旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

清涼寺

2018年06月05日 | 旅 歴史

 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町に清涼寺(せいりょうじ)があります。
 五台山(ごだいさん)清涼寺は大覚寺入口から西へ300mほどのところにあります。「嵯峨の釈迦堂さん」の愛称で親しまれる浄土宗のお寺です。融通念仏の道場としても知られ、浄土宗の元祖・法然上人が、24歳の時に、このお寺の釈尊像の前に7日間籠ったという由緒あるお寺です。
 清涼寺はもとは棲霞(せいか)寺の境内にあった釈迦堂でした。この地は嵯峨天皇の仙洞(嵯峨院)の地で、嵯峨天皇の第12皇子、左大臣・源融(とおる)が譲り受けていました。そして、棲霞観(せいかかん)という山荘を建てていました。
 融は源氏物語の光源氏のモデルになった人物といわれています。熱心な阿弥陀信仰者で、阿弥陀像を造立しようとしましたが亡くなり、遺族が阿弥陀三尊像を完成させました。融の一周忌の寛平8年(896)に阿弥陀堂を建立して安置し、法会を行い、棲霞寺を開いたのです。
 永観元年(983)、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は五台山巡礼のため宋(中国)に渡りました。優填(うてん)国王が造ったとされる栴檀(せんだん)釈迦像を拝して感激し、香木を買い求めて宋で作成し日本に持ち帰りました。奝然は愛宕山を五台山に見立て、清涼寺を創建しようとしましたが夢果たせず亡くなりました。
 その後、弟子の盛算(せいさん)が奝然の志を継ぎました。勅許を得て、棲霞寺の釈迦堂を清涼寺とし、栴檀釈迦像を安置して華厳宗の寺としました。その後、釈迦如来に対する信仰から、他宗の天台、真言、念仏宗を含め、融通念仏の大道場になり、棲霞寺よりも清凉寺の方が高名となりました。
 建久元年(1190)、火災に遭い、その後も度々被災し、応仁元年(1467)の乱では兵火を受け、釈迦堂を除く多くの堂宇が焼失しましが、その度に再建されてきています。享禄2年(1529)には正親町天皇の綸旨を受け、五代堂などの再建に着手し、慶長17年(1612)には徳川家康から97石の寺領が与えられています。
 境内には山門、本堂、聖徳太子殿、阿弥陀堂、一切経蔵、薬師堂、宝物館、弁天堂、狂言堂、鐘楼、多宝塔など多くの堂塔が建ちならんでいます。境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、檀林皇后の墓などのほか豊臣秀頼公首塚などがあり、境外北側墓地には、十萬上人や遊女夕霧太夫の墓があります。

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