二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

この世のエレジー(ポエムNO.3-03)

2018年04月12日 | 俳句・短歌・詩集
そのへんを歩きまわっていると
時折キラキラと煌めきながら
わたしのかたわらを通りすぎていくものがある! 
このときは一頭ホワイトシェパードとそれを取り巻く人びとであった。
だからいつも

いつも かかえているんだ
カメラをね。
数台のカメラやレンズは頼り甲斐がある相棒 相談相手。
ただしカメラや写真は決してことばを発しない。
いさぎよい佇まいをもっている。

記録し 記憶する。
そのための装置としての機材に
愛情をこめて接している。
たまにはあわてて乱暴なあつかいをすることもあるけれど。
日常生活の中のカメラ。

写真というのは
ことばを持たない証言者
・・・であるのだろう。
自分ではそこそこの男前だとうぬぼれている人であっても
レンズは冷酷にその真実を暴きだす。

五十年前のわたし 三十年前のわたし
そして昨日のわたし。
人はすべて時空を旅する者。
かたわらにカメラがあったとて
何の不思議があろうか。

フォトグラファーとしてのわたしと
詩人としてのわたしは必ずしも相性がよくない。
撮影する人はことばにはほとんど頼らないし
詩人はそもそもカメラを信用していない。
例外はあるとしても。

まあ 自分のことは二の次
・・・としておく。
キラキラと煌めきながら通りすぎていくもの

わたしが何者なのか教えてくれるのだから。

自分自身を語るのではなく
“それ”について語ること 対象はいつか被写体となる。
写真にも詩にも それぞれ・・・
それぞれの得意分野があるのだ。
カメラからペンへ ペンからカメラへ。

道具を持ちかえると世界が少し違って見える。
だからどちらも手放すことができない。
五十年前 あるいは三十年前の出来事を夢のように思い出す。
写真を見直し 詩を読み返す。
その中に遠くへだった時空が刻みこまれて存在する。

しばらくそこから立去ることができないのは
わたしが老年に達したからだろう。
時空を旅してきた証拠なんだね 時の破片がたくさんたまっている
そのとき そのときの世界への挨拶。
シャボン玉のようにはじけて消える

この世のエレジーなのさ。

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