たいした理由もなく「さきを急ぐ」という思いが
いつもこころのどこかにひっかかっていた。
ぼくにはなにかやらなければならないことがあって
はやくいろいろなわずらいを片づけ
それをはじめなければ間に合わない と。
こころの持ちようによって世界が千変万化するように
ぼくはたぶん 日常という名の薄暗がりを
小さな箱を後生大事にかかえこんで 綱渡りしてきた。
自分と折り合いをつけることのむずかしさに悩んだりして。
ようやくその箱の中身が見えてきた
・・・ような気がするが それも錯覚かもしれない。
三十代 四十代の峠道はきつかったなあ
などと振り返ってみて
「あのときカッコウが鳴いてくれなかったら
道に迷っていましたね」と妻にいわれ
「カッコウが?」と訊きかえす――夢の中で。
なにかがはじまるというのは なにかが終るってことなんだね。
ぼくの夢はまだ終っていないけれど。
終わりはかすかに見えている。
さて と。
今日はカメラをかかえてどこへいこうか?
裏の畑でとれたスイカを食べたあと
エアコンのきいた部屋のこちら側で
CDに耳をかたむけながらそう考えているときが いちばん愉しい。
夏の空には無数の魚が泳いでいるけれど
数十分後には悉く姿を消してしまっている。
現われては消えるもの。
アオスジアゲハだって同じように
またたくまに ひと夏のむこうへ去っていく。
二十年前のある日の端っこのほうで
子どもたちがキャッキャッとはしゃいでいる。
はるか遠くからいろいろな幻がやってきてはぼくの体を通過していく。
いつかスペインの古都トレドで見た名画の
駐車場でぼくをはげしくののしった女の横顔の
横浜倉庫モーションブルーで 割ってしまったマティーニグラスの
こわれた自転車をころがしながら見あげて歩いた月の
・・・ぼくはいまでもここに座っているってのに
いまではさきを急いでいるわけでもないのに
それらはもうカメラには写らない。
さて と――。
※トレド、サント・トメ教会にあったのは、エル・グレコ「オルガス伯の埋葬」。わたしはこれに非常な衝撃をうけました。