旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

サニアパーク菅平

2022年10月16日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町大字長字十ノ原にサニアパーク菅平(菅平高原スポーツランド)があります。
 サニアパークは平成11年(1999)5月にオープンした総合スポーツランドです。サッカー、ラグビーができる多目的グランドが5面あります。そして400mトラックのある最新のメイングラウンドの陸上競技場があります。4000人も収容できるそうです。
  各グランドが年間を通し、良質の芝生で覆われ、サッカー・ラグビーの公式試合も開催可能な最大規格の競技スペースを確保しているのです。敷地面積は185221平方メートル(南北約560m×東西約330m)あるそうです。
 気軽にできるマレットゴルフ場なども備えています。公認陸上競技場としては標高1300mという、日本で最も標高の高いところにあります。このことから準高地トレーニングにも最適です。全国の強豪チームの試合にも使われています。

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菅平高原

2022年10月15日 | 旅 歴史

 長野県上田市に菅平高原があります。
 菅平高原は、標高2207mの根子岳(ねこだけ)や標高2354mの四阿山(あずまやさん)、それに連なる山々の総称で本州中央部に位置しています。
 東側には浅間山、高峰高原があり、北側には志賀高原が位置します。一帯は上信越高原国立公園です。
 花の百名山の「根子岳」と日本百名山の「四阿山」のふもとに菅平高原は広がっているのです。中心部の標高は約 1300mです。南北約7kmあり、東西は約10kmの広い高原です。
 菅平はスポーツのメッカになっています。夏のラグビーは全国から800もの団体が合宿の地として集まってきます。77ものグランドは日本一を誇っています。 
 冬はスキー・ボードのメッカになります。コース数36本というトップクラスの規模を持ち、ヨーロッパのウィンターリゾートを思わせる美しい自然も持ち合わせています。
 菅平には菅平高原という名のスキー場はありません。ダボス、太郎、パインビークという3つエリアに分かれているのです。
 ダボスエリアはハンネス・シュナイダーがスイスのダボスに似ていることから、「日本ダボス」と名づけたそうです。シュナイダー、表ダボス、裏ダボス、菅平カントリーがある奥ダボスのゲレンデがあります。
 太郎エリアは東急系のハーレースキーリゾートを含んでいます。太郎、裏太郎、白金、天狗のゲレンデがあります。日の出ゲレンデではナイターができます。
 パインビークエリアは大松山にあるゲレンデです。ダボス・太郎とはリフトなどでつながっていないので車で移動することになります。全日本スキー連盟公認のチャンピオン、グランプリコースがあるオオマツゲレンデと全日本アルペンナショナルチームが合宿に利用したつばくろゲレンデがあります。
 菅平高原には、日本ダボスと呼ばれるダボスの丘があり、スイスのダボスとの姉妹都市を記念したダボスの塔、そして日本に近代スキーを伝えたハンネス・シュナイダーの記念碑が建っています。
 記念碑の前には「父ハンネス・シュナイダー生誕100年・来日60年記念祭に菅平を訪れる」と書かれた碑文がありました。
 このダボスの塔が建っている1平方メートルの土地はスイスの姉妹都市ダボスのものなんだそうです。ダボスには逆に菅平の塔があり、菅平の土地になっているそうです。
 ダボスの丘から見た根子岳(左側)と四阿山(右側)がきれいに見えます。冬のスノーキャット(雪上車)を利用すれば歩かずに根子岳山頂に行くことができます。
 夏は根子岳・四阿山のトレッキングが楽しめます。菅平牧場の入り口で入山料を払ってから2時間ぐらいで根子岳頂上まで歩けます。
 そこから四阿山山頂まで行くこともできます。更に1時間半ぐらいかかりますが。
 菅平高原のラグビー合宿は有名です。有名チームとの対戦の時、近くのコンビニが日本で最高の売り上げをあげたと聞いています。
 ラグビーの歴史古くは昭和6年(1931)から始まったそうです。法政大学ラグビー部が戸倉温泉(現千曲市)で合宿をしていたそうです。
 上田丸子電鉄専務が新築した菅平ホテルを使ってもらえないか話を持っていったのがきっかけとなったそうです。そして法大ラグビー部は8月の中旬、部長以下40名をひきい、始めての合宿練習を行ったそうです。
 早稲田大学ラグビー部も昭和7年(1932)より菅平で合宿を行なうようになり練習試合も行なわれました。その後、同志社、青山学院、日本体育大学をはじめ関東、関西の各大学も菅平に来るようになりました。昭和42年(1967)、日本ラグビーフットボール協会が初めてナショナルチームを編成して菅平での合宿をしたそうです。現在菅平のグラウンドは77面を数え、合宿をするチームは800を越えているそうです。

