
(写真と記事には直接の関係はありません)
これがたいへんすぐれた詩であることは、一読しただけで、すぐにわかった。
誤解を恐れずにいえば「賢者の詩」というものがあったら、こういうものだろう・・・というのがわたしの直観だったのだ。
一連三行ずつ、全十一連。長編詩とはいえないけれど、長編詩に匹敵するような豊かな内容と構成の堅牢さ、展開の妙を備えている。歯ごたえがありすぎて、まだ十分読みこなせていないのではないか・・・とわたしは恐れる。
しおり紐はそのへんにある普通のしおり紐でもあるだろうが、もしかしたら<詩>の暗喩でもあろうか? あるいは自分の所有物のすべて・・・死後は遺品として処分されるかも知れないものの「すべて」を指している。少しずつ視点をずらしていくと、そういう読み筋が見えてくる。そこにわたしは感動したのである。
《人の一生は長い時間をかけて
書き上げられる 一冊の本だと
みんなが言うのを信じかけていた私だった
そうではなかった
自分の物語を読み終えたとき 生は閉じられる
ほかの誰も読みえない私だけの物語だった》
ウィキペディアによると《詩人会議は、1962年に発足した「詩の創造と普及を軸にすえた民主的な詩運動」を標榜する詩人集団である》。
つまり、自主的な政治的・社会的行動、発言と詩を書くことが密接にむすびついた詩人の集団なのである。
しかし、そういうことはわたしにはよくわからないし、いわばどうでもいい二次的なことである。
たとえばこの作品。パセティックでもなく、センチメタルでもない、ストイックですらある知的リリシズムは、日本の抒情詩ではめずらしく、内省的な完成度の高い香りを放っている。
そうしてじつに見事なラストシーンがやってくる!
《その日 私と言葉たちがそこから出て行くと
何もかもが消えた 白いページの中で
しおり紐は 見慣れぬ不思議な文字になる》
わたしがここから連想したのは、中島敦の「文字禍」。
本や自身の作品を通して「文字」と長いあいだつきあってきた人でないと、こういう発想はありえない。
そこにわたしの心が激しく共感し、「うん、うん。そうだね。そうですね」と、深くうなずいている。
しおり(栞)は実用的なもの。しかし、紐はあっても邪魔にはならないが、なくてもかまわないものだ。わたしはしおりを愛用している。買ったり読んだりする本には、必ずしおりをはさむ。なければどこかから調達したり、自分で作ったりする。
しかし・・・紐についてはこういうふうに考えを巡らしたことがないので、上手さんに不意を衝かれた。
<喩>をあやつる手際は、第一級の詩人のものであり、選び抜かれた語彙の選択といい、イメージのつなぎ方といい、読後の印象は醇乎たる詩魂の響きをつたえている。
「しおり紐のしまい方」には、鑿のあとが存在しているところも、わたしには見逃せない。
つぎの行でいい換えし、さらにいい換えながら、つぎの行とことばにすすんでいく。まるでことばというさざ波が心の岸辺に何回も打ち寄せてくるように見える。
出会ったのはmixiのレビュー、塩野七生「ギリシア人の物語」第2巻の書評。失礼ながら、「おや~歯ごたえのあるレビューをお書きになっている人がいるぞ」と思ったのがきっかけ。その後お便りを差し上げて、マイミク(一種の相互リンク)になっていただいた。
くり返しになるが、わたしは現代詩を語る資格のない素人だし、「詩人会議」のことも、ほとんど知らない。
したがって、上手宰さんの詩人としての本質を見抜くことなど、不可能である。
そして、わたしの観測によれば、現代の詩人はいわば絶滅危惧種。
だが、絶滅しかけながら、母国語たる日本語が絶滅しない限り生き残っていくだろう。
本作のほか、「大きな本」も、胸に沁みいる秀作。さらに付け加えれば「あて名は『あなた』」「詩集」「飲まず食わずで」など、すぐれた興味深い詩である。
《本をめくる音がきこえる
誰かが私を読んでいるのだ
だがどのページが開かれているのかを
私は知らない》
(「詩集」冒頭)
大学では哲学科をご卒業しているという。
本のレビューを拝見していると、アリストテレス全集の書評に出くわす。哲学・思想というジャンルが苦手なわたしは眼をシロクロ(*-ω-*)
つまりそういった知性と詩魂が、微妙にLINKしているのだろうと想像してみるが、無知な輩があまり踏み込んで書くのは自重しておこう、とんだ的はずれな指摘になりかねないので。
詩人というのは、ことばの実在を信じている人種である。
詩的言語は、コミュニケーションのために使われるのではない。テーブルの上に水の入ったコップがあるのと同じように、ことばはそこにある。
一編の詩を読むとは、それがすぐれたものであるなら、はじめての地へ旅をするのと共通するものがある。一通り読むだけなら数分で済むけれど、内容を玩味しようとすると長い時間がかかる。少なくとも、わたしの場合は・・・。
上手宰さんとは出会ったばかりだ。
これからさらに未読の詩を読ませていただこうとかんがえている。そこでここに述べた印象が変化するかも知れないが、それはまたつぎのステージでの話。
これを書きつづることで、上手宰の詩との第一幕にピリオドを打っておこう(^^♪
