
昨夜司馬さんの「殉死」を遅くまで読みふけり、夜中眼を覚まして、さらに読みつづけた。あとわずかで読了という段階だけれど、ここで感想をつづっておくことにしよう。
読了したとたん、気が抜けてパスしてしまうなんてことだって、よく起こるからね(^^♪
はじめ2-30ページ読んで、そのあとチェーホフに寄り道していた。右手にチェーホフ、左手に司馬遼太郎。そこに近世トルコに対する関心まで、割り込みしてきた。
こいう現象を濫読といわずしてなんとしよう(*-ω-*) むろん、ほめられた読書法とはいえないが・・・。
めずらしく司馬さんは、書きにくそうに書いている。もしかしたら、書かずにすましたかったかもしれない。そういう口吻が、微かだがつたわってくる。
ネットで文献をあさっていたら、つぎのような評言を見つけた。
《『殉死』は乃木希典と日本陸軍に対する司馬遼太郎の痛恨の批判の書なのだ。すなわち、日本を太平洋戦争の破滅に導いた日本陸軍を思想史的に解剖する書である。
日本陸軍論としての乃木希典論。乃木希典の思想と行動は、司馬遼太郎にとって生涯最大の憎悪の対象であった昭和の日本陸軍そのものであり、それが人格化されたシンボルである。》(問題作としての「殉死」http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/hero/choshu_3.html)
これは核心を衝いたことばであるだろう。
しかし、こういった批判の書というだけでない、微妙な筆のはこびが、本書のあちこちに埋めこまれている。
軍人、指揮官としては無能であったかもしれないが、それとは違った「大いなる美徳」が、乃木希典には備わっていた。司馬さんは、それをしも、決して見逃してはいない。
そのあたり、書き渋り、迷い、決断していく。小説家としての司馬さん、文明批評家としての司馬さんの苦い決断の書でもある。
したがって、乃木希典を、一刀両断にしているわけではない。伊藤整などがいう日本的人格美学の体現者として、その役割は、一部認めている。
認めたうえで、打ち砕いているともいえる。わたしは昨夜本書を読みながら、しばし目頭が熱くなるのを覚えた。
長年本読みをしているけれど、こういう経験はそうめったにない。司馬さんでいえば、数年前「草原の記」を読みおえたとき、滂沱たる涙に噎んだことがあった。しかし、あの涙とこれとは、大きなへだたりがある。
すぐれた外科医が見せるような繊細なメスさばき。その切っ先は、しばしば鈍っている。明治帝の「郎党」であった乃木は、明治帝の崩御とともに、生きる意味を失ったのである。
司馬さんはそのあたりのこころのドラマに、慎重に踏み込んでいく。
歴史家は、こういう書き方はしない。乃木を冷酷無残に切り刻んでいるわけではないのだ。
むしろすぐ近くまでいって、寄り添いながらこの不運だった軍人の生涯を見極めようとしている。
乃木希典とその妻静子(薩摩の女)の殉死は、世間を驚愕させた。それだけでなく、文学者の多くを、深い内省の淵に突き落とした。
《大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す》
これは森鴎外の日記。
「興津弥五右衛門の遺書」が、乃木夫妻の殉死に触発されて書かれたものであることは広く知られている。漱石は「こころ」において、「先生」の自殺にきっかけをあたえた事件として、乃木の殉死を取り上げている。このとき、明治の知識人は、大きな危機を迎えていたのである。
明治人とは、どういう日本人であったのか?
西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、福沢諭吉、大隈重信、伊藤博文などとならんで、乃木希典の存在は、必ず思い出されねばならない。最後は自死に活路を見出すしかなかった悲劇的人物として。
そういうことを本書が教えてくれた。
文庫本にしておよそ210ページ。中編小説程度の厚みしかないが、内容はずっしりと重たく、読者のこころをゆさぶらないではおかない。「坂の上の雲」が陽なら、こちらはさしずめ、陰の代表作と評してよいだろう。
日中戦争、太平洋戦争を理解するためには、日露戦争を理解しておく必要がある。その日露戦争がなんであったか、その原因や底流を知るためには、日清戦争にたいする知見がぜひとも必要になる。
司馬さんはむろん、そういった歴史の大きなうねりや、基本的な文献をすべて踏まえたうえで、歴史家や歴史研究者には書けるはずのない「殉死」を通し、乃木希典の人間像に迫っている。
平和ボケした現代人から眺めたら、乃木希典と静子の生きざまは、その峻厳さにおいて、想像の域を超えている。
しかし、彼らもまた日本人・・・その一典型であることを、わたしは信じて疑わない。
評価:☆☆☆☆☆
【付録】
ほかに、今日はこういう本も買ってきた。



「サハリン島」は岩波文庫ですでにもっている。しかし、神西清の戦前の古い訳は、固有名詞などあやしいものが多いので、原卓也さんの「新訳」で読むほうがいいだろう。中央公論社版「チェーホフ全集」のテキストを復刻したとしるされている。
全集のかたわれとして獅子文六集を買ったのは「海軍」が収録されているから。
もう10年ばかり以前からこの「海軍」は、いつか読みたい本の一冊でありつづけた。