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唐沢の滝

2022年10月14日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)十ノ原(とおのはら)に唐沢の滝(からさわのたき)があります。
 唐沢の滝は国道406号線沿いで菅平湖と菅平の中心街との間くらいの所にあります。高さ約15m、幅約10mの唐沢の滝は、遊歩道を少し歩けばすぐ目の前で見ることができます。
 新緑・紅葉の頃の美しさは抜群ですが、冬の凍った滝も魅力があります。菅平には多くの洞穴や岩陰がありますが唐沢は最大級だということです。
 この場所は菅平唐沢岩陰遺跡でもあります。標高1240mの唐沢に沿った溶岩流末端には縄文時代や弥生時代のものが発掘されています。
 昭和38年(1963)の発掘調査では縄文式土器、石器、弥生式土器、土師器、骨角器が多数発見されたそうです。

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菅平ダム

2022年10月13日 | 旅 歴史

長野県上田市真田町長(おさ)十ノ原(とおのはら)に菅平ダムがあります。
 菅平への通ずる道を車で登っていくと、右手に大きなダム湖があります。そして小さな休憩所に「歓迎 菅平高原」のモニュメントが建てられています。
 上田・小県(ちいさがた)地方は、日本有数の小雨量地域です。ダム近辺の30年間の実測値でも、年間降水量が800mm程度しかありません。豊富な雪解け水を上田市にの水瓶にするため昭和43年(1968)10月に神川総合開発事業の一環として菅平ダムが完成しました。
 上田市染谷台にある上田市上水道の浄水場に、1日あたり3万トンを供給しているそうです。春は桜、秋は紅葉が素晴らしい景観です。冬は多くの渡り鳥が楽しませてくれます。

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山家神社

2022年10月11日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)に山家神社(やまがじんじゃ)があります。
 山家神社の創建は古く、延喜式神明帳に名をつらねる格式高い神社です。山家郷の産土神として大国主命を祀っています。他に祭神に伊邪奈美命(いざなみのみこと)、菊理姫命を合祀しています。
 古くは四阿山(あずまやさん)を神体としていました。養老年間(717-724)に修験者「浄定」が加賀白山より勧請合祀し四阿山に山家神社の奥宮を建立したそうです。
 山家神社は白山神社を合祀したので、「白山様」ともよばれているそうです。四阿山から流れ出る本流は御手洗(みたらし)の水と呼ばれ、水分(みくまり)の神の宿る神聖な川として大切にされてきました。
 山家神社には四阿山奥宮社殿の扉が残されています。朱塗りで「大檀那幸綱並信綱」「永禄五年」(1562)の文字が記されているそうです。
 これは初代真田の幸隆(幸綱は出家してから一徳斎幸隆と名乗りました)が奥宮社殿を修復したことを示すものです。長子・信綱の名前もあります。
 四阿山は当時、上州・信濃で深く信仰された白山権現の宮であり修験のメッカにもなっていたところだったのです。山家神社はその里宮であり真田氏と修験との関係で真田十勇士の伝説も生まれたのかもしれません。
 真田十勇士は猿飛佐助、霧隠才蔵、海野六郎、穴山小助 、由利鎌之助、根津甚八、望月六郎、筧十蔵、三好晴海入道、三好伊三入道です。根津、望月、海野などは実際に真田に関係する名字です。
 社殿前にある鬼瓦は明治21年(1888)に制作されたものです。三つ巴紋は山家神社の神紋、六文銭は真田家の紋です。

