館林市へいったときの写真を見返していたら、ある作品にふと眼がとまった。
それが上に掲げた「館林市かごめ通り」のセルフポートレイト。
街へ出ると、“意識して”、ときおりこういう写真を撮る。
最近ではコンデジで、あるいはケータイで、「自分撮り」というモードを搭載したものが発売されている。
「あのう、シャッターを押していただけますか」
以前は観光地などで、そういったシチュエーションによく遭遇した。
しかし昨今では、そういった光景を眼にすることはめったにない。
出かけたさきで、見ず知らずの他人に、声をかけたくはないのだろうし、かけられたくもないのだろう。
だけど、わたしがここでいおうとするのは、記念写真としての「自分撮り」ではない。
セルフポートレイトでは、植田正治さん、森村泰昌さんが有名だけれど、あれはわたしにいわせると、むしろセットアップ写真(演出写真)のジャンルに属する。
わたしの記憶の中に眠っているのは、リー・フリードランダーの作品。
一枚だけ、グーグルの画像検索からお借りしてみる。
これはとても有名な作品なので、ご覧になった方が多いだろう。
フリードランダーには、セルフポートレイトだけを集めた写真集もある。
(『セルフポートレート(1970)』)
関心のある方は、ググってみるといいだろう。
街歩きをしていると、何かのかげんで、“突如として”自分自身を発見する。
・・・そして「他者や他人の街を撮っているわたし自身」と向き合う。
現代人はだれもが、思春期になると「自分とは何か?」という自意識に悩まされる。
セルフポートレイトが、その種の自意識の反映であることは間違いないだろう。
森山さんや荒木さんも、さかんにセルフポートレイトを撮っているし、荒木さんともなると、他者に撮らせた自分自身まで、自分の写真集に収録している(^^;)
「これはなかなかいい写真だぞ」
かごめ通りの写真を見ていて、なにか書きたくなってきたのだ。
光があり、影がある。
写真の向こうに“わたし”がいて、写真のこちらに“わたし”がいる。
それを一枚の中に封じ込めるとしたら、影を撮るか、鏡やガラスへの「映り込み」を撮るしかないだろう。
光と影の影の部分に、じつは“わたし”がいる。
くっきりとしたコントラスト。透過光の美しさ。
影を演出したのは太陽なのだが、その太陽の光は、反射したり、透過したりして、一定の入射角度をへて一人の人間のまなざしを射る。大げさにいうと、こういう光の存在に気がつくと、周囲の現実が多次元化していく。
これはフリードランダーがわたしに教えてくれた現実認識といっていいだろう。