読みたい本、読まねばならない本が、ずいぶんたまっているなあ´Д`|┛
読了したとたん、気が抜けてパスしてしまうなんてことだって、よく起こるからね(^^♪
はじめ2-30ページ読んで、そのあとチェーホフに寄り道していた。右手にチェーホフ、左手に司馬遼太郎。そこに近世トルコに対する関心まで、割り込みしてきた。
こいう現象を濫読といわずしてなんとしよう(*-ω-*) むろん、ほめられた読書法とはいえないが・・・。
めずらしく司馬さんは、書きにくそうに書いている。もしかしたら、書かずにすましたかったかもしれない。そういう口吻が、微かだがつたわってくる。
ネットで文献をあさっていたら、つぎのような評言を見つけた。
《『殉死』は乃木希典と日本陸軍に対する司馬遼太郎の痛恨の批判の書なのだ。すなわち、日本を太平洋戦争の破滅に導いた日本陸軍を思想史的に解剖する書である。
日本陸軍論としての乃木希典論。乃木希典の思想と行動は、司馬遼太郎にとって生涯最大の憎悪の対象であった昭和の日本陸軍そのものであり、それが人格化されたシンボルである。》(問題作としての「殉死」http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/hero/choshu_3.html)
これは核心を衝いたことばであるだろう。
しかし、こういった批判の書というだけでない、微妙な筆のはこびが、本書のあちこちに埋めこまれている。
軍人、指揮官としては無能であったかもしれないが、それとは違った「大いなる美徳」が、乃木希典には備わっていた。司馬さんは、それをしも、決して見逃してはいない。
そのあたり、書き渋り、迷い、決断していく。小説家としての司馬さん、文明批評家としての司馬さんの苦い決断の書でもある。
したがって、乃木希典を、一刀両断にしているわけではない。伊藤整などがいう日本的人格美学の体現者として、その役割は、一部認めている。
認めたうえで、打ち砕いているともいえる。わたしは昨夜本書を読みながら、しばし目頭が熱くなるのを覚えた。
長年本読みをしているけれど、こういう経験はそうめったにない。司馬さんでいえば、数年前「草原の記」を読みおえたとき、滂沱たる涙に噎んだことがあった。しかし、あの涙とこれとは、大きなへだたりがある。
すぐれた外科医が見せるような繊細なメスさばき。その切っ先は、しばしば鈍っている。明治帝の「郎党」であった乃木は、明治帝の崩御とともに、生きる意味を失ったのである。
司馬さんはそのあたりのこころのドラマに、慎重に踏み込んでいく。
歴史家は、こういう書き方はしない。乃木を冷酷無残に切り刻んでいるわけではないのだ。
むしろすぐ近くまでいって、寄り添いながらこの不運だった軍人の生涯を見極めようとしている。
乃木希典とその妻静子(薩摩の女)の殉死は、世間を驚愕させた。それだけでなく、文学者の多くを、深い内省の淵に突き落とした。
《大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す》
これは森鴎外の日記。
「興津弥五右衛門の遺書」が、乃木夫妻の殉死に触発されて書かれたものであることは広く知られている。漱石は「こころ」において、「先生」の自殺にきっかけをあたえた事件として、乃木の殉死を取り上げている。このとき、明治の知識人は、大きな危機を迎えていたのである。
明治人とは、どういう日本人であったのか?
西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、福沢諭吉、大隈重信、伊藤博文などとならんで、乃木希典の存在は、必ず思い出されねばならない。最後は自死に活路を見出すしかなかった悲劇的人物として。
そういうことを本書が教えてくれた。
文庫本にしておよそ210ページ。中編小説程度の厚みしかないが、内容はずっしりと重たく、読者のこころをゆさぶらないではおかない。「坂の上の雲」が陽なら、こちらはさしずめ、陰の代表作と評してよいだろう。
日中戦争、太平洋戦争を理解するためには、日露戦争を理解しておく必要がある。その日露戦争がなんであったか、その原因や底流を知るためには、日清戦争にたいする知見がぜひとも必要になる。
司馬さんはむろん、そういった歴史の大きなうねりや、基本的な文献をすべて踏まえたうえで、歴史家や歴史研究者には書けるはずのない「殉死」を通し、乃木希典の人間像に迫っている。
平和ボケした現代人から眺めたら、乃木希典と静子の生きざまは、その峻厳さにおいて、想像の域を超えている。
しかし、彼らもまた日本人・・・その一典型であることを、わたしは信じて疑わない。
評価:☆☆☆☆☆
【付録】
ほかに、今日はこういう本も買ってきた。



「サハリン島」は岩波文庫ですでにもっている。しかし、神西清の戦前の古い訳は、固有名詞などあやしいものが多いので、原卓也さんの「新訳」で読むほうがいいだろう。中央公論社版「チェーホフ全集」のテキストを復刻したとしるされている。
全集のかたわれとして獅子文六集を買ったのは「海軍」が収録されているから。
もう10年ばかり以前からこの「海軍」は、いつか読みたい本の一冊でありつづけた。
読みたい本、読まねばならない本が、ずいぶんたまっているなあ´Д`|┛