京都市宇治市宇治山田に宇治神社(うじじんじゃ)があります。
宇治神社は宇治上神社と二社一体の存在でした。明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれ、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と呼ばれました。明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911)に府社に昇格しています。
延長5年(927)の「延喜式」神名帳に山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」と記載されています。この2座が宇治神社と宇治上神社を指していると思われます。鍬(くわ)靫(ゆぎ)は祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを記しています。
宇治上神社の境内は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮「桐原日桁宮」の旧跡といわれ、そのため離宮明神と呼ばれたようです。菟道稚郎子は応神天皇の皇子で、天皇に寵愛され皇太子になりましたが、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るため自殺したといわれています。
菟道稚郎子は宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルともいわれ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが宇治神社の起源ともいわれます。宇治神社の本殿は鎌倉時代後期の造営で、国の重要文化財です。拝殿は桐原殿とも呼ばれ、間口3間、奥行3間、入母屋造り、檜皮葺きの建物です。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/

日本一周 ブログランキングへ

にほんブログ村

http://blog.fc2.com/
宇治神社は宇治上神社と二社一体の存在でした。明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれ、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と呼ばれました。明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911)に府社に昇格しています。
延長5年(927)の「延喜式」神名帳に山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」と記載されています。この2座が宇治神社と宇治上神社を指していると思われます。鍬(くわ)靫(ゆぎ)は祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを記しています。
宇治上神社の境内は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮「桐原日桁宮」の旧跡といわれ、そのため離宮明神と呼ばれたようです。菟道稚郎子は応神天皇の皇子で、天皇に寵愛され皇太子になりましたが、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るため自殺したといわれています。
菟道稚郎子は宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルともいわれ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが宇治神社の起源ともいわれます。宇治神社の本殿は鎌倉時代後期の造営で、国の重要文化財です。拝殿は桐原殿とも呼ばれ、間口3間、奥行3間、入母屋造り、檜皮葺きの建物です。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/

日本一周 ブログランキングへ

にほんブログ村

http://blog.fc2.com/