京都府八幡市八幡高坊に石清水八幡宮があります。
石清水八幡宮は、木津川、宇治川、桂川の合流点である山崎の左岸にある男山の山頂に上院があり、ふもとに下院があります。川の対岸に羽柴秀吉と明智光秀の天下分け目の合戦が行われた天王山が見えます。京都の西南の裏鬼門に当たり、北東の鬼門にある比叡山延暦寺と対峙しています。
社伝によると貞観元年(859)九州の宇佐八幡宮に参籠していた奈良の大安寺の僧・行教が八幡大神より「吾れ都近き男山の峰に移座して国家を鎮護せん」とのお告げを受けたといいます。翌年、清和天皇が男山に六宇の宝殿を造営して八幡大神をお祀りしたのが始まりだと伝えられています。
標高82mの男山の中腹には霊泉「石清水」が涌き出ていて、石清水八幡宮の名に由来しています。千年の昔、京から大和の長谷寺(はせでら)詣でをする女人たちは、かならずといっていいほど、男山の石清水八幡宮に立ち寄ってお参りをし、旅の無事を祈願したそうです。
石清水八幡宮は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、多岐津毘売命(たぎつひめのみこと)を祀っています。誉田別尊は応神天皇であり八幡大神(はちまんおおかみ)の主神です。息長帯比売命は応神天皇の母親で、多岐津毘売命は海の神です。
天慶2年(979)の平将門・藤原純友の乱が八幡大神の神意によって平定されてからは国家鎮護の社として崇敬され、伊勢神宮に次ぐ第2の宗廟となりました。平安時代中期に清和源氏の流れをくむ源頼信によって源氏の氏神と定められ、源氏の隆盛で、全国各地に八幡信仰が広まりました。
甲斐武田氏の神器として知られる御旗を所有した源頼義が家紋の繁栄を祈願し、その嫡男・義家は石清水八幡宮で元服し、神名の「八幡太郎」を授かっています。武家の守護神として敬われ、源氏、平家、足利、織田、豊臣、徳川と歴代将軍家や戦国武将たちに受け継がれていきました。
石清水八幡宮本社の本殿、幣殿、舞殿、楼門、東門、西門、廻廊は寛永11年(1634)に3代将軍徳川家光によって建造されたものです。本殿は、間口約18mの内殿と外殿を前後に並べ、内部を一体化させた八幡造り(はちまんづくり)と呼ばれる建築様式です。
平安時代後期からの社殿形式を保ちつつ、極彩色の彫刻を施した欄間や飾り金具など、華やかな装飾を備えた完成度の高い神社建築です。平成28年(2016)に本社本殿、摂社武内社本殿、瑞籬、幣殿、舞殿、楼門、東門、西門、廻廊など10棟と棟札3枚が国宝に指定されました。
本殿と外殿は、前面の外殿と奥の本殿の間に相の間が設けられています。本殿は三間社切妻造り、外殿は三間社流造りで、2つの建物の軒に接するところに黄金の樋がかけられています。これは織田信長が社殿を集造した時に、木樋から唐金の樋に変えたものです
吉田兼好の徒然草にも石清水八幡宮の下院の高良神社などをお参りして肝心の上院の本殿にはいかなかった僧が登場します。明治初年に「男山八幡宮」と改称されましたが「石清水」の社号が創建以来の由緒深いものであったため、大正7年(1918)に再び石清水八幡宮と戻されたそうです。
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京都府八幡市八幡高坊に石清水八幡宮があります。
石清水八幡宮の高良神社は旧八幡町の産土神で、境内の摂社の中で一番篤い崇敬を受けています。行教が貞観2年(860)、または貞観11年(869)に創建したといわれています。吉田兼好の「徒然草」には、石清水八幡宮参詣にきた仁和寺の和尚が、間違って高良神社に参詣したことが記されています。
仁和寺にある法師、年よるまで岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりもうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さてかたへの人にあひて、
「年頃思いつることはたし侍りぬ。
聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思いて、山までは見ず」
とぞいひける。すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。
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