文学に関心がもどってきたのは、何年ぶりのことだろう。
いや、折にふれて、ぽつりぽつり読んではいたが、このように「読みたい」と思って、そんな気分がこころの奥底から湧きあがってきたのは、十数年ぶり、いや二十年ぶりといってもいいかも知れない。
漱石の「硝子戸の中」を読み返しながら、書評めいたものが書きたくなってきた。
そして、漱石についてあれこれと考えているうち、本屋やnetでいろいろな情報に眼をとめ、そういった刺激をうけて、ほかの日本近代文学をいつのまにか何冊も買いこむこととなった。
「蒲団」ははじめて読む作品ではない。しかし、「文学」への関心がうすれてからあまりに時間がたってしまっているため、ほとんどはじめて読むのと変わらない新鮮な印象を持って読み終えることができた。
いまとなっては、いかにも古色蒼然たる小説である。
自然主義の系譜につらなる作家と目される正宗白鳥にすら「今読んだら稚拙凡庸」と評されている。また中村光夫がその「風俗小説論」などで、つぎのように論じているのはよく知られている。
<一口にいえば、この間に「破戒」と「蒲団」との決闘が行われ、その闘いは少なくとも同時代の文学に対する影響については、「蒲団」の完全な勝利に終わったのです。「春」はこの点から見れば、藤村の花袋に対する降伏状であったわけです。>
本書の解説で相馬庸郎が「蒲団」刊行当時の世評をいろいろと紹介しているから、贅言は無用であろう。わたしは、「内部の人間」で登場した秋山駿がどこかで(新潮社「考える人」の短編特集)嘉村礒多の「業苦」を推挙しているのを眼にして「おや?」と不審におもいつつ、その何編かを読んだが、感銘をうけることはなかった。
どうでもいいことだが、たとえばこういった私小説が文学の「新人賞」などに応募されることがあっても、「蒲団」レベルの完成度では、予選落ちを覚悟しなければなるまい。
「蒲団」の視点はゆれていて、三人称による客観描写はまことに稚拙というほかない。主人公時雄はともかくとして、芳子やその恋愛の相手となる田中、あるいは時雄の妻や、芳子の父など、その人間像が十分描かれておらず、作品の粗漏を衝かれてもやむをえない。
「この一編は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録である」と揚言した島村抱月の感想も、いまや隔世の感がある。
「破戒」が書かれたのは明治39年、「蒲団」は40年である。現代と比較にならないタブーに支配された時代の雰囲気はうかがうことができる。情景描写はまずまずで、明治風俗研究にはおもしろい材料となるかもしれない。
では、まったく下らない、読むにたえない駄作かというと、そうでもない。薄汚い中年男の偽善者ぶりはたいしたものだが、作者花袋は、それを知らずして書いたのではないからである。恥部をすすんであばき、読者に対していわば「懺悔」するような小説は世に迎えられたからこそ、その後大繁栄したのであろう。私生活をネタにして、虚妄の生活を描くことのなかに、大義やら建前やらでがんじがらめにしばられた庶民の気晴らしがあったのである。それはきわめて狭苦しい、いびつな世界であった。人間とはなんと愚かしく、卑小な存在であることか。
しかし、英雄豪傑や美男美女の物語を愛する読者が、こういった偶像破壊にも似た物語をもまた、欲したのある。岩野泡鳴、近松秋江、徳田秋声などがあいついで出現した。現代でもわずかだが、こういった系列に属する「私小説」の作家が読まれるのも「愚かしく、卑小な存在」としての人間への興味のあらわれであろう。
そういった小説の嚆矢となった作品であり、いまとなっては、それ以上の意味はほとんどない小説であると思われる。
また「一兵卒」は他に材料を仰いだ客観小説で、わたしは可も不可もないといったレベルの小説とみた。ただ、無名の兵士の流浪のストーリーは、より大規模で悲惨な第二次大戦をくぐりぬけ、大岡昇平の「野火」といった戦後文学の傑作を生み出しにいたる。そういう意味で、これも「先駆的」な作品と評価することもできるだろう。
