岡山県岡山市吉備津に吉備津神社があります。
吉備津神社は備中の国の一の宮として由緒ある古社で吉備の中山の西麓に北向きに建てられています。中山は古代吉備国では御神体として崇められてきた場所です。中山の山上には宮内庁が管理する大きな前方後円墳などの古墳などが散在していて朝廷と深い関係があったと思われています。
吉備津神社では吉備津彦神社と同じ大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を祀っています。日本紀には第7代の孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍の一人として西国へおもむき、平定したと記されているそうです。
大吉備津彦命は当時吉備地方を支配していた豪族温羅(うら)一族を攻め滅ぼしたといわれています。この討伐の伝承が桃太郎の元になったといわれています。討ち取った温羅はなかなか死なず、髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めましたが、13年の間、唸り声が釜を鳴らし続けたそうです。
そして、大吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば釜は豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう」と告げました。命はそれを受け入れ、それが御釜殿鳴動神事の由来となりました。
社伝によると、吉備津彦命より5代目が吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である大吉備津彦命を祀ったのが吉備津正宮の始まりだと伝えられています。また他に、仁徳天皇が吉備の国に行幸した時に創建したという説もあるそうです。
醍醐天皇の代に制定された「延喜式」には、名神大社に列せられています。その後、一品の位になったことで一品吉備津宮といわれました。明徳元年(1390)、後光厳天皇の命で室町幕府3代将軍の足利義満が応永12年(1405)に再建に着手し、応永32年(1425)に完成させたといわれています。
比翼(ひよく)入母屋造りの本殿は、独特の「吉備津造り」で、拝殿とともに国宝に指定されています。また北隋神門、南隋神門、御釜殿の社殿が国の重要文化財に指定されています。特殊神事の鳴釜神事は上田秋成の「雨月物語」でも有名です。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/
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吉備津神社は備中の国の一の宮として由緒ある古社で吉備の中山の西麓に北向きに建てられています。中山は古代吉備国では御神体として崇められてきた場所です。中山の山上には宮内庁が管理する大きな前方後円墳などの古墳などが散在していて朝廷と深い関係があったと思われています。
吉備津神社では吉備津彦神社と同じ大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を祀っています。日本紀には第7代の孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍の一人として西国へおもむき、平定したと記されているそうです。
大吉備津彦命は当時吉備地方を支配していた豪族温羅(うら)一族を攻め滅ぼしたといわれています。この討伐の伝承が桃太郎の元になったといわれています。討ち取った温羅はなかなか死なず、髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めましたが、13年の間、唸り声が釜を鳴らし続けたそうです。
そして、大吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば釜は豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう」と告げました。命はそれを受け入れ、それが御釜殿鳴動神事の由来となりました。
社伝によると、吉備津彦命より5代目が吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である大吉備津彦命を祀ったのが吉備津正宮の始まりだと伝えられています。また他に、仁徳天皇が吉備の国に行幸した時に創建したという説もあるそうです。
醍醐天皇の代に制定された「延喜式」には、名神大社に列せられています。その後、一品の位になったことで一品吉備津宮といわれました。明徳元年(1390)、後光厳天皇の命で室町幕府3代将軍の足利義満が応永12年(1405)に再建に着手し、応永32年(1425)に完成させたといわれています。
比翼(ひよく)入母屋造りの本殿は、独特の「吉備津造り」で、拝殿とともに国宝に指定されています。また北隋神門、南隋神門、御釜殿の社殿が国の重要文化財に指定されています。特殊神事の鳴釜神事は上田秋成の「雨月物語」でも有名です。
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