄し、その楽譜を売り出したり、その楽譜にもとづいて演奏する。
ブルックナーの音楽には、大抵こういった悲喜劇がつきまとっている。
当時の音楽関係者や、一般リスナーに、彼のシンフォニーはそれほど異形に聞こえたのである。
いまなら、ベートーヴェン以後の最大のシンフォニストとして、ブラームスとブルックナーをあげるのは当然のことといってよい。長大な第5番、第7番、第8番に浸りこむ至福は、ほかに比べようのない世界へとわれわれを拉し去る。悲しみも快楽も、音の起伏とともに生起し、消え、またよみがえり、つぎの場面へと移っていく。後悔もある。神への感謝もある。女への執着も、大自然への畏敬の情も。ブルックナーは音楽家だから、それらすべてを、音=空気の振動に託して表現する。そして楽聖ベートーヴェンのそれに匹敵するような大作を、いくつも遺したのである。
『音楽はこの二世紀間に長足の進歩を遂げました。その内的有機体は拡大され、完全化され(その音素材の豊かさは注目に値します)、今日我々は、もはや完成の域に達した構築物の前に立っております。そこには部分間の確然たる構成原理と、構造の全体に対する部分の構成原理を認めることができます。一者から他者が生じ、一者もまた他者なしには存在せず、しかもそれぞれが個々に完全である様を、われわれはそこに見るのです。』(本書128ページ)
当時において、和声学と対位法の第一人者であったブルックナーのこの考え方を、著者の田代さんは、音楽的建築学と表現している。
意地の悪い同時代の他人どもが、世知にうとく、女性に不器用で、中年になって神経症を病んだりした彼をどういう眼で見ていたか、これまでだれも書いたことのないその音楽をどう評価していたかについて、本書はフォローが行き届いているし、また、節目となる人生の出来事のあいまに、楽曲解説がじつにうまく埋め込まれいるのがいい。シンフォニスト、ブルックナーの、存在感。音楽を聴きながら本書を読んでいると、その生々しい息づかいすら聞こえてきそうだ。
作曲家の評伝として、すぐれている証拠である。
評価:★★★★
ブルックナーへの理解を深めるうえでは、わたしのようなタイプは、彼の生涯をあらまし知っておくことが必須である。むろん、作曲家の生涯とその音楽を直結し、だからこうなったのだ・・・といいたくて読むのではない。
しかし、背景がまずあって、そこにブルックナーが誕生し、その男が、こういった音楽を生み出したのであって、その逆ではないということ。それを忘れてはならないのである。
『ブルックナーはその晩年に至るまで、あくせくと目先のことに追いまくられ、立身出世をたくらみ、異性に執着し、ほとんど人間的成長を遂げなかったようにさえ見える。だがその作品は常に進化の途上にあり、とどめようもなく自らを深め、驚くべき高みに達していった。この矛盾を私たちは「天才」と呼ぶのである。』(本書279ページ)
ブルックナーは、1896年10月に、72歳で亡くなっている。彼の音楽は、第7番の成功という例外はあるにせよ、ヨーロッパはもとより、本国ドイツ・オーストリアにおいてもあまり理解されることはなかった。0番からはじまる交響曲の大半は、まれに演奏されることはあっても、他人による改変をこうむった上でなければ、聴くことができなかった。
これはブルックナーの大きな不幸だった。先駆者は時代に容れられないという通弊の典型的一例といっていい。日本ではブルックナー理解はさらに遅れ、1970年ころからはじまったようである。第一の功績者は、大阪フィルを長年率いた朝比奈隆。先日、朝比奈の「ブルックナー交響曲全集」を全曲聴いて、大きな感銘をうけた。
南ドイツの農民の血を色濃く引継ぎ、オルガニストとして成功をおさめたのをはじめ、音楽教師として、後進の指導にあたってきたブルックナー。しかし、その真価に人々がほんとうに気がつくまで、ずいぶんの歳月が必要だった。ベートーヴェンを尊敬し、バッハに私淑した、少々風変わりな、独身のじいさんは、本人はワグネリアンだと認識し、ブラームス派(の批評家)からさまざまな迫害をこうむった。
「すばらしいシンフォニーを作曲した」はずなのに、どこからも相手にされず、実演を耳にできない作曲家ほどあわれな存在はないだろう。彼は自信を失い、他人のアドバイスに耳をかたむけ、第二稿、第三稿と、自作を改変していく。
そこまでならまだいいが、弟子や取り巻きが、作曲家本人の同意なしに楽譜を改竄し、その楽譜を売り出したり、その楽譜にもとづいて演奏する。
ブルックナーの音楽には、大抵こういった悲喜劇がつきまとっている。
当時の音楽関係者や、一般リスナーに、彼のシンフォニーはそれほど異形に聞こえたのである。
いまなら、ベートーヴェン以後の最大のシンフォニストとして、ブラームスとブルックナーをあげるのは当然のことといってよい。長大な第5番、第7番、第8番に浸りこむ至福は、ほかに比べようのない世界へとわれわれを拉し去る。悲しみも快楽も、音の起伏とともに生起し、消え、またよみがえり、つぎの場面へと移っていく。後悔もある。神への感謝もある。女への執着も、大自然への畏敬の情も。ブルックナーは音楽家だから、それらすべてを、音=空気の振動に託して表現する。そして楽聖ベートーヴェンのそれに匹敵するような大作を、いくつも遺したのである。
『音楽はこの二世紀間に長足の進歩を遂げました。その内的有機体は拡大され、完全化され(その音素材の豊かさは注目に値します)、今日我々は、もはや完成の域に達した構築物の前に立っております。そこには部分間の確然たる構成原理と、構造の全体に対する部分の構成原理を認めることができます。一者から他者が生じ、一者もまた他者なしには存在せず、しかもそれぞれが個々に完全である様を、われわれはそこに見るのです。』(本書128ページ)
当時において、和声学と対位法の第一人者であったブルックナーのこの考え方を、著者の田代さんは、音楽的建築学と表現している。
意地の悪い同時代の他人どもが、世知にうとく、女性に不器用で、中年になって神経症を病んだりした彼をどういう眼で見ていたか、これまでだれも書いたことのないその音楽をどう評価していたかについて、本書はフォローが行き届いているし、また、節目となる人生の出来事のあいまに、楽曲解説がじつにうまく埋め込まれいるのがいい。シンフォニスト、ブルックナーの、存在感。音楽を聴きながら本書を読んでいると、その生々しい息づかいすら聞こえてきそうだ。
作曲家の評伝として、すぐれている証拠である。
評価:★★★★