田山花袋「蒲団・一兵卒」岩波文庫>☆☆★
いや、折にふれて、ぽつりぽつり読んではいたが、このように「読みたい」と思って、そんな気分がこころの奥底から湧きあがってきたのは、十数年ぶり、いや二十年ぶりといってもいいかも知れない。
漱石の「硝子戸の中」を読み返しながら、書評めいたものが書きたくなってきた。
そして、漱石についてあれこれと考えているうち、本屋やnetでいろいろな情報に眼をとめ、そういった刺激をうけて、ほかの日本近代文学をいつのまにか何冊も買いこむこととなった。
「蒲団」ははじめて読む作品ではない。しかし、「文学」への関心がうすれてからあまりに時間がたってしまっているため、ほとんどはじめて読むのと変わらない新鮮な印象を持って読み終えることができた。
いまとなっては、いかにも古色蒼然たる小説である。
自然主義の系譜につらなる作家と目される正宗白鳥にすら「今読んだら稚拙凡庸」と評されている。また中村光夫がその「風俗小説論」などで、つぎのように論じているのはよく知られている。
<一口にいえば、この間に「破戒」と「蒲団」との決闘が行われ、その闘いは少なくとも同時代の文学に対する影響については、「蒲団」の完全な勝利に終わったのです。「春」はこの点から見れば、藤村の花袋に対する降伏状であったわけです。>
本書の解説で相馬庸郎が「蒲団」刊行当時の世評をいろいろと紹介しているから、贅言は無用であろう。わたしは、「内部の人間」で登場した秋山駿がどこかで(新潮社「考える人」の短編特集)嘉村礒多の「業苦」を推挙しているのを眼にして「おや?」と不審におもいつつ、その何編かを読んだが、感銘をうけることはなかった。
どうでもいいことだが、たとえばこういった私小説が文学の「新人賞」などに応募されることがあっても、「蒲団」レベルの完成度では、予選落ちを覚悟しなければなるまい。
「蒲団」の視点はゆれていて、三人称による客観描写はまことに稚拙というほかない。主人公時雄はともかくとして、芳子やその恋愛の相手となる田中、あるいは時雄の妻や、芳子の父など、その人間像が十分描かれておらず、作品の粗漏を衝かれてもやむをえない。
「この一編は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録である」と揚言した島村抱月の感想も、いまや隔世の感がある。
「破戒」が書かれたのは明治39年、「蒲団」は40年である。現代と比較にならないタブーに支配された時代の雰囲気はうかがうことができる。情景描写はまずまずで、明治風俗研究にはおもしろい材料となるかもしれない。
では、まったく下らない、読むにたえない駄作かというと、そうでもない。薄汚い中年男の偽善者ぶりはたいしたものだが、作者花袋は、それを知らずして書いたのではないからである。恥部をすすんであばき、読者に対していわば「懺悔」するような小説は世に迎えられたからこそ、その後大繁栄したのであろう。私生活をネタにして、虚妄の生活を描くことのなかに、大義やら建前やらでがんじがらめにしばられた庶民の気晴らしがあったのである。それはきわめて狭苦しい、いびつな世界であった。人間とはなんと愚かしく、卑小な存在であることか。
しかし、英雄豪傑や美男美女の物語を愛する読者が、こういった偶像破壊にも似た物語をもまた、欲したのある。岩野泡鳴、近松秋江、徳田秋声などがあいついで出現した。現代でもわずかだが、こういった系列に属する「私小説」の作家が読まれるのも「愚かしく、卑小な存在」としての人間への興味のあらわれであろう。
そういった小説の嚆矢となった作品であり、いまとなっては、それ以上の意味はほとんどない小説であると思われる。
また「一兵卒」は他に材料を仰いだ客観小説で、わたしは可も不可もないといったレベルの小説とみた。ただ、無名の兵士の流浪のストーリーは、より大規模で悲惨な第二次大戦をくぐりぬけ、大岡昇平の「野火」といった戦後文学の傑作を生み出しにいたる。そういう意味で、これも「先駆的」な作品と評価することもできるだろう。
田山花袋「蒲団・一兵卒」岩波文庫>☆☆★