長野県上田市蒼久保(あおくぼ)に龍洞院(りゅうどういん)があります。
龍洞院は活文禅師遺跡2号龍洞院敷地、遺墨遺品文書として上田市の指定記念物に昭和44年(1969)に指定されています。
「門無雅客到 坐豈乏清風」
「門に雅客の至るなし 坐して豈(あに)清風に乏しからんや」という漢詩が刻まれている石碑があります。風流な客人も訪ねてこないが、こうして一人で座っていると清らかな風が満ちてくる、意です。
JR信濃国分寺駅に近い国道18号線から下青木(しもあおき)の細い道を1km入ったところに龍洞院があります。永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石(砥石)城主の村上石京大夫が、上田市の神畑(かばたけ)の鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創しました。
現在地の蒼久保には天正5年(1577)に移転したそうです。最も古い過去帳に天正五年という文字があるそうです。この寺は活文禅師が45才の時、住職として迎えられたことで有名です。
活文禅師は松代藩士、森条七の次男として生まれ、10才の時、長和町(旧小県郡和田村)の信定寺に入り得度したそうです。信定寺は天文22年(1553)に武田信玄に攻められた城主大井信定が討ち死にし、その菩提を弔うため建立された寺です。
信定寺は徳川時代に入り、例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まり京都二条城祈願寺となり諸大名が参詣するようになったそうです。
活文禅師は24才の時から7年間、江戸、長崎へ遊学し書や清の言葉などを習得したそうです。江戸に出た後、文化4年(1805)信定寺に戻り、14代の住職になり10年間務めました。
その後、上田の龍洞院の住職に迎えられました。文政7年(1824)、周囲との折り合いがあわず岩門の大日堂に隠居し、文政12年(1829)常田にある毘沙門堂に移り寺子屋などを続け、弘化2年(1845)71才で亡くなったそうです。
近代国家の礎を担った、佐久間象山や赤松小三郎、小布施の豪商・高井鴻山、郷土の彫刻家・竹内八十吉ら多くの著名人を育てたことでも有名です。
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