これがたいへんすぐれた詩であることは、一読しただけで、すぐにわかった。
誤解を恐れずにいえば「賢者の詩」というものがあったら、こういうものだろう・・・というのがわたしの直観だったのだ。
一連三行ずつ、全十一連。長編詩とはいえないけれど、長編詩に匹敵するような豊かな内容と構成の堅牢さ、展開の妙を備えている。歯ごたえがありすぎて、まだ十分読みこなせていないのではないか・・・とわたしは恐れる。
しおり紐はそのへんにある普通のしおり紐でもあるだろうが、もしかしたら<詩>の暗喩でもあろうか? あるいは自分の所有物のすべて・・・死後は遺品として処分されるかも知れないものの「すべて」を指している。少しずつ視点をずらしていくと、そういう読み筋が見えてくる。そこにわたしは感動したのである。
《人の一生は長い時間をかけて
書き上げられる 一冊の本だと
みんなが言うのを信じかけていた私だった
そうではなかった
自分の物語を読み終えたとき 生は閉じられる
ほかの誰も読みえない私だけの物語だった》
ウィキペディアによると《詩人会議は、1962年に発足した「詩の創造と普及を軸にすえた民主的な詩運動」を標榜する詩人集団である》。
つまり、自主的な政治的・社会的行動、発言と詩を書くことが密接にむすびついた詩人の集団なのである。
しかし、そういうことはわたしにはよくわからないし、いわばどうでもいい二次的なことである。
たとえばこの作品。パセティックでもなく、センチメタルでもない、ストイックですらある知的リリシズムは、日本の抒情詩ではめずらしく、内省的な完成度の高い香りを放っている。
そうしてじつに見事なラストシーンがやってくる!
《その日 私と言葉たちがそこから出て行くと
何もかもが消えた 白いページの中で
しおり紐は 見慣れぬ不思議な文字になる》
わたしがここから連想したのは、中島敦の「文字禍」。
本や自身の作品を通して「文字」と長いあいだつきあってきた人でないと、こういう発想はありえない。
そこにわたしの心が激しく共感し、「うん、うん。そうだね。そうですね」と、深くうなずいている。
しおり(栞)は実用的なもの。しかし、紐はあっても邪魔にはならないが、なくてもかまわないものだ。わたしはしおりを愛用している。買ったり読んだりする本には、必ずしおりをはさむ。なければどこかから調達したり、自分で作ったりする。
しかし・・・紐についてはこういうふうに考えを巡らしたことがないので、上手さんに不意を衝かれた。
<喩>をあやつる手際は、第一級の詩人のものであり、選び抜かれた語彙の選択といい、イメージのつなぎ方といい、読後の印象は醇乎たる詩魂の響きをつたえている。
「しおり紐のしまい方」には、鑿のあとが存在しているところも、わたしには見逃せない。
つぎの行でいい換えし、さらにいい換えながら、つぎの行とことばにすすんでいく。まるでことばというさざ波が心の岸辺に何回も打ち寄せてくるように見える。
出会ったのはmixiのレビュー、塩野七生「ギリシア人の物語」第2巻の書評。失礼ながら、「おや~歯ごたえのあるレビューをお書きになっている人がいるぞ」と思ったのがきっかけ。その後お便りを差し上げて、マイミク(一種の相互リンク)になっていただいた。
くり返しになるが、わたしは現代詩を語る資格のない素人だし、「詩人会議」のことも、ほとんど知らない。
したがって、上手宰さんの詩人としての本質を見抜くことなど、不可能である。
そして、わたしの観測によれば、現代の詩人はいわば絶滅危惧種。
だが、絶滅しかけながら、母国語たる日本語が絶滅しない限り生き残っていくだろう。
本作のほか、「大きな本」も、胸に沁みいる秀作。さらに付け加えれば「あて名は『あなた』」「詩集」「飲まず食わずで」など、すぐれた興味深い詩である。
《本をめくる音がきこえる
誰かが私を読んでいるのだ
だがどのページが開かれているのかを
私は知らない》
(「詩集」冒頭)
大学では哲学科をご卒業しているという。
本のレビューを拝見していると、アリストテレス全集の書評に出くわす。哲学・思想というジャンルが苦手なわたしは眼をシロクロ(*-ω-*)
つまりそういった知性と詩魂が、微妙にLINKしているのだろうと想像してみるが、無知な輩があまり踏み込んで書くのは自重しておこう、とんだ的はずれな指摘になりかねないので。
詩人というのは、ことばの実在を信じている人種である。
詩的言語は、コミュニケーションのために使われるのではない。テーブルの上に水の入ったコップがあるのと同じように、ことばはそこにある。
一編の詩を読むとは、それがすぐれたものであるなら、はじめての地へ旅をするのと共通するものがある。一通り読むだけなら数分で済むけれど、内容を玩味しようとすると長い時間がかかる。少なくとも、わたしの場合は・・・。
上手宰さんとは出会ったばかりだ。
これからさらに未読の詩を読ませていただこうとかんがえている。そこでここに述べた印象が変化するかも知れないが、それはまたつぎのステージでの話。
これを書きつづることで、上手宰の詩との第一幕にピリオドを打っておこう(^^♪