二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

時のよどみ

2011年06月12日 | 俳句・短歌・詩集

どんな町にだって 時のよどみがある。
いろんなものが浮きつ 沈みつしながら
ごろんごろんところがったり 
まるまる一ヶ月以上じっと動かなかったり
甘いため息のようなものをもらしたり
妙齢の美女の腰にすり寄るような風情をしめしたりしている。

腐臭がだよっているが 不快というのではない。
豊満な乳房なのに セクシーというのではない。
遠く あるいは近く輝いているのに まぶしいというのではない。
犯行はおこなわれたのに 犯人というものはいない。
かつて工場群がひしめいていたはずなのに その痕跡はない。
ぼくは歩いているのに ゆくべきところはどこにもない。

さっきクロネコヤマトの宅配便が通ったね。
ほうきに乗った髪の真っ白い魔女も。
黒々とした記憶が カラスのように頭上で羽ばたく。

ぼくは人っ子ひとりいない(かもしれない)
静かな町を歩いている。
小学校時代の定規のようにすてられた町を。



死への情熱が美しいシンフォニーとなって
聴衆の胸をふるわせる。
そこのたいして特徴のないコンサートホールを出て
足利から 深谷へ
デリーから 上海へ
浅草から 前橋へ。
移動しながら眺めた「あの日、あの時」の光景の薄片が
モナリザの微笑のようにぼくを挑発する。

・・・たとえば ということだけれど。
「モナリザ」ってのはあまりに通俗的だな
あとで訂正しとこうか。

ぼくがいちばん欲しいのは「後世の眼」なんだろうね。
同時代人の眼には見えなかったものが 後世の眼にはよく見える。
それが欲しい と願う。
切に願う。
「それはほかならぬ神の眼じゃないか。
それができた天才など過去にひとりもいない」
たとえそういわれようと。



「おれは画家にならなければならない」という悪夢に取り憑かれた男の物語。
それを読みはじめて すぐにやめた。
モデルはゴーギャン。
人はなぜ そんな悪夢の謎をときたがるんだろう?
ごろんところがしておいたらいいじゃないか。
使い道がなくなった 錆びだらけの斧のように。

手のひらを太陽にかざすときみの血の色が見える
といったのはだれでしたっけ?
人は整理し 分類したがる。
それで片づいたつもりになっている。

ゴーギャンの絵を美術館におさめて安心してるってのも同じだね。
片づくものなんて 何ひとつないのに。
町を歩いていると そのことがよくわかる。
黄色い帽子をかぶった男の子と女の子が手をつないですれ違っていく。
あいつらも死ぬんだろうか いつか。
にわかには信じられない。
ぼくは突然その想念に襲われ 茫然とたちつくす。

・・・といっても 一分か二分の出来事なんだ。
ぼくは今日も歩く。
歩いて 歩いて ゴミ拾いをしなくちゃならない。
こっちのよどみから あっちのよどみへ。
老いたブルックナーが 書いた譜面を破りすてては
またひろいあげ 手直しするように。
くり返し くり返し。

際限のない行為に 際限はないのだから。








※写真と詩には直接的なつながりはありません。

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