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実相院

2022年10月10日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町傍陽(そえひ)萩に実相院(じっそういん)があります。
 金縄山「実相院」は天台宗のお寺です。神亀2年(725)に行基(ぎょうき)により開創されたそうです。 最初は霊応山慈済寺「実相院」という名だったそうです。
 山号が金縄山(きんじょうざん)に変えたのには理由がありました。参道前に建つ二つの石柱の左側に「田村将軍祈願所」と刻まれています。田村将軍とは坂上田村麻呂のことです。
 将軍が、東征の途中、角間渓谷に住む毘邪(ひや)という鬼を霊験あらたかな馬頭観世音に祈願して捕まえました。この時、鉄の鎖で縛り上げたことから、この山号になったと記されています。
 本堂の前にある石造宝篋印塔は貞治6年(1367)足利将軍の執権であった堀田式部少輔が観音堂の再建と共に建立したといわれています。
 南北朝時代の典型的な関東洋式で塔身東面に「貞治六年三月 日」「一結  敬白」の陰刻銘が見て取れます。県内でもこの種の遺例は少なく貴重な石塔とされています。
 応永3年(1396)雷が落ちたために炎上、天文年間には兵火によりことごとく消失したそうです。
 その後、寛保2年(1743)上田城主の松平伊賀守が本堂を再建したそうです。天明3年(1783)現在の観音様が移築再建され、寛政12年(1800)に入仏供養が行なわれ完成したそうです。
 本尊は木造馬頭観音坐像だそうです。室町時代前半のころの作で、頭上に馬の頭を乗せためずらしい形の坐像だそうです。境内には毘邪の関係か鬼石、鬼松などと名付けられた遺跡も残されています。
 また実相院は山家神社の末寺であった白山寺の本尊であった木彫りの十一面観音像を所蔵しています。神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったためです。
 同じ天台宗だったのでお願いしたのかもしれません。四阿山の白山信仰で由緒と格式のある山家神社の末寺だったそうです。白山信仰は真田十勇士とも関連があったようです。

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長谷寺

2022年10月09日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)に長谷寺(ちょうこくじ)があります。
 長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていました。天文16年(1547)真田氏繁栄の基礎を作った真田幸隆が上州安中の長源寺から伝為晃運(でんいこううん)和尚を招き一宇を真田山種月院「長谷寺」としたことから始まります。
 天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才の長子・信綱が真田家の家督を継ぎました。ところが翌年の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と弟の昌輝がともに戦死してしまいました。
 そのため幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
 長谷寺の参道入口の石垣と、そびえ立つ大きな石門は情緒があります。石門の上部には六文銭が刻まれています。この石のアーチは創建当時のものといわれています。
 真田昌幸は周辺有力三大名の対立を利用しながら、天正11年(1583)頃には小県地方をほぼ支配下に治めたようです。そして父・幸隆の菩提を弔うために長谷寺を改修し諸堂を整備したのです。
 ところが長国寺は慶長5年(1600)第2次上田合戦があり兵火にかかり焼失してしまいました。昌幸は関ヶ原で敗れた後、高野山で蟄居の身になり九度山で慶長16年(1611)他界しました。
 この時、上田藩主は昌幸の長子・信之(信幸)が沼田とともに治めていました。昌幸の遺骨は長国寺で丁重に弔われたと思われます。
 元和8年(1622)真田信之は松代に転封となり、上田には小諸より仙石氏が入封しました。このことで真田氏による土着支配は終わったのです。
 信之は松代に菩提所として同じ読みの「長国寺」を建立し、長谷寺の住職も共に移させました。それから先、長谷寺は長国寺の末寺となっています。
 長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。
 真田幸隆の墓があります。戒名は笑傲院殿月峯良心大庵主です。真田昌幸の墓もあります。戒名は長谷寺殿一翁千雪大居士です。

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信綱寺

2022年10月08日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長に信綱寺(しんこうじ)があります。
 大柏山「信綱寺」は横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺として室町時代に創建されたそうです。横尾城の東の梅ノ木というところにあったようです。
 天文17年(1548)の上田原合戦で横尾氏が滅んでしまった後、真田幸隆の長男である信綱(のぶつな)が打越に移し、大光智照禅師を迎えて大柏山「打越寺」と改称させたようです。
 天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまいます。幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
 首長になった真田昌幸は兄の信綱の牌所として打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えたのでした。
 真田信綱は天文6年(1537)幸隆の長男として生まれました。幼少時、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に父・幸隆らと上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼って落ち延びました。
 後に幸隆が敵であった武田信玄に仕官した時も一緒に付き従い、後に信玄の近習なりました。幸隆と共に信濃や上野を転戦し、永禄11年(1568)弟・昌輝と駿河国攻めの先鋒を担っています。
 永録12年(1569)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功もあげています。天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才で真田家の総領となりました。
 「武田二十四将」の一人に数えられ、信濃先方衆の筆頭に位置するところまで出世していました。三方ケ原の合戦でも活躍しましたが、5年後の長篠・設楽ヶ原合戦で織田軍の3千挺という大鉄砲隊の前に弟・昌輝とともに最期を遂げたのでした。
 信綱の遺体は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が持ち帰りここに埋葬したそうです。その時の血染めの陣羽織や昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められています。
 白川勘解由兄弟は信綱の供養を済ませたあと、殉死したそうです。信綱寺の墓地には信綱夫妻、昌輝の墓の傍らに白川勘解由兄弟の墓も建てられています。

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古城緑地広場

2022年10月07日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)の信綱寺の前に古城緑地広場(こじょうりょくちひろば)があります。
 歴史の丘という六連銭のモニュメントが建てられています。中央に流れている水は真田氏の歴史を貫く時間軸を示し、真田氏の発祥から大阪の役までを表現しているのだそうです。
 この一帯は「内小屋城」というお城の一部だったそうです。赤石による六文銭旗は、大阪冬の陣における真田隊の「赤備え」を表わしているそうです。

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真田氏館跡

2022年10月06日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町本原に真田氏館跡(さなだしやかたあと)があります。
 真田氏館跡は御屋敷公園内にあります。昔からお屋敷と呼ばれ親しまれてきた居館跡です。真田昌幸が上田城を築城する以前に住んでいたところです。
 周囲には枡形状の大規模な土塁がめぐらされています。昭和42年(1967)に長野県の史跡に指定されています。
 規模は東80m、西130m、南160m、北150mの土塁をめぐらせているそうです。その周囲には壕もあったと推測されています。
 敷地内に皇大神社 が建てられています。真田昌幸が上田城に移る際に勧請したといわれています。館内は東から西へと緩やかに傾斜していて、東側の一番高い所に位置しています。
 この館が作られた年代は定かではありませんが、永禄年代(1558-1569)と考えられているそうです。
 この居館の周囲に武家や商人が城下町を形成していたそうです。上田の築城の際、上田の城下町に「原町」という商人町を作り集団移転させました。この地域は元の原町ということで本原(もとはら)と呼ばれています。
 この館は真田本城からは南西下方約800mの所に位置しています。東には天白城、北には横尾城、洗馬城、西には戸石城などがあり堅固な守りになっていました。
 南口を正面とし、枡形の大手門、搦手門(からめてもん)の跡があり、西北隅には土塁に囲まれた厩屋跡があります。館の北側には大沢川が流れていて自然の堀になっています。
 この館は当初は真田信綱のために建てられたようです。信綱が長篠の戦いで戦死したため、昌幸が上田城を築城する前に居住したそうです。

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真田氏歴史館

2022年10月05日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町本原に真田氏歴史館(さなだれきしかん)があります。
 つつじの名所でもある御屋敷公園に真田氏歴史館と真田氏館跡、皇大神宮、マレットゴルフ場があります。
 真田氏歴史館には真田氏に関する貴重な品々が展示されています。昌幸の朱印状や、武具や甲冑、真田家を扱った錦絵などもありました。
 大きなジオラマが作られていて、真田氏ゆかりの郷眺望ができます。真田町の起伏のある地形や要塞・城郭などがわかりやすく配されていました。
 真田三代の活躍が一目でわかる戦いの歴史なども豊富な資料で紹介されていました。

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角間渓谷

2022年10月04日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長字角間に角間渓谷(かくまけいこく)があります。
 紅葉で有名な角間渓谷は信濃耶馬渓(やまけい)とも呼ばれています。この渓谷は旧角間火山に烏帽子岳(2065m)が噴出して、火口を押しせばめてできたものだそうです。
 旧火山の集塊岩に新たに噴出した角閃安山岩などが迫って、長い年月の浸食作用で素晴らしい美しさになっています。
 真田十勇士で有名な猿飛佐助が、戸沢白雲斎に忍術の修行を受けたという言い伝えも残っているところです。
 この角間渓谷は昭和61年(1986)に森林浴の森日本100選にも選ばれているそうです。かもしかに出会うこともあり、猿なども生息しています。
 鬼が城、男石、百間長屋、猿飛岩、鬼の門、獅子の牢、鞍外しの岩など切り立つ岩壁が数百メートルも続いています。220段の石段が真っ直ぐ上に上っています。
 石段の先には岩屋洞窟と呼ばれている大きな洞窟があります。この岩の中の洞窟に堂が建てられていて観音様が祀られています。これが岩屋観音です。
 かつてここは毘邪(ひや)という鬼の住みかで「坂上田村麻呂」が討伐しようとしましたが、妖術に長じ霧にかくれ飛猿の如くすばしこく討つことができなかったそうです。将軍は隣町の霊験あらたかな馬頭観世音に祈願して術を封じてようやく鬼たちを討ち取ることができたそうです。
 その時にこの岩屋に堂宇を建て観音を祀ったそうです。その年は大同元年(806)と伝えられているそうです。
 角間渓谷には天然ガスの噴出や温泉の湧出が各所にみられます。これは観音様の霊力によって湧き出たといわれています。ここの温泉は特に胃腸病、心臓病に卓効があり、親鸞上人の室恵信尼公療養のところとしても知られているそうです。真田一族の隠し湯の一つでもあります。
 この渓谷には一件だけ岩屋館という温泉旅館があります。滝を眺められる部屋もあります。ここの温泉は胃腸によく効くそうです。ビールだと思って飲めば飲めないこともありませんでした。

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真田氏本城跡

2022年10月03日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)に真田氏本城跡(さなだしほんじょうあと)があります。
 真田氏本城は規模の大きな山城です。松尾新城、住連寺城などとも呼ばれています。真田氏が上田城を築くまえの本城といわれています。隣にある天白城とともに馬蹄形状に構築されています。
 本郭は東西8.8m、南北37mの広さです。北へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延長し、その先は急な崖となっています。
 新田大作作詞の真田氏本城の石碑が建てられています。
 山嶽幾重連陣営 縦横布置緻行兵 今朝錦繍一望遠 覇業遙思古本城
 上田盆地への眺望が開け、眼下には小県(ちいさがた)と北上州を結ぶ上州道を押さえています。熊久保集落の上方の沢から山腹を回して城内近くまで水も引いていたそうです。
 ここから見える戸石城は幸隆が武田に組した時、信濃の勇で千曲川流域に勢力を有した村上義清の支配下にありました。父を追放した武田信玄は破竹の勢いで勢力を拡大しました。
 天文19年(1550)信玄は村上軍の前線基地の戸石城を攻めました。ところが戸石城を落とすどころか「戸石くずれ」という大敗北を喫してしまいました。普代の重臣もこの時多く失っています。
 ところがこの翌年、真田幸隆が独力で難攻不落の戸石城を調略し、一夜にしてこれを落城させたというのです。文献では真田が「乗取」という一文があるだけだそうです。

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日向畑遺跡

2022年10月02日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)に日向畑遺跡(ひなたばたいせき)があります。
 日向畑遺跡は松尾城への登り口にあり、小規模な史跡です。昭和46年(1971)に発掘調査が実施されました。石造宝篋印塔が6基、石造五輪塔が11基出土したそうです。
 ほかにも鉄器、古銭、土器、石器、火葬骨なども出てきたそうです。出土した石塔群の形から見て、室町時代から戦国時代にかけての物と見られているそうです。
 武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に、真田幸隆らは上州吾妻へと落ち延びました。戦いの習いで新しい支配者は前の領主の墓を壊したそうです。ですから幸隆以前の真田氏の墳墓と考えられています。

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松尾城跡

2022年10月01日 | 旅 歴史

 長野県上田市真田町長(おさ)に松尾城跡(まつおじょうあと)があります。
 松尾城は松尾古城とか角間の城とも呼ばれたそうです。角間渓谷入り口にあります。狭い尾根にあたり兵を動かすには狭いようです。
 諜報に熱心だった真田氏の物見とも、四阿山に奥の院があった山家神社に関連した宗教的な施設があったとも考えられているそうです。
 この松尾城への登り口に日向畑遺跡ががあります。

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