鬼海弘雄さんの「ぺるそな」は、わたしにいろいろなことを考えさせる。
人間についてのこれまでの“常識”をゆるがす。
よく「無名の人」というが、ほんとうは「無名の人」なんて、いるはずはない。しかし、鬼海さんは、被写体となったその人から、名前をはぎ取っている。背景はスタジオではなく、浅草寺のおそらくは宝蔵門あたりだろう。そこのたぶん、赤い壁を背景として、声をかけ本人の撮影許可をえて撮影する。モノクロフィルムを使用しているので、赤い壁はやや濃いめのグレーに写る。
この作業を、鬼海さんは三十数年にわたって、営々とつづけていく。
彼が撮影するのは、有名人ではない。知識人でもない。一般大衆と呼ばれる、「普通の人びと」なのだが、彼の手にかかると、普通ではなくなる。
人間が“むき出しの存在感”を露わにしている。
多くの人にそう見えるように、わたしにもそう見える。そこにあるのは、鬼海弘雄という写真家の強力な磁場である。
あえてジャンルにこだわるとすると、「ぺるそな」は、シリアスな肖像写真集ということになるだろう。しかし、たとえば、タレントだとか、グラビアアイドルだとかの大量に撮影され、大量に流通しているポートレイトと比較し、なんと対照的に見えることだろう。
このジャンルをさかのぼっていくと、フランスのナダールあたりにいきつく。
その後、アウグスト・ザンダーが出現し、肖像写真に変革をもたらす。
そしてさらに・・・ダイアン・アーバスの出現によって、なんというか、決定的な変形をこうむる。
リチャード・アヴェドンがいるではないか、あるいはロバート・メイプルソープが、と。
だれを中心に「肖像写真」を語ろうとするかによって、見えてくるものは変わる。
だが、鬼海さんの場合は、アーバスなのである。わたしの印象でいえば、鬼海さんのポートレイトは、アーバスの直系の子孫ということになるし、学生時代に彼女の作品と出会って衝撃をうけたことを、インタビューかなにかで鬼海さんご本人が語っている。
そんなことを考えながらいろいろググっていたら、つぎのサイトがあった。
☆参考サイト
「ダイアン・アーバスを読む試み」
http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/arbus.html
(このwebへははじめていってみたのだが、たいへん興味深いさまざまな考察と啓示にあふれた高レベルの内容をふくんでいる。)
《撮り手によって、被写体は姿を変えるのだ。それはどういうことなのだろう。写真というのは、カメラが、言い換えれば機械が撮っているのではないのか? 撮り手というのは、シャッターを押しているだけなのではないのか? ひとの「まなざし」というのは、そこまで力を持つものなのだろうか。そのときから、わたしは写真を「何が写っているか」ではなく、「だれが写したか」見るようになった》(上記webより引用)
これはわたし自身、ぼんやりと感じてはいたけれど、うまくことばにならなかったある“真実”を、ずばりといいあてているようにおもわれる。
「ぺるそな」の人物たちは、鬼海さんのまなざしをあびることで、一瞬だけその存在感を露わにした人びとなのである。わたしが「ぺるそな」からうける衝撃とは、おそらくそういうものであるだろう。
露出計もついていないようなオールマニュアルのハッセルブラッドで撮影するためには、シャッターを押すのに時間がかかる。人間をある程度意識的に撮影したことがある人ならだれでも知っているだろうが、人間は一瞬一瞬微妙に表情を変え、しぐさや態度を変えていく。「ぺるそな」には、同一人物の12枚の“連作”があったり、同一人物の十数年後の姿が、左右見開きで収められた作品がある。
それらは「人間とはなにか」について、鋭い考察に満ちているように見えるし、そういった考察をも、無化してしまうようなまなざしに差し貫かれているようにも見える。
何が写っているかではなく、だれが写したのか?
ここに作家性が成立する。
われわれは、映画監督や小説家、詩人と同じように、森山大道について、荒木経惟について、藤原新也について語ることができる。つまり「ぺるそな」とは、鬼海弘雄の世界なのであり、彼によってつくり出され、生み出された世界なのである。わたしが手許に置いて、くり返し見る・・・ある意味で見ずにはいられない写真集とは、そうしたものである。
※ピックアップした写真は、わたし自身の旧作。すべて浅草で